紅い狼と癒しの魔女 1
レティシアが三百五十年祭の劇に向けて苦悩しつつ、努力しつつの日々を送っている頃。
今日も帰りが遅くなるだろう、親友の身を案じながらセレナは自室へ続く廊下を歩いていた。
セレナの部屋は女子棟の二階にある。この階で寝泊まりしているのは、決して身分が高いとは言えない女性のみ。すれ違うのも、セレナのような辺境の町出身の少女や、ある程度の教養は身につけている、農村育ちの女性くらい。ここらの女性とは既に顔なじみで、同じクラスの者もいた。
彼女らと短い挨拶を交わし、自室のドアの前で鍵を取り出したセレナはふと、目の端に入る物体に気付いた。
ドアとカーペットの間のわずかな隙間。そこにねじ込まれるようにして入れられた、白い封筒。しゃがんでドアの隙間から引き抜くと、それは宛先も送り主の名も書いていなかった。
セレナは真顔でそれを見つめ、そして一旦部屋に入り、テーブルに手紙を置くと自分用の紅茶を入れた。そうして一息ついてから、長方形の白い紙の固まりを手に取った。
無理矢理狭いドアの隙間に差し込まれたらしい封筒は、真ん中あたりでくしゃりと曲がっている。その皺を丁寧に伸ばしてから、セレナはペーパーナイフで封を切った。
中から取りだした便箋を、魔道ランプの明かりに照らす。可愛らしい女性の丸字で書かれた文面は、ある意味予想通りのものだった。
『消えろ』
「……今回のは、今までのどれより短いわね」
ひとりごちるその声は、ちっとも震えていない。これだけを伝えるために消費された便箋と封筒に哀れみを感じつつ、セレナは立ち上がるとフリスビーのように手紙入りの封筒を魔道暖炉の中に放り込んだ。
人工的な魔道の産物である魔道暖炉は餌を与えられてあっという間に燃え上がり、一瞬で手紙を燃やし尽くすとまた、穏やかな炎に戻った。
ゆらゆら揺れる陽炎を見つめ、セレナはそっとため息をつく。
アバディーンからここに戻ってきてから、今のような脅迫状が届くようになった。他騎士団からの嫌みを兼ねた脅迫状は前々から来ていたが、それらは大抵、隊長であるレイドの元に送られた。レイドは真顔でそれらを暖炉にくべていたし、よくある話なので騎士団の皆も笑い飛ばしていた。
では、なぜ今になってセレナに脅迫状が届くのか、その理由はセレナ本人も重々承知していた。
アバディーンでの兵士殺戮事件は、ティエラ王女たちのおかげで明るみに出ることはなかった。新聞にも、殺戮事件のことはオブラートに包んで記されている。よって、セレナがこの件で糾弾されることはあり得ない。
残された可能性は、ただ一つ。
セレナはそっと右手を持ち上げ、自分の胸の前に宛った。昨年の冬まではなかったふくらみが、そこにはあった。
今までセレナは自分の胸がコンプレックスで、毎朝さらしで縛っていた。動きにくくなるのは承知だったが、大きすぎる胸でからかわれたり他人の顰蹙を買ったりするよりはずっとましだった。加えて自分を強調することが憚られ、目立つ行為は避けるためという目的もあった。
だが今は。
コンコン、と軽いノックの音が響き、セレナははっとして考え事を中断した。
一回目と二回目のノックの音を微妙に変える。これは、「彼」が一人で来たことを示す、二人だけの合図。
「……鍵を掛けないのは不用心だな」
「……すみません」
口では戒めの言葉を告げつつも、部屋に入ってきた彼は微笑みを口元に浮かべていた。
彼は後ろ手に鍵を掛け、暖炉の前に座り込むセレナの元へ歩み寄ってきた。
「……浮かない顔だな」
「分かりますか?」
「なんとなく、な」
そのまま、セレナの隣に腰を下ろす。彼の長い赤い髪が、ふわりと靡いた。微かに香るのは、石鹸の匂い。訓練を終えた彼はシャワーを浴びてからここに来たのだろう。髪はまだ、わずかに湿っていた。
レイドはふと、何かに気付いたように暖炉に目線を移した。その灰色の目が燃えさかる炎を映し、そしてその下方で既に灰になっている、手紙の成れの果てを見つめる。
どきり、と胸が鳴ってセレナは慌ててレイドの手を取った。
「あ、の! レイド様……」
いきなり手を取られ、レイドは顔を上げて意外そうに目を瞬かせてセレナを見つめてきた。彼の視線が灰から逸れたのに安堵しつつ、いきなり手を握ってしまい話題がないことに焦ってしまう。
「き、今日もレティシアたちは遅くまで練習しているようですね! さっき様子を見に行ったのですが、皆さんバタバタしてらっしゃって……体を崩さなければいいのですが」
あわあわと舌足らずになりながら捲し立てるセレナ。レイドは一瞬だけ怪訝そうに眉をひそめたが、すぐに穏やかな表情になってふっと笑った。
「そのようだな……だが心配は要るまい。クラートもあれで頑固なところがある。一度決めたことはやり通すだろうし、レティシアに至ってはクラートなぞよりずっと骨が太い。なんだかんだ言いつつも最後までやり遂げるだろう」
「おっしゃる通りですね」
応えつつ、セレナはほっと胸をなで下ろした。
レイドに余計な心配は掛けさせたくなかった。レイドの恋人だということで近頃受けている虐めも嫌がらせも、どれも全てセレナの胸の内に押さえ込んでいた。
クラートやレティシアが劇の練習に出向くことが多く、ディレン隊は普段よりも人手不足だ。二人抜けた分の穴埋めは、思った以上に難しい。そもそもディレン隊は騎士団の中では小規模の部類に入るため、引き受けられる仕事も限られているのだ。
騎士団の仕事のやりくりに追われているレイドを、これ以上悩ませたくない。
レイドが立ちあがり、セレナの手を引いてソファに誘う。セレナは素直に従い、二人並ぶ形でぽすりとソファに腰を下ろした。
「セレナ……」
隣を見ると、レイドがこの上なく優しい眼差しでじっとセレナを見つめていた。隻眼を緩く細め、柳眉をそっと垂らして安心しきった表情でセレナを見ている。
セレナは、レイドのこの顔が好きだった。訓練中の勇ましい彼も好きだが、人前では絶対に見せない、心穏やかな時の彼の表情が一番好きだった。
レイドの言わんとすることを察したセレナは頷き、レイドの頭の後ろに腕を回してそっと、包み込むように彼の頭を抱きしめた。レイドは体をセレナの方に傾げ、目を閉じると縋るように、甘えるようにセレナの腰に腕を回す。
レイドの髪は癖がなく、指先で梳るとさらさらと指の間を零れ、流れ落ちていく。自分の癖の強い髪とは全く違う手触りの髪を撫で、セレナはレイドの背中を優しく撫でた。
「……今日もお疲れ様です、レイド様」
「……ああ。少し、疲れた」
「そうでしょうとも」
これがセレナ以外の相手ならば、レイドは「まだ平気だ」とか「おまえこそ早く休め」とか言うだろうが、セレナの前では素直に自分をさらけ出してくれる。
レイドはディレン隊の隊長として、セフィア城でもそう数の多くないゴールドナイトとして、弱った姿を見せるわけにはいかない。
セレナも、そんな彼の意思を尊重していたし、彼の言い分ももっともだと分かっている。だからこそ、レイドはこうして二人っきりの時には気を緩め、素直な姿を見せているのだ。
レイドは頭の位置をずらし、セレナの肩口に顎を埋めるようにして体を預けてきた。セレナはそんな彼を抱きとめ、ぎゅっと腕に力を入れる。
「……お忙しい中、いつも私の所に来てくださってありがとうございます、レイド様」
「俺がしたくて、しているだけだ」
そう応える声は、少しだけ拗ねたような響きを持っていた。
「……おまえとこうやっていると、楽になる……夜、よく眠れる……」
「光栄です」
セレナはレイドを優しく撫でながら、彼に気付かれないようそっとため息をついた。
今の日々に満足している。レイドは優しいし、毎日忙しい中時間を割いて会いに来てくれる。これ以上贅沢を言うのが憚られるくらいだ。
だが――それでも願ってしまう。
もっと、近くにいたい。もっと、抱きしめてほしい。キスをしてほしい。
胸の奥から吹き出す感情を抑えることができず、きゅっと、レイドの髪を掴んでしまう。
「セレナ?」
「あっ……! すみません、レイド様……」
レイドの体がゆっくりと起きる。休憩の邪魔をしてしまった、と項垂れるセレナだが、レイドはそんなセレナを見つめ、その肩口に掛かるミルクココア色の巻き毛を一房手に取った。
「……何かあるのならば、遠慮なく言ってくれよ」
「レイド様……」
「俺とおまえの仲だろう?」
そう囁き、愛おしむように髪の房に唇を落とす。
違う――とセレナの心が叫ぶ。口付けてほしいのは、そこじゃない。
胸の奥で声にならない絶叫を上げつつも、そんな非情な想いを持ってしまう自分が嫌になる。
「……はい。レイド様」
心の奥の叫びを押し殺すように。ともすれば唇から漏れてしまいそうになる本音を隠すように。
セレナは精一杯の笑顔を浮かべた。
あの日。王都アバディーンの離宮での告白。
側にいてほしいと希うレイド。
あなたを守りたいと願ったセレナ。
長い間両片想い状態だった二人は、あの日ついに想いを通わせた。
顎を繊細な指先に捉えられ、嵐の空のような灰色の目に炎を宿して、セレナに唇を寄せたレイド。
キスされると思った。
キスしてくれると思った。
――あの時は妨害が入ったらしく、それ以上の進歩は叶わなかった。
でも、きっとすぐにレイドは口付けてくれる。初めてのキスを与えてくれる。そう信じていたのだが、無情にも時は流れていくのみ。
今か今かと待っている、唇への熱いキスはいまだにやって来ない。
レイドが帰っていき、静かになった自室で一人。
セレナはベッドに身を預け、切なく疼く体の芯を押さえるように、丸くなった。
――キスしてほしい。
――何もかも忘れるくらい、激しく求めてほしい。
でも、そんなこと口に出して言えるはずもない。
恋愛に対してオープンでないセレナが「キスして」とレイドに請えるはずもなく、真意の読めない恋人のことを想って、今日も一人床に就くしかできない。
「レイド様……」
愛しい恋人の名を呼び、セレナは慰めるように、自分の熱い唇にそっと指を這わせた。




