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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第5部 紫紺の面影
131/188

脇役魔道士の奔走 5

 消灯数十分前に、本日の練習終了。

 大半の役者はへろへろで、ボーレとタリスが颯爽と去っていった後も、しばらく部屋で休んだり、ベランダで涼んだりしている。

 レティシアは真っ先にクラートを探すが、あいにくすでに騎士仲間たちと出て行ってしまったようだ。しゅんとしつつも、致し方ないと思ってレティシアはコキコキ首を回した。クラートだって、同世代の少年たちと語らいたいこともあるだろう。


 ふとレティシアは、部屋の隅でちょこんと座っている美少女を目にした。


「お疲れ、ティーシェ」


 ティーシェは床に座り込んで水筒で水を飲んでいたが、レティシアを見て目を輝かせた。


「お疲れ様です、レティシア様」

「いや、私はまだ出番なかったしそれほど疲れてないけど」


 ティーシェが促したため、レティシアは彼女の隣に座った。ティーシェはレティシアに向かってにこっと微笑んだ後、水筒から新しい水を汲んで上品に飲んでいる。


 レティシアはそんなティーシェを、ちょっとだけ羨ましい気持ちで見ていた。自分でも言ったように、疲れてはいないが数時間部屋に籠もりっきりだったので少々喉は渇いている。だが水筒を持ってこなかったのは自分のミスだ。

 ティーシェはレティシアの視線に気付いたのか、コップの口の部分をハンカチで拭うと新しく水を注いで、レティシアに差し出してきた。


「レティシア様も、よかったら一口どうぞ」

「え?」

「喉が渇いてらっしゃるでしょう。お部屋に戻る前に一口いかがですか」

「……あ、ありがとう……明日からは自分で持ってくるよ」


 レティシアはティーシェの好意をありがたく受け、コップを受け取って一気に煽った。喉越しがよく、後味に柑橘系の風味がする。

 しばらく口の中で風味を楽しんだ後、レティシアはティーシェと同じようにコップの口元を拭いた。


「これ、何か入れてる? オレンジっぽい味がするけど」

「グレープフルーツの果汁を入れています。あと、塩分補給のためにお塩を少々」

「塩? でも全然しょっぱくない……」

「お塩は本当に少量ですし、グレープフルーツもそう多くはありません。しかし水だけでは体によくない……と言いますか、体に必要な塩分が取れないのです。だから塩分や果汁も入れるようにしているのです。お母様から教わったのです」


 なるほど、とレティシアは頷く。農作業をしていたルフト村では、塩分補給のために岩塩を舐めていた。とてもではないが美味しいとは言えない代物だが、汗を出しすぎて倒れてしまっては元も子もないので我慢して舐めていた。

 だがこうして、水に一工夫するだけでも効果があるのだ。岩塩を舐めるのを嫌がる村の子どもたちも、柑橘類と塩を混ぜた水なら喜んで飲んでくれるだろう。


「お水ありがとう。それと……勉強になったよ」

「お役に立てたようで何よりです」


 ティーシェは静かに微笑んだ。


 二人が休んでいるうちに、ぽろぽろと役者たち部屋に戻っていった。見た限りでは、レティシアより年下の方が比率が高く、皆レティシアややティーシェの薄鼠色マントを見て軽く頭を下げてきた。


「……ティーシェって、女優の才能もあるんだね」


 部屋を出て行く生徒たちの背を見ながら呟くと、ティーシェはこっくりと頷いた。


「ありがとうございます。実は、カトラキア城にいた頃からお芝居は好きでしたの」


 そう言い、ティーシェはわずかに目を細めて昔を懐かしむような眼差しになった。


「あちらには演劇クラブというものがありまして、わたくしもそちらに所属しておりました。クラブといっても活動は本格的で、カーマルの大手劇団から教えを請うたり、皇都に上がって貴族の方相手に劇を披露することもありました」


 へえ、とレティシアは感心の相槌を打つ。


 カトラキア城とセフィア城では気風が違う。こちらでは劇といっても、一般市民公開が基本らしいが、貴族社会主義のカーマルでは規模も違うようだ。

 レティシアは嬉々としてカトラキア城での生活を語るティーシェを見、少し躊躇った後聞いてみることにした。


「カトラキア城は……楽しかった?」

「ええ。気の合うお友だちと一緒にお茶会したりお喋りしたり……趣味に打ち込めるのもよい点でしたね」


 でも、とティーシェはわずかに声を固くした。


「……セフィア城に来てみて分かりました。カトラキアとセフィアは、同じ目的を持ちつつも相反する存在であるのですね」

「相反する……」

「ご存じだと思いますが、カトラキア城には庶民はいません。入学できるのは爵位保持以上の貴族の子女、もしくは首都で暮らす裕福な商人や役人の子どものみ。そうするとどうしても、見解が狭くなってしまいます。カトラキア城の方がお金はあるようですが、セフィア城でしか学べないこともたくさんあります」


 静かに語るティーシェの言葉を、レティシアは少しだけ意外な気持ちで聞いていた。


 昨年の冬にレティシアたちと一緒にティエラ王女護送隊に加わっていた、カトラキア城出身の女性魔道士たち。彼女らは貴族気風のカトラキアを恋しく思っており、平民と一緒に仕事をすることを嫌っていた。

 だが、同じカーマル帝国カトラキア城出身の貴族の子女であるティーシェは、セフィア城のことを貶さなかった。ここでしか学べないことがあると語った。


(そういえば……)


 ふと、疑問が胸に沸き上がった。そもそもなぜ、ティーシェはカトラキア城からセフィア城に編入してきたのだろう。あれほど貴族のお嬢たちが褒め称えるのだから、きっととても過ごしやすい教育機関なのだろう。そんなカトラキア城から、わざわざここまで来たのだ。

 身分の貴賤を問わず様々な生徒が共存し、時には物騒な事件や喧嘩にも巻き込まれる。セフィア城内では身分が通用しないので、基本的に喧嘩両成敗になる。下級生と一緒に泥だらけになって作業したり、定期的に行われる遠征実習では汗だくになって野外活動をしなければならない。そんなセフィア城にわざわざ来るというのも、意外な話だ。


(家の都合とか? それだったら突っ込んでは聞けないよなぁ)


 一人考え込んでいたレティシアだったが。

 ふと、自分の足元が暗くなった。


 あら? と隣のティーシェが声を上げる。レティシアも疑問に思って顔を上げると。


「……よう、おまえまだ生きてたんだな」


 意地悪な声と、性根の曲がった顔。世の中を完全に舐め腐っているかのように歪められた唇。


 レティシアの目の前に立つのは、まだ幼さ残る顔立ちの少年魔道士だった。声変わりしたてらしく、声が所々掠れている。マントの色は薄い黄色――ライトマージの証だ。

 少年は胸の前で腕を組み、唇の端を吊り上げて嘲笑していた。


「だがまさか、役者にまでなったとはなぁ。お得意のずりぃ手で役を買収したってところか?」

「は?」


 訳が分からず、レティシアは間抜けな声を上げた。言っている意味が分からない。


(というか、あんた誰だ……あ、ひょっとして)


「あんた、さっきの舌打ち少年?」

「んだよその名前は! 脳みそ腐ってやがるのか!」


 そうだ、とは言わなかったが、一人で激昂することからしてレティシアの予想は当たっているのだろう。思い返せば、劇の練習の最初にレティシアが紹介されたときも、彼はただ一人だけ興味なさそうにしていた。

 少年はレティシアの反応が不服だったらしく、床に垂れるレティシアの灰色のマントを見て鼻を鳴らした。


「本当に頭の中まで泥まみれだな。つーか、スティールマージになったから偉くなったって気分か? どこぞのお嬢様まで引っかけて、ほんとおまえ、クズ女だよな」


 だからあんた誰だ、とレティシア心の中だけで突っ込む。先ほどの呟きの時もそうだったが、口に出したらどうせ、いい展開にはならないだろう。


 レティシアは三白眼で少年を見上げ、ふいっと視線を反らしてやった。ルフト村近辺で野犬が出たときも、目線を反らすよう教わっていた。じっと目を見ていたら敵意識を持たれるのだ。

 反らしてから――ふと、こんなやりとりを以前にもしたことがあるような気がしてきて、眉をひそめる。一体、いつの話だっただろうか。


 周囲の者たちは、我関せずとばかりに去っていく。どちらかというと、関心がないというよりは意識して、この少年を避けているようだ。

 一方、二人に挟まれる形になっていたティーシェは目をぱちぱちさせ、一人いきり立つ少年と、冷めた表情のレティを交互に見る。


「……レティシア様、お友だちですか」

「んなわけねぇだろ」


 レティシアが聞かれたのに、なぜか少年の方が答え、くるりとティーシェの方を向く。

 ティーシェを見る少年の目つきは一気に和らいだが、それでも目の奥に宿る陰鬱な炎や、相手を馬鹿にするような口元は変わらない。


「なあ、お嬢さん。この女に近寄るとろくなことがねぇぞ。なんせこいつ、ずりぃ手を使ってスティールマージになったし、編入したくせに炎の魔法すら使えない出来損ないだったし、貧乏な田舎出身だしよ。一緒にいるとお嬢さんの評判下がるぜ」


 言いたい放題に言われ、さすがにレティシアはムッとする。と同時に、少年の言い方に何か思い出しそうになって眉をひそめた。


(やっぱり、前にもこんなことがあったような……)


 記憶の糸をたぐり寄せて首を捻るレティシアと、やはりそんな彼女の態度に腹を立てる少年。

 ティーシェはひたと少年を見据え、そして一つ瞬きした。


「……あなたのおっしゃりたいことは分かりました」


 ティーシェは静かに少年を見つめ、愛らしい顔にわずかに緊張を走らせた。


「しかし、わたくしが誰と交友関係を結ぼうとわたくしの勝手です。あなたのおっしゃる通り、レティシア様は編入の身で、農村出身です。しかし、だから何か不都合が起きますの?」


 毅然とした物言いに、少年はもちろん、レティシアも思わぬ展開にぽかんと口を開けるしかできなかった。


「レティシア様はとても素晴らしい方です。わたくしを三百五十年祭の劇の役に挙げてくださったのも、セフィア城に不慣れなわたくしを教えてくださったのもレティシア様です。わたくしはそんなレティシア様を尊敬していますし、あなたがおっしゃるような方だとは微塵にも思っておりません」


(いやいや、それは褒めすぎでしょ!)


 レティシアは俯いて顔を赤らめる。ティーシェほどの美少女に熱を込めて自分を褒めちぎる言葉を吐かれると、どうしても気恥ずかしくなる。過大評価だ、もうやめてくれ、と土下座してティーシェに懇願してしまいそうだ。


 一方、少年も違った意味で顔を赤くし、ティーシェのご機嫌を伺うような表情から一転、ティーシェを忌々しそうに睨んだ。


「……俺はちゃんと忠告してやったからな!」

「ご厚意のみお受けします」

「……けっ! どいつもこいつもクズばっかりだな! 後悔するなよ、金喰い貴族の狗め!」


 少年は分かりやすい捨て台詞を吐き捨てて部屋を去っていく。

 レティシアは、その背中を見て、大きく目を瞬かせた――


『クズ共は引っ込んでろ!』


 少年の声が脳裏に響く。犬歯むき出しにして怒鳴る幼い少年。我を失って魔法を発動させようとする、少年魔道士。


(思い出した……)


 二年前の秋、セフィア城に編入したばかりのレティが入った十二歳クラス。魔法を使えないレティシアを嘲った、年下の少年。セレナの力を借りてようやっと魔力を開花させたレティシアを「ダメ先輩」と呼んだ彼。


 レティシアは、部屋を飛び出していった少年の後ろ姿を見る。誰も、彼に話しかけようとはしなかった。皆、遠巻きに彼を見てひそひそ噂するのみだ。


 二年前は、まだ彼の周りには取り巻きがいた。でも、今の彼には寄り添ってくれる人はいない。


(そりゃあ誰だって、クズ共なんか言われたら付き合いたくなくなるよね)


 誰にも相手にされない、独りぼっちの少年。相手を貶し、自分がのし上がろうとする故に孤立した、かわいそうな子ども。


 遠い眼差しになったレティシアを気遣ったのか、ティーシェがそっとレティシアの顔を覗き込んできた


「レティシア様……?」

「ううん、何でもない……私たちもそろそろ上がろう」


 遠くで、消灯のチャイムが鳴る。レティシアは立ち上がってポンポンとローブに付いた埃を落としていたが、逆にティーシェは座り込んだまま、何か考えるように俯いている。


「ティーシェ?」

「……ああ、ごめんなさい。すみませんレティシア様、私はもう少し休んでいたいので、先に帰っていただいてよろしいでしょうか?」


 そう言うティーシェの声は確かに艶がない。レティシアはぎょっとして息を呑んだ。


(ひょっとして、さっきのやりとりで疲れさせてしまったとか……?)


 だがティーシェはレティシアの心の内を読んだかのように、静かに微笑んだ。


「お気遣いなく、レティシア様。わたくしは運動不足ゆえ貧弱で……すみません、少し休んだら帰れますので、お先にお帰りになって、しっかり水分を取ってくださいませ」

「……分かった」


 確かに、相当疲れているのだろう。ここで言い合いしてもよりティーシェが疲れるだけだ。


「また明日ね、ティーシェ」

「はい」

「明日こそ、ちゃんと水筒持ってくるから! じゃあ、お休み」

「はい……お休みなさいませ」











 レティシアが去ってゆく。彼女の後を追うように、最後に残っていた女性魔道士がドアの前で振り返り、鍵を頼むとティーシェに言った。


 ティーシェは彼女に向かって頷きかけ、そしてぱたんと閉ざされたドアをじっと見つめた。


 レティシアは優しい。真夏の太陽のように明るく、そして暖かい。

 その手はティーシェの手より大きくて、少しだけがさついている。節くれ立っていて、爪も短く切られている。

 それでも――とても温かい手。冷え切った自分の手で触れることすら躊躇われる、優しい手。


 自分のように、誰かに守られてきた者ではなく、誰かを守ってきた者の手。これからも誰かのために立ちはだかるのだろう、強さを持った大きな手。


「……レティシア様。あなたは……わたくしが本当のことを言っても、仲よくしてくださりますか……?」


 ティーシェのつぶやきは、誰の耳に届くことなく夕闇の中に消えていった。

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