脇役魔道士の奔走 4
翌日の夜、夕食の後。
レティシアは台本片手に、劇練習会場へ向かっていた。一昨日渡されたばかりの台本だが、二日間でできる限り読み込んだため表紙はわずかにくたびれ感が出ており、ページの端々も折れ曲がっている。
三百五十年祭の準備期間であるこの時期、第四講堂を実行委員会で貸し切り、劇の準備に使っているそうだ。
レティシアはすっと息を吸い、今までは通り過ぎるだけだった、第四講堂――「三百五十年祭『聖槍伝説』劇準備会場・無関係者お断り」との札が下がっている――のドアを押し開けた。
講堂内では既に、ほとんどの役者が揃っていた。広い講堂の中央には、一段高くなった簡素な板製の練習用舞台が据えられ、部屋のあちこちには大道具らしい舞台セットや作りかけの衣装、蓋が開いたままのペンキの缶などが転がっていた。むわりと漂うのは、樹脂を溶かして作ったニスの匂いだろうか。
慣れない匂いに鼻をひくつかせつつ、レティシアは講堂に足を踏み入れた。
壁には、大きめの日めくりカレンダーが掛けられていた。誰かのお手製らしいそれは、歪んだ「三十二」という数字を示している。
役者は二十人少しといったところか。見たことのない人物が多数だが、ぽつぽつと侍従魔道士団の同級生や、どこかで見たことのある騎士の姿が見られた。
人混みの向こうにちらとクラートの姿が見え、レティシアは思わず胸に手を当てた。同世代の仲間と一緒に談笑するクラートの笑顔は、いつも以上にキラキラ輝いて見える。なんだか居たたまれない気分になり、レティシアはそっと彼から視線を反らした。
クラートが仲間と一緒にいる一方、ティーシェは窓辺の席に座り、一人で台本を読み込んでいた。かといって疎外されているわけではなさそうだ。何人かの少女たちがティーシェに挨拶し、ティーシェも笑顔で返している。ただ単に一人が好きなのかもしれない。
何気なくそちらを見ていたレティシアは、ティーシェと目が合って瞬きした。ティーシェと会うのも、少しだけ気が引ける。
だがティーシェはレティシアに気付くと、台本を膝に置いて笑顔で手を振ってきた。裏のない天使の微笑みに、思わずレティシアの口元も緩む。
「全員集まったようだな」
朗々とした声と共に、ボーレとタリスが登場した。二人並ぶとタリスの方が背が高い上、プラチナブロンドの髪は否応にでも目立つので、実行委員長の方が埋もれてしまっている。そしてこの場を仕切るのも、どうやらタリスの役目のようだ。
タリスは壁のカレンダーに歩み寄ると、慣れた仕草で一枚はぐった。「三十一」の数字を一度軽く叩き、中央のお手製舞台の前に立ってよく通る声を上げる。
「皆も知っているように、今日から新しい仲間が入った」
皆、心得たようにレティシアの方を見てきた。レティシアは台本を抱えてその場で軽くお辞儀した。この場にいるのは皆、レティシアより先輩の役者なのだからきちんとしなければならない。
「レティシア・ルフトです。よろしくお願いします」
大きな声で自己紹介すると、ほとんどの役者たちが軽く頷きかけてくれた。
そんな中。
チッと舌打ちの音がする。顔を上げると、役者たちの中で唯一、不機嫌そうに壁にもたれかかってこちらを見る少年が。おそらく先ほどの大きな舌打ちは彼が発したのだろう。レティシアより年下で、侍従魔道士の出で立ちをしている。初対面のはずなのに、彼が放つ殺気は異常だ。
(……あれ、誰?)
首を捻るレティシア。タリスは舌打ち少年を見、視線を戻して声を張り上げた。
「何にせよ、ここからが正念場だ。三百五十年祭まであと三十日といったところだ。私たちの担当する劇は、祭の花形でもある。アバディーンや近隣の諸侯の方もいらっしゃるのだから、気を抜いてはならない」
そうなのか、とレティシアは初めての情報に目を丸くする。
副委員長の挨拶の後、実行委員長であるボーレがようやく前に出て、使用感のある台本をめくった。
「では今日はまず、物語の頭――ルーシ王女の誕生日の朝から、隣国の王子来訪までのストーリーをさらっていこう。出番のある人は舞台の脇へ、それ以外の人は部屋の隅で各自練習だ」
ボーレの指示を受けて、レティシアは急いで台本をめくる。昨日と今日で必死に台本を読み、セレナの薦めを受けて自分に関連のあるところには線も入れた。
レティシアの役である「聖女の配下の若いシスター」は、ルーシ王女が家来と共に王城から逃亡するシーンで初めて登場する。しかも、その幕での出番は一言のみ。今日の所は壁際練習で済みそうだ。
ルーシ王女役を始めとした役者が舞台に上がる中、レティシアは他の役者に紛れてそそくさと壁際に向かった。既に他の役者たちは台本を開き、大きな声を出して台詞を読む練習をしていた。やはり彼らはしっかりと声が出ており、発音も明確だ。
(早く、私もあのレベルまで追いつかないと……)。
レティシアはきょろきょろ辺りを見回した。クラートはずっと向こうの方で、同じ騎士の少年と台詞の読みあいっこしている。きっと近い役柄なのだろう、気にはなるが邪魔しない方がいいだろう。
ティーシェは早速出番があるらしく、舞台脇の列の最後尾に並んでいる。可愛い顔を真剣な面持ちにし、台本を一生懸命睨み付けていた。
周囲の役者たちは朗々と声を出しているが、どうしても声を出すのは憚られた。昨夜も自室で発声練習はしてみたのだが、誰もいない自室で一人芝居のように声を出すのは勇気がいる。レティシアが使っている部屋はどうやら防音機能もあるそうだが、やはり恥ずかしかった。
(今の内にしっかり声を出しておこう。タリスは厳しいみたいだし……)
舞台の方では、タリスの指揮で役者たちが整列していた。こういうのも彼女の仕事らしく、実行委員長のボーレは委員席に座り、まったりお茶なんか飲んでいる。ちぐはぐな光景だが、きっとこれで実行委員会はうまく成り立っているのだろう。
「ではまず、誕生日の朝のシーンから。声を出すのはもちろん、動作もチェックしていくからな」
タリスの指示で、淡い亜麻色の髪の少女が舞台に向かう。レティシアより一つ下といったくらいで、そばかすの浮いた顔からは緊張が見て取れるようだ。さすがに鎧は脱いでいるが、制服とその華奢だが筋肉がしっかり付いた体躯からして、騎士団に所属しているのだろう。
ルーシ王女役の少女は、緊張の面持ちで舞台の中央に立った。
「ああ、本当に誕生日会なんて……」
ピーッと笛が鳴る。レティシアも他の者も、顔を上げる。見れば、舞台脇の椅子に座っていたタリスが険しい顔でホイッスルをくわえていた。
「アネット! 何度言えば分かる! おまえの台詞には、全く心がこもっていない!」
タリスは、眉間に深い皺を刻んで叱咤する。その声量は、先ほどの挨拶の時とは比べ物にならない。細身の女性が発しているとは思えない大音量で、壁に立てかけている大道具セットがビリビリ振動した。
「ルーシ王女は、誕生日会を嫌がっている……おまえの今の台詞では、王女の思いが全く通じない! もう一回!」
その後もタリスは少女に何度も檄を飛ばし、やり直しさせる。タリスのオッケーが――かなり渋々ではあったが――出たときには、既にルーシ王女役の少女はフラフラになっていた。まだ、序盤中の序盤だというのに。
レティシアは自分の練習も忘れて、舞台上の練習に見入っていた。ルーシ王女役の少女がはけた後も、タリスの怒号は止むことを知らない。明らかにタリスより年上と思われる青年騎士でさえ、タリスに叱咤されてしゅんと萎れていた。
ややあって、ティーシェが舞台に上がった。台本によると、舞台の背景が変わってルーシ王女役と一緒に登場することになっているが、あいにく王女役の少女は部屋の隅でへばっている。
友人に扇子で風を送ってもらっている少女を置いておいて、ティーシェは堂々と舞台に立った。そしてタリスを始めとした皆が見つめる中、大きく腕を振り上げた。
「ああ、姫様、このようなところにいらっしゃったのですね」
細身であるが、ティーシェの声はタリスに負けず劣らず明瞭で、講堂内に響き渡った。
彼女は腕を降ろし、ため息と共に横を見る。本来ならばそこにルーシ王女役がいるのだが、少女は休憩中。独りぼっちの舞台だが全く気にした様子もなく、ティーシェは流れるように台詞を言う。
「仕方ないでしょう、もうじき姫様のお誕生日会が始まりますもの。さあ、お召し物を替えに参りましょう」
あっという間の出番だったが、ティーシェはしずしずと退場する。
タリスは舞台から降りたティーシェの後ろ姿を見つめ、脚を組んでしばらく黙っていたが、徐に口を開く。
「……所々声が裏返っているのに注意しろ。あと、振り返るときには爪先をまっすぐ前に向ける――以上。なかなかの出来だ」
滅多にない、タリスの一発合格。
ティーシェは振り返って笑顔でタリスにお辞儀をした。ターンするとき、きちんとタリスが言った注意点を直せていることにレティシアは内心舌を巻いた。どうやらティーシェは役者としての元々の才能も高いようだ。レティシアだったら、今し方言われたばかりの訂正箇所をその場ですぐに直せる自信はない。
(やっぱり……ティーシェは凄いんだ)
既に舞台では次の場面が繰り広げられている。
ティーシェはそんな舞台上を、凛とした眼差しで見据えていた。




