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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第5部 紫紺の面影
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脇役魔道士の奔走 2

『ひとまず、台本を読み込んできてくれ』


 ボーレはそう言って、レティシアに真新しい劇の台本をくれた。ごつめの紐で綴じられているそれは、ずっしりした重量をもってレティシアに役目の重さを教えているかのようだった。

 ボーレの部屋から出ると、少し離れた場所の壁に寄り掛かっていたクラートが顔を上げた。そういえば彼を待たせていたんだっけ、と思い出してレティシアは台本を胸に抱えて頭を下げた。


「すみません、クラート様。お待たせしました」

「いいよ。僕も待つ間に涼めたし」


 クラートはそう言って笑った。確かに先ほどのように汗を掻いておらず、幾分気分も楽になったようだ。

 クラートはレティシアが抱える台本を見、わずかに目を細めた後、唇を開いた。


「……台本、もらったんだね」

「……はい」

「台本を読む必要もあるだろう……夕食まで時間があるから、少しテラスに出ないか?」


 クラートからのお誘いを二つ返事で承諾し、二人は中庭が臨めるテラスに向かった。

 行きと違って、クラートはレティシアと手を握ろうとしない。ひょっとしたら彼の耳にも、タリスの呟きが聞こえたのかもしれない。


 レティシアは両手がお留守にならないよう、必要以上に台本をきつく抱えて彼の後に付いていった。

 もうすぐ夕食という時間だが、テラスは今日も盛況だった。勉強に勤しむ下級生や、何やら仕事の話をする騎士団。お喋りに夢中な女性陣もいれば、はたまた今にもキスしそうな熱い雰囲気の恋人たちまでいる。


 クラートとレティシアはキス寸前の恋人の横を、何となく気まずい空気で通り過ぎた後、唯一空いていた壁際の席を取ることにした。


「……詰まるところ、君も役者になったんだね」


 台本をテーブルに置くと、クラートが苦笑混じりに聞いてきた。そして、わずかに声のトーンを落とす。


「さしずめ……昨夜起きた脅迫状事件絡みってところかな。主役級であるティーシェが降りたという話は聞かないから、他の役の子が取り乱して役から降りたってことかな。一人、すごく怯えている子がいたから、その子が降りたのかな」


 さすがクラート、その程度のことは察しが付いていたようだ。

 レティシアは頷き、台本を開いて役者一覧の場所を示した。


「これ……『聖女の配下の若いシスター』役です」







『そういえば……大切なことを言ってなかったな』


 あの後。タリスはぽんと手を打った。


『君に任せる役だが、それほど出番が多いわけではない。台詞も少なめだから、覚えることも少ない方だろう』


 そう言ってタリスは、役者一覧の所にある、「聖女の配下の若いシスター――ラストで少年騎士と駆け落ちする聖女を庇って囮になる。その後、聖女と騎士の結婚式の司祭役を担う」の箇所を示した。


 レティシアが衝撃を受けたのは一瞬だった。ある程度の覚悟はしていたため、レティシアは固く頷いた。


 聖女と少年騎士の結婚――つまり、ティーシェとクラートの二人が舞台上で結婚式を挙げるのだ。レティシアは女性司祭として、二人の結婚を祝福する立場になるのだ。


(所詮劇でしょ。ティーシェもクラート様も、役者としてするんだから)


 劇で結婚式を挙げるのは、あくまでも「聖女」と「少年騎士」。そこに、個人の私情は入らないのだ。


 ――それでも。


(もし、劇がきっかけでクラート様がティーシェのことを好きになったら……?)


 いつか夢に見た、図書館で寄り添うクラートとレティシア。

 そこで、レティシアの位置にいるのがティーシェになってしまったら。

 レティシアは夢の時と同じように、遠くから二人の姿を見つめるしかできなかったら。








「……レティシア?」


 機能停止したレティシアを気遣って、クラートが顔を覗き込んでくる。間近に端正な顔が寄せられており、レティシアははっと覚醒し、ごまかすように笑ってみせた。


「あはは……すみません。やっぱり役者になると思うと緊張して……」


 言葉途中でレティシアは口をつぐむ。自分を見つめるクラートの眼差しが、ひどく切なく、居たたまれないように揺れていたのだ。


(……クラート様?)


「……どうして、こんなことになったのだろうね」


 落胆のような、後悔のような不思議な音色を持つクラートの呟きに、レティシアは首を傾げた。


(どうして、クラート様が後悔されるの?)


「クラート様が気に病むことじゃありませんよ。悪いのは逆恨みで脅迫状を送った輩ですし……それに、たとえ自分に関係なくても劇団に脅迫状が届けば、そりゃ誰だって動揺しますよ。そんな脅しにも屈しないんですから、ティーシェは強いですよね」

「ティーシェが強い?」

「だって、脅されても応じずに役をこなそうとしているでしょう。賛否両論かもしれないけれど、私はティーシェの気合いに感服です。ティーシェに比べれば、私の決意なんてちっぽけなものです」


 言っているうちに自信がついてきて言い切ったのだが、クラートは何か考えているかのように俯いている。ひょっとして今の言葉が気にくわなかったのかと、レティシアは少し身を乗り出した。


「それに! ほら、ティーシェってカーマルから来たお嬢様でしょう? それに対して私は芋掘りが得意な元農民ですから! 子どもの頃から村の男の子と喧嘩してましたし、ちょっとやそっとじゃ折れませんよ!」


 ほら! とローブの裾を捲ると右腕を曲げて力こぶを作ってみせる。おおよそ淑女らしくも少女らしくもない行動だが、クラートを明るくさせようとレティシアは必死だった。

 クラートは顔を上げてそんなレティシアを見、しばしの沈黙の後ふっと破顔した。それを見、レティシアもほっと息をつく。


(やった、笑った……!)


「……どうやら、僕の心配は杞憂に終わりそうだね」

「何がですか?」

「いや……ただの独り言だよ」


 そう言って笑い、クラートは顔を上げた。つられてレティシアも周囲を見渡す。


 そろそろ夕食の時間もピークのようだ。ついさっきまで人でごった返していたテラスは既に人影まばらになり、夕焼け色の空も徐々に面積を狭め、濃紺の夜空が流れてきていた。


「……もう夕方もおしまいか」

「これからどんどん、日の入りは遅くなりますよ?」

「それもそうだね」


 クラートはわずかな夕暮れ色を遠い眼差しで見、立ち上がった。


「そろそろ食堂に行こうか……あ、その前に台本だけ部屋に置いていくかい?」

「そうですね。ご飯の時に汚しちゃいけませんし」


 二人はテラスを出て、照明が点き始めた廊下を歩いていた。食事に向かう生徒たちの話し声に混じって、遠くから教師の説教する声が響いてくる。また誰かが校則違反をしたのだろうか。


「レティシアの練習はいつから?」

「明後日からだそうです。クラート様は明日もあるのですよね」

「ああ……といっても、ミーティングになるだろうな。大道具も手伝わないといけないらしいし」


 僕は美術は得意じゃないんだよ、とクラートは自分の手の平を見つめて苦笑した。


「木工も苦手だし、絵画の才能もないらしいし……僕が大道具に回っても、邪魔になるだけなんだよね」

「……本当に、クラート様もいつもお疲れ様です。騎士団に勉強に劇に……絶対忙しいですよね」

「うん、でも」


 クラートが立ち止まる。レティシアも足を止め、夕闇迫る男子棟と女子棟の間の渡り廊下で二人、見つめ合った。


 薄闇に覆われ、クラートの明るい金髪が沈んだプラチナ色に照り映える。時と場所を問わず燃え立つような色の自分の髪とは違う、夜空に浮かぶ月のような輝きに、レティシアは瞬きする。


「……この城にいると、いつも何かに巻き込まれる。面倒事だったり、仕事だったり、仲間同士の小さな出来事だったり。いろいろあるけど、僕、やっぱりこの忙しい日々が好きなんだ。こうやって、何かに巻き込まれていると……ああ、僕って生きてるんだな、って実感できるんだ」


 クラートの言葉に、レティシアは首を傾げた。彼が語るのは、レティシアはいまだかつて感じたことのない感性だった。


「……そういうものなのでしょうか。私はいつだって、今生きてるんだって思ってますけど」

「その感覚も間違いじゃないよ。むしろ、そうやって日々常に生を感じられる君が……僕は、羨ましいな」


 そう言ってクラートは、手すりに寄り掛かって目線を反らした。今日は星が出ていない。草原は暗闇に染まりつつあり、雲も濃い紫色のものが立ちこめていた。


「……ひょっとしたら、僕が日々生を見いだせるのは、君がいるからかもしれない」

「へ?」


 不意打ちの言葉に、レティシアの喉から思わず変な声が出た。


 脳内で警鐘が鳴り響く。何か、自分の中のセンサーが反応した。それは、以前アバディーン王城でクラートと二人っきりになったときに感じたものとそっくりだった。目の前の少年に気を付けろ、と誰かが騒ぎ立てている。


(……何だろう、この雰囲気……)


 クラートがレティシアを見つめてくる。いつもは澄んだスカイブルーの目が、今は闇に包まれて濃く神秘的なブルーに染まっている。レティシアの心の奥まで見透かすような、深い青色の目だった。

 レティシアも、目を反らすこともできずドキドキしながらクラートの行動を待った。


(気まずいけど……嫌じゃない)


 緊張しつつも優しい時間。薄闇の中でしばし二人は見つめ合っていたが、ふと、クラートは目を瞬かせた。


「……そうだ。君が荷物を置くためにここに来たんだっけ」

「へ? あ、はぁ……」

「引き留めて悪かった。君もお腹が空いているだろう。ここで待っているから、本を置いてきてくれ」


 言い、クラートは女子棟の手前で足を止める。基本、女子棟は男性立ち入り禁止だ。クラートも重々その規則を承知しているので、こうやって渡り廊下の端で足を止めたのだ。


 クラートを長く待たせてはならない。レティシアはブンと髪を振るって甘い空気を吹き飛ばし、急ぎ踵を返した。

 クラートに背を向けて階段を上がりつつも、レティシアは自分の脚を動かすので精一杯だった。


(……体が、熱い)


 先ほどの深いブルーの目に見つめられ、何か自分の大切なものが失われたような気分になる。でも、それを嫌だとは思わない自分がいる。


(この気持ちは……)


 はたと動きを止め、後ろを振り返る。クラートも、その他の人物もいないのを確認してから、レティシアはずるずるとその場に座り込んだ。


(ミランダ、この気持ちって……)


 側にはいないのに、ミランダが満足げに笑ったように思われた。










 クラートは渡り廊下に端に立ち、やや怪しげな足取りで女子棟の階段を上がってゆくレティシアの背中を見送った。彼はふうっと凝り固まったため息をつき、数歩女子棟の方へ足を進めて――急に、振り返った。


 生徒たちの大半が食堂へ降りた今、宿舎棟は至って静かだ。だが先ほどクラートが振り返った瞬間、男子棟入り口を黒い影が横切ったように見えたのは、決して見間違いではない。


 クラートは目を細め、険しい顔で何もない空間を見つめた。いつもは穏やかな光を放つスカイブルーの目は、視線だけで敵を射殺さんばかりの殺意を放っている。


 ぱたぱた、と小さな足音が響く。女子棟の方を振り返ると、小走りで階段を駆け下りてくるレティシアの姿が。


 クラートは瞬時に険悪な表情を収め、いつものような柔らかい笑顔を浮かべた。

 「お待たせしました」と言ってやって来るだろう、彼女を優しく迎えるために。

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