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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第5部 紫紺の面影
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脇役魔道士の奔走 1

 季節は春を迎えた。

 三百五十年祭開催は、春の月の中旬。そろそろ劇の練習も宣伝も広がり始めた、とある日の夕暮れ時。


「……私が、ですか?」

「ああ、ちょっと問題が起こってね」


 レティシアはまじまじと、正面に立つクラートの顔を見つめた。彼が冗談を言うような人とは思えなかったが、さすがに先ほどの彼の台詞を聞いて我が耳を疑ってしまった。


「いや、でもどうして私が実行委員会に呼ばれるんですか」

「それは……」


 尋ねるとクラートは言葉を濁し、腕を組んで気まずそうにほおを掻いた。


「……僕の口からは何とも。ただ、可及的速やかに部屋に来てほしいと、タリスとボーレから言付けられているんだ」


 細い眉をハの字に寄せるクラートを見ていると、彼に喧嘩を売ったようでレティシアの方が申し訳ない気分になってくる。


 先ほど劇の練習があったようで、クラートは春真っ直中にしては薄着の格好で、それでも暑いのか額を流れる汗をシャツの袖で拭っていた。そういう仕草がまた色気があり、通りすがりの少女たちがぽっと頬を赤らめることに、彼は一体いつ気付くのだろうか。


「さっき講堂の片づけをしたところだから、もう二人とも部屋に上がっているだろう。二人はレティシア一人で来てほしいと言っていたから……」


 ふと、クラートは口を切って顔を上げた。


 レティシアとクラートの横を、男性騎士と女性魔道士のカップルが通り過ぎていく。

 彼らの背中が完全に遠のいてから、クラートは再びレティシアに視線を注いだ。


「途中までは一緒に行くよ。ただ、タリスはともかくボーレのあんなに厳しい表情は僕も初めて見た。申し訳ないけれど、拒否権はないと思ってくれ」

「いえ……私の方こそすみません」


 レティシアは急ぎ詫びを入れた。クラートは、伝言役を請け負っているに過ぎない。そんな彼が同行も申し出てくれるのだから、これ以上レティシアが我が儘言うわけにはいかない。


「すぐ行きます……あっ、クラート様は一度休憩された方が……」

「いいよ、今行こう」


 クラートはふわりと微笑み、ごく自然に自分の右手をレティシアに差し出してきた。


 レティシアはその手を見る。

 自分の手よりも一回り大きくて、あちこちに固いタコやマメの潰れた跡の残る、騎士の手を。

 心臓が大きく鳴り、レティシアは閉ざした唇の奥で歯を噛みしめた。


(クラート様は、友だちとして私と接しているに過ぎない。……意識する方がばからしいんだ、きっと)


 クラートはなかなかレティシアが手を取ってくれないのを不安に思ったのか、不安そうな表情になった。


「ああ、ごめん。あまりきれいな手じゃなかったか……」

「い、いえ。そんなことないです」


 引っ込み掛けた手を、素早く掴む。ともすれば一国の公子に対して無礼な行為になるのだろうが、手を掴まれたクラートは最初こそ目を丸くしたものの、すぐに破顔して力強く手を握りかえしてきた。


「……さ、行こう。大丈夫、二人とも僕たちよりずっと年上だけど、とてもいい人だから」

「……はい」


 レティシアも手に力を入れて、クラートと共に歩きだした。


(友だちだもの……意識しちゃダメだ)


 クラートの温もりが直に届く左手に意識しないよう、気を付けながら。










 渡り廊下を抜けた先の、男子棟。レティシアがこの棟にお邪魔するのは、ディレン隊の会合の時くらいである。

 身分制度上は下位に属するレイドの部屋は最下階にあったが、ボーレの部屋は三階にあった。クラート曰く、ボーレは平民だが実家はアバディーンにある高級料理店だとかで、やや上階に部屋を与えられているそうだ。


 ボーレの部屋のドアには「三百五十年祭実行委員会実行委員長ボーレ・クラウン」と長ったらしく書かれたプレートが下がっていた。寸法を計測せずに書いたのか、名前の最後の方はプレートの端に押しやられるようにして、所狭しと記されていた。


「ボーレ、タリス。クラート・オードです。レティシア・ルフトを連れてきました」


 ドアをノックしてクラートが声を掛けると、間もなくドアが内側から開いた。

 二人を出迎えたのは、長身の女性騎士タリス。


「ああ、ありがとうクラート。それとよく来てくれたね、レティシア」


 タリスはプラチナブロンドを掻き上げ、ニッと白い歯を見せて笑った。


「ご苦労だったクラート。明日も練習があるから台本を読み込んでおくように。それと君は母音が引っ込む癖があるから、どの声も均等な声量で出せるようにしておくこと」

「了解です」


 クラートはタリスに向かって優雅に一礼し、レティシアに小さく手を挙げてきた。


「それじゃあ僕は、ちょっと離れたところで待ってるよ」

「はい。ありがとうございます、クラート様」


 クラートの後ろ姿を見送っていると、ふと横から視線を感じた。恐る恐る首を捻ると、顎に指先を宛って何やら思案顔のタリスが。


「……君はクラートの友人だったのか」

「あ、はい。同じディレン隊に所属しています」

「そうか。……最近は、異性の友人でも堂々と手を繋ぐものなのだな」


 最後の方は独り言のように呟かれたが、レティシアの耳は彼女のつぶやきをしっかり聞き入れていた。


(まあ、そう言われてもクラート様なら手を繋ぐくらい……って!)


「いやいや、見てたんですか!」

「見てたとは失礼な。この部屋はなかなか見晴らしがいいのでな。君たちが向こうの棟から仲よくお手々繋いで歩いてくるのが見えただけだ」

「見たんじゃないですかーっ!」


 タリスは至って平然と悪びれずに言い、顔を赤く染めるレティシアを不思議そうに見下ろした後、ぽんぽんとレティシアの肩を叩いた。


「まあ、君の交友関係は置いておくことにして……中に入ってくれ。今日は君に、折り入って頼みがあるんだ」









 ボーレの部屋のソファに座ると、すぐに温かい紅茶が出された。

 ただし、レティシアと向き合って神妙な顔をしているのはタリスで、給仕をしているのは――


「……すみません、ボーレ様。お茶まで出してもらって」

「いいんだよ。というか、僕にはこれくらいしかできないから」


 部屋の主はニコニコ笑顔で言い、慣れた手つきで三人分の茶を淹れた。


「僕は深く考えることが苦手だからね、実行委員会の仕事も大半はタリスに任せてるんだ。そっちの方が、どう考えたって効率いいからね」

「おまえは鈍くさいし、何事も楽しようとするから失敗するんだ」

 ソファで脚を組むタリスは、じろりと三白眼でボーレを睨んだ。


「事実、私が事務を代わるまでおまえは毎回適当な報告書を出していただろう。もしあのまま続けていたら、劇の準備が始まるまでに実行委員会は潰れていたぞ」

「だから、タリスに感謝してるんだってば」


 へらりと笑いながらボーレは紅茶に続き、保存棚からクッキーも出した。


 三百五十年祭実行委員会実行委員長という肩書きを持つボーレ・クラウン。一体どのような人物かと身構えていたのだが、タリスを見た後だと霞んでしまいそうなくらい、普通容姿の青年だった。

 硬質な茶色の髪は勝手な方向にピンピン跳ねており、丸縁眼鏡は鼻のパッドの位置が若干曲がっている。その手の方面には無関心なのか、顎の無精髭がこの位置からでもはっきり見て取れる。着ているローブやマントもよれよれで、本当は輝く白銀のマントのはずが鏝を当てないせいで、くすんだ灰色――下手すればレティシアと同じ、スティールマージの色にも見えてしまう。細身でやや猫背気味であり、給仕用に付けているらしき白いエプロンが不気味なほど似合っている。


 品行方正でパリッとした副委員長と、服装や言動からも抜けが見え見えの委員長。

 どうやら二者の絶妙なバランスで、実行委員会は成り立っているようだ。


「今回の一件だって、タリスがいてくれたから大混乱にならずに済んだんだよ」


 ボーレに勧められるままクッキーを摘んでいたレティシアは、彼の言葉に反応して顔を上げた。


「……今回の一件、ですか?」

「そう。早い話、その事件が理由で君を呼び出したんだ」


 言い、タリスはボーレに向かって顎をくいっと向けた。彼女の意図を察したらしきボーレがすぐさま立ちあがり、自分のデスクの引き出しから一枚の白い紙切れ――否、封筒を出して持ってきた。


(実行委員長なのに雑用か……って、それは置いといて)


「実は昨晩の練習中、この手紙が練習場所の講堂に届けられたんだ。と言っても、ドアの隙間から投げ込まれたらしくって、もちろん差出人不明。いつ投げ込まれたのかもよく分かってなくて、気が付いたら入り口付近に転がっていたんだよね」

「いかにも怪しい封筒だろう? 本来こういうものは大勢の前で開封せずに、こちらでこっそり処分するものなのだが……」


 レティシアはボーレから差し出された封筒を受け取った。封は既に開いている。誰かがぎゅっと握り潰したのだろうか、長方形の封筒の中央辺りに稲妻型の深い皺が寄っていた。


 二人の視線に促されるまま、レティシアは封筒の中の手紙を抜き出した。握り潰された跡のせいで途中突っ掛かったが、なんとか中身を傷つけずに取り出せた。

 手紙もやはり潰れた跡があるが、封筒以上に損傷が酷い。握った上に丸められたかのように、薄手の便箋は皺まみれになっている。開くときにもパリパリ音がする。


「私たちがいち早く気付いて回収すればよかったのだが、ドアの近くにいた年少の生徒が勝手に拾って開封してしまってね。大騒ぎするものだから、一時講堂は騒然となったのだ」


 身長に広げた便箋に書かれている内容は、単純明快。


「聖女の役を降りろ」


 流れるような優雅な字体で書かれた、物騒な脅迫文。


(確かに、何も考えずにこれを見れば、子どもだったら慌てるよね)


 妙に冷静になって手紙を眺め、レティシアは紅茶で喉を潤してから顔を上げた。


「つまり、この手紙の差出人はティーシェに役を止めさせたいってことですかね」

「それしかないね。今回の劇で『聖女』ってのに当たるのはティーシェ・グラスバーンだけだから、きっとこの差出人は聖女になれなかったやっかみで、脅迫状を出したんだろうね」

「よくあると言えばよくあることだ。だからこそ、私たちの方で処分したかったのだが……さっきも言ったように、別の子が開封してしまってな。しかもその場で大声で読み上げるものだから、練習どころじゃなくなった」


 ボーレとタリスの話を聞きながらも、レティシアは眉をひそめた。事の次第は大体分かった。だが、それならばなぜ自分が呼ばれたのだろう。


(私の容姿じゃ聖女役にはなれないはずだけど……)


 そもそも、タリスはティーシェが金髪紫目だから役に誘ったはずだ。魔法で髪や目を弄らない主義の副実行委員長なのではないか。


「……これを見て、ティーシェは大丈夫だったんですか」

「それがねぇ、彼女は至って平気そうだったんだよ。大声で読み上げられてもこの脅迫文を見ても平然としていてね。むしろ、脅されたくらいで役を降りたくないと突っぱねたくらいなんだ」

「いいんですか……? 脅迫されているのに」

「私たちとしては、別に構わない。彼女が役を続けたいと主張するなら、私たちから言うことはない。むしろ、ここで主役級の者に尻尾巻いて逃げられた方が打撃だからな」


 なんだ、と拍子抜けしてしまう。確かに、昨日の時点でティーシェが役を降りればクラートもさすがに報告してくれるだろう。


(……それじゃあ、何……?)


 不可解顔のレティシアをじっと見、ボーレが肩を落とした。


「ティーシェに関しては全く問題ないんだ。ただ、これを聞いた別の子がショックを受けてしまってね。その子は聖女に近い役なんだけど、ティーシェ以上に動揺してしまって。わあわあ泣いて、もう嫌だって連呼するしで……」

「仕方ないから、ティーシェではなくその子を降ろした。彼女は主役ではないにしろ、役が抜けるのは痛手ではある。だが、泣いて駄々こねて嫌がるのを無理強いするわけにはいかない。……そういうわけで、脅迫状の差出人の期待を裏切ったということだろうか、聖女ではなくその子の役が空いてしまったんだ」

「……あー」


 中身のない相槌。

 皆まで言われずともボーレたちの言いたいことが読めてきて、しかもそれを受け入れようとする辺り、自分も大人になったのだな、と実感する。


「つまり、私にその、欠員が出た役に入ってほしいってことですね」

「その通り! いやあ、ミランダの友人ってことで賢くて、お兄さんは助かるよ!」

「本当に申し訳ない。だが、役から降りた子も君と同じような、鮮やかな赤銅色の髪を持っていてね……他に、そんな珍しい色の髪の子は見つからなくって」


 笑顔で手を叩く実行委員長を一瞥し、タリスは端正な顔を歪めて、申し訳なさそうにレティシアを見つめてきた。


「急な話だとは分かっている。だが、君がよければ役者になってほしいんだ」

「私が……」


 レティシアは膝の上できゅっと拳を固め、わずかに視線を反らした。

 まさか、自分が女優になって舞台に立つ日が来るとは。ひとまずセフィア城で勉強していればいい、と思っていた身からすれば、大出世なのかもしれない。


 もともとレティシアは目立つ行為が嫌いではないし、やるとなったらとことんやるのがポリシーだ。レイドの説得には骨を折りそうだが、セレナたちは理解を示してくれるだろう。側にティーシェやクラートがいるというのも心強い。


(でも……)


 クラートとティーシェの恋愛劇を、嫌でも見なければならない。

 以前、夕暮れ時のグラウンドでミランダに詰め寄られたことを思い返す。あの時レティシアは、あの手この手で迫ってきたミランダを最後まで誤魔化し通した。


『……まだあなたはそこまで逞しくなれていないようね』


 どこか残念そうに呟くミランダ。あの時はムッとしてしまったが、今冷静になってみると、彼女の言わんとすることがうっすらと読み取れてくる。

 レティシアはまだ、大人になりきれていないのだ。クラートのことを夢に見てしまうことや、ティーシェと恋人同士の役になると聞いてショックを受けたこと。そういったことから目を背け、認めることができない。


 だから、ミランダに対して意地を張った。先ほどクラートと手を繋いだときも、「友だちだから」と自分に言い聞かせた。タリスの呟きにも、ムキになって反応した。


(……でも、私の想いなんて誰も知らない)


 ミランダだって、察しているだろうが決して彼女の方から他人に吹聴することはないだろう。セレナやノルテもひょっとしたら感付いているかもしれないが、セレナはもちろん、お喋りなノルテもなかなか思慮深いのだから、レティシアが嫌がることはしないだろう。

 今の時点では、誰も知らない。知っていても、レティシアの意志を尊重して胸中に秘めてくれている。

 だから、どこまでもしらを切り通せばいい。


 真正面から、ティーシェとクラートの役者ぶりを見ていればいい。

 もし傷つくとしても、それはレティシアだけなのだから。


(私が我慢すれば、丸く収まるんだ)


 このように思えるのは、自分が少しでも――ほんの少しでも、大人になれたからなのだろうか。

 レティシアは顔を上げ、すっと息を吸った。


「……分かりました」


 その言葉にタリスとボーレが反応する。二人の目に期待の炎が宿ったように見え、レティシアはうっと言葉に詰まってしまう。言いきったまではいいが、果たしてボーレたちの期待に添えるような働きができるのだろうか。

 しゅんしゅんと音を立てて、膨らませたばかりの自信が萎んでいく。


「……ただ、えーっと……私、劇とかしたことないんで、出来にはあんまり期待しないで……ください」

「大丈夫。そう言ってくれただけでありがたい」


 タリスが表情を緩めて言ったので、レティシアはほっと胸をなで下ろすが。


「我ながら新人指導には自信があってな、君のような初心者でも一人前の女優になれるよう、ビシバシ扱くので安心してくれ」


(あ、そういうことなのね)


 がっくりと肩を落とす。


「ただ、タリスの新人訓練は本当に厳しいよ。きっと君、最初の日の夜は寝かせてもらえないだろうよ」

「なんだ、その語弊を招きかねない言い方は」


(もう、どうとでもなれだ……)


 がっくり肩を落とすレティシア。冗談を言い合っていたタリスとボーレは顔を見合わせ、くすりと笑った。

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