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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第5部 紫紺の面影
123/188

編入生はお嬢様 3

「おっはー、レティ。……おや、朝っぱらからケダモノの形相でどうしちゃったのかね?」


 朝から軽やかで、絶好調な少女の声。


 彼女はフンフン鼻歌交じりでレティシアの隣の椅子を引き、スイーツどっさりの皿を置いた。その拍子に皿からこぼれ落ちそうになったスコーンをすれすれで拾い、菓子の山のてっぺんに据え置く。


「ったく、見てよこれ。せっかく並んでまでアプリコットケーキ狙ったのに、横から魔道士のクソババアが横取りしたのよ! おかげさまでノルテさん、今日もアプリコット取り逃したの! あー、やってらんない!」


 しばらくぶちぶち言っていたノルテはふと、動きを止めた。そうして、先ほどから一言も言葉を発さないレティシアの方へ、ゆっくりと顔を向ける。


「……レティ?」

「……」

「おーい、レティシア・ルフトさぁん?」

「……」


 返事がない。魂が抜けているようだ。


 ノルテはぱちぱち瞬きした後、フォークを握ったまま微動だにしないレティシアの顔を覗き込むと、コホンと咳払いした。


「……おはよう、レティシア」


 ノルテが発した声は、普段の彼女よりもずっと低かった。それは、耳に心地よい高めのテノールで。


「っ!」


 ガン! とレティシアが握っていたフォークがテーブルに叩きつけられ、それまで靄が掛かっていたレティシアの目が一気に澄み渡る。


 我に返ったレティシアは汗まみれでフォークを握る自分の手を見、きょろきょろと周囲を見渡し、そして自分の右隣で神妙な顔をしているノルテを見てぎょっと身を引いた。


「うおっ……お、おはようノルテ。いつの間に?」

「おはっす。ちょっと前からいたけど?」

「そ、そうだっけ? ……あれ、クラート様は……?」

「いないよ。わたしが声真似しただけ」

「……あ」


 唇からため息のような声を発し、レティシアはずるずると崩れるようにテーブルに倒れ伏した。

 心臓がばくばく鳴っている。顔が熱い。恥ずかしくて、情けなくて、ノルテの方を向けない。


 今朝、レティシアが絶叫と共に飛び起きたのは星の瞬く丑三つ時。春の月間近だというのに汗だくで、耳の裏が痛いほど心臓がめちゃくちゃに鳴っている。二度寝できる状況でもなく、結局そのままベッドに突っ伏したまま夜を明かしてしまった。


 朝食前に鏡を見てみると、汗で髪はぐしゃぐしゃ、まぶたは腫れぼったくておまけに、ここしばらくなりを潜めていたニキビまで再発してしまった。

 その場で髪を洗い、セレナから譲ってもらった化粧品を塗りたくり、よれよれになりながら食堂に降りたのだが、まだ体がだるかった。


 レティシアは横目で、隣の席のノルテを見やった。

 彼女は必要以上のことを追求せず、皿に盛っているデザートをぱくぱく平らげていた。愛らしい顔立ちに反して口がかなり大きく開くらしく、荒く切ったケーキを一口で食す姿はなかなか壮観だ。


「……てかさ、レティ。なぜにフォークだけ持って、食事を置いていないのかい」


 ノルテに指摘されてようやく、レティシアは料理抜きでフォークだけ手にしていることに気付いた。魂を飛ばしていたため、ビュッフェ台に行くことさえ抜け落ちていたようだ。それでもフォークだけはしっかり握り、紙ナプキンもテーブルの上に置いているあたり、自分の本能もあながち捨てたものでないのかもしれない。


「目にクマもできてるし……ひょっとして、昨夜わたしが夜遅くにお邪魔したから寝不足になったとか?」

「……や、そんなことはないよ」


 正直なところ、ノルテが来たのが原因ではなく、彼女が話した内容が引き金になっていたのだが。


 その後、レティシアは気が進まないながらも、ノルテの熱心な薦めで冷製パンプキンスープだけ喉に流し込んで食堂を後にした。ノルテはこのスープがお気に入りらしいが、故郷で採れたかぼちゃと違ってここらで採れるものは身がパサパサしていて、スープにしてもとろみがつかなくて美味しくない。ただ今回は舌も麻痺していたので、スープの味云々は全く気にならなかった。


「わたしたちはこれから、授業があるんだよ」


 生徒たちでごった返す廊下で、ノルテが明るく言った。


「しかも……スティールナイトの子たちもはしゃいでたけど、今日は一ランク上のブロンズナイトとの合同授業でね。クラート様もいるんだよ」


 ぐふっ、とレティシアの喉から変な音が出る。しかしタイミングよく、二人の真横を奇声を上げながら下級生が走り抜けていったため、ノルテの耳には届かなかったようだ。

 ノルテは大きな目をくるんと回して、レティシアを見つめた。


「確かレティ、この後一個空きだよね。よかったら見に来る?」


 行けるわけないだろ! と心の中だけで絶叫する。

 レティシアは丁寧に断りを入れ、グラウンドに行くノルテを見送ってから廊下の隅に寄った。

 食堂から次々に出ていく生徒たちを見ていても、知った顔は出てこない。


 ふうっと大きなため息をつき、レティシアは廊下に据えられたソファに身を沈ませた。


(……なんで、あんな夢を……)


 昨夜の夢の中。

 温かな日差しの降り注ぐ、セフィア城の図書館。本を読むオレンジ色の髪の少女――レティシア。彼女を迎えに来た、青年。


 もはや否定する気力すら湧かない。夢から醒める直前に見えた、青年の顔。それは紛れもなく、金の髪を持つ少年騎士――クラートだった。


 今のクラートよりも若干大人びた顔つきをしているが、彼は今と変わらない笑顔で、レティシアと手を繋いでいた。

 そして、そんなクラートを甘い眼差しで見上げていた、夢の中の自分。


(……ああ、そうだ)


 天井の黒い染みを見つめながら、レティシアは思う。


(夢の中の私の顔……誰かに似てると思ったんだ)


 図書館まで迎えに来てくれた男性を見つめる、穏やかで優しい眼差し。それは昨日見た、セレナの表情と全く同じだった。

 セレナがレイドを見つめるときの、恋いこがれた少女のような眼差しをしていたのだ。


(……いやいやいや、待て待て私!)


 レティシアはブンブンブンと頭を振った。通りがかった下級生が不可解顔でこちらを見てくるが、無視。


(それじゃ、まるで私がクラート様のことを好きみたいじゃない!)


 きっと、昨夜ノルテに指摘されたから勘違いしただけ。クラートが普段から優しく、側にいてくれるから夢の中でごちゃ混ぜになっただけ。偶然配役が、レティシアとクラートになっていただけ。ただ、それだけの話。


(……あり得ないよね。私がクラート様を……)


「……あの」


(そりゃ、クラート様は優しいけど。私に特別ってわけじゃなくて、きっとみんなに優しいんだろうし、ただ単に私と年が近いから一緒にいるだけであって……)


「……すみません、えっと……」


(それに、クラート様はオルドラントの公子。私は所詮、田舎育ちのイモ娘。一緒に生活していること自体、普通ならあり得ないことだし……)


「……あのっ!」


 耳元で大音量の声が叫ばれ、脳内思考中だったレティシアははっとして瞬きした。

 いつの間にか、廊下はしんと静まりかえっていた。チャイムが鳴る数分前で、大半の生徒は既に教室に向かっているのだろう。


 そんな廊下に立ち、レティシアのすぐ横で心配顔をする、見知らぬ少女。眉を緩く寄せており、胸には真新しい教科書をしかと抱えていた。


「あの……すみません。大声を上げてしまって……」

「……あ……あー、いや。こっちこそごめんなさい」


 ソファにだらしなく倒れ込んでいたレティシアは、急いで立ち上がった。


 レティシアの隣に立つのは、金色の巻き毛が特徴的な少女魔道士。ふわふわと綿菓子のような金色の髪を緩く束ね、アメジストの目はきれいなアーモンド型をしている。

 真っ白な肌に、桜色の唇。焦っているのか、きょときょとと視線を彷徨わせる辺りが非常に愛らしい。レティシアより背が低く、細身なのでアンティークの人形のような愛らしさがあった。

 レティシアより少し年下だろうか、彼女の纏う鈍色のマントは新品のようで、皺一つない。


「……ごめんなさい、少し道を聞きたくて……」

「道?」

「はい。次の授業が第七講堂であるのですが、わたくし編入生でして、先日来たばかりですの。今日が初めての授業で……」

「あー、そういうことね」


 レティシアはぽんぽんと尻を叩き、軽く背伸びした。


「だったら私が案内するよ。第七講堂ならそれほど遠くないし」

「はい、お願いします」


 少女がぱっと花の開くような笑顔で言ったため、自然とレティシアの頬も緩んだ。


 レティシアも、二年前の秋に編入してきた身だ。あの頃はセレナやレイドのような頼れる友人もおらず、それこそ右往左往の日々を送っていたものだ。

 彼女も同じ編入者となると、何となく親近感が湧く。レティシアは少女を連れて廊下を渡り、第七講堂まで案内した。もうチャイムが鳴るまで数十秒で、他の生徒は全員席に着いているようだ。


「はい、ここね。ちなみにこの階には第五から第九まで講堂があるから、教室前の掲示を見てみてね」

「はい、ありがとうございます! よろしければ、お隣の席に座ってもいいでしょうか」


 ニコニコ笑顔で言う少女。

 ん? とレティシアは首を傾げる。


「いや、私は授業受けないけど」

「え? でも、わたくしと同じ色のマントでは……」

「あー、確かに色は同じだけど、私はこのクラスはもう卒業してるから」


 教室の中を見てみても、このクラスはレティシアより一つ下の者ばかりだ。彼らが開く教科書のページの挿絵を見ても、レティシアが既に去年履修した範囲のものだと分かる。

 合点がいったらしい少女魔道士ははっと口元を手で覆った。


「まあ……申し訳ありません、わたくしてっきり、同い年かと……」

「いや、気にしないで」


 レティシアは心から言った。彼女の言う通り、教室の中の魔道士も全員鈍色のマントで、レティシアも同級生だと思われてもおかしくない。


「それより、この授業の先生は授業遅刻と宿題忘れにシビアだから。気を付けてね」

「はい! ありがとうございます」


 少女はにっこりと微笑んだ。右の頬にだけえくぼができている。


「あの、またお話ししたいのですが、お名前伺ってもよろしいでしょうか」

「レティシア・ルフトよ」


 廊下の向こうから、禿げ上がった頭の中年男性がやってくる。この授業の担当者だ。昨年、レティシアもなかなかこっぴどく指導されたものだ。せっかく単位をもらったのだから、必要以上に接したくない。


「今後もよろしく。あなたは?」

「わたくし、ティーシェ・グラスバーンと申します。カーマル帝国グラスバーン男爵家の者です」


 少女は名乗った後、その場で優雅に膝を折って礼をした。


「今日はありがとうございました、レティシア様。また、お礼も兼ねてお話しさせてください」

「お礼なんて……まあ、とにかく授業頑張ってね」

「はい」


 チャイムが鳴る。レティシアは「じゃあ」と片手を上げ、禿頭の教師から逃げるようにさっさとその場から退散した。







 ティーシェ・グラスバーンは身を翻して去っていったレティシアを見送り、そしてするりと教室に入った。

 禿頭の教師が壇上に上がり、新しい編入生としてティーシェの紹介をするのを聞きながら、彼女はキュッと唇を噛んだ。


 まさか、編入初日から会えるとは思っていなかった。


「……レティシア・ルフト」


 蚊の鳴くような声で呟き、ティーシェは紫の目に小さな炎を点した。

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