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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第5部 紫紺の面影
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編入生はお嬢様 2

「最近虚しい?」


 さらりとした前髪の奥で、ブルーの目がきょとんと見開かれた。


 夜、ノルテを自室に呼んでお茶をしていたレティシアは、夕方の図書館での出来事を彼女に語ってみた。自分一人で悩んでいても解決できないならば誰かの手を借りるのが一番だろう。

 それにノルテは仲間たちの中で一番年下だが、人一倍他人の感情や心の機微に鋭い。きっと何かいい答えを見つけてくれるだろうと期待したのだ。


 レティシアは自分とノルテのカップに紅茶を注いだ。オレンジピール入りの紅茶の香りがふわりと満ち、二人の少女の鼻孔をくすぐる。


「いい匂い。さては南部でしか採れないっていう大玉オレンジだね」


 ふんふんと鼻を動かしてノルテはカップを手に取った。


「あいにくうちの国ではオレンジはできなくってさ、初めての風味かも」

「この前の訪問販売で買ったんだ。口に合えばいいけど」


 閉鎖的なセフィア城だが、不定期で訪問販売という名のセールス業者がやってくる。といっても城の検問を通過しなければならないため、ある程度身分のはっきりした商人のみしか入城を許されない。業者が来ると特殊なチャイムが鳴り、レティシアたち生徒は財布を持って玄関ホールに集まるのだ。


 今レティシアがノルテのために淹れたオレンジティーは、数日前来訪した商人から買ったものだ。茶葉を専門に扱っているだけあり、種類も様々だった。しかも質も決して悪いものではなく、植物に関してはうるさいレティシアも納得の物を売ってくれた。

 オレンジティーを飲む二人の間を、しばしの沈黙が流れる。


「……んで? 詳しく話を聞こうかね」


 かちゃん、とソーサーにカップを戻してノルテが口火を切る。

 レティシアはしばらく頭の中で台詞を考えた後、ゆっくり息を吐き出した。


「……今日の夕方、セレナにレポート書くのを手伝ってもらってたら、レイドが来たんだ。それでまあ、当然だけどセレナに用があって、一緒に出て行っちゃったんだ」

「よくある光景っちゃあ、よくある光景よね」


 さもありなん、とばかりにノルテは大きく頷き、先を促した。


「……で、それとレティが虚しさを感じることとの接点は?」

「……や、それが本題であって」


 レティシア自身、なぜここで虚無感を感じるのか分からない。なぜ、レイドに連れられてセレナが立ち去ってしまう後ろ姿に、寂しさを感じるのか。


 ノルテは大きな目を瞬かせた後、テーブルに肘を突いてレティシアの顔を覗き込むように身を乗り出した。


「それって、いつ頃から?」

「……多分、アバディーンからこっちに帰ってきた頃から」

「……まさかの事を聞くけど、レティが実は隊長のことが好きで、セレナに取られて嫉妬してるとか……?」

「ないよ」


 レティシアはきっぱりと言い返した。これには自信を持って否定できた。


 アバディーン城での一件から恋人同士になったレイドとセレナ。勇猛果敢だが心に闇を抱えたレイドと、控えめだが献身的で心優しいセレナ。

 互いの穴を埋めあえ、寄り添える二人はお似合いのカップルという以上に、なくてはならない存在同士であった。


 レティシアも、セレナがレイドに寄せる想いにはうすうす感付いていた。そして、レイドがセレナを見つめる目が限りなく優しいことにも。

 そしてそんな二人の想いが通じたということは、レティシアにとっても非常に嬉しい出来事であった。レイドに対する敬意はあっても、異性としてレイドを好きになったことはない。


「そうか……だったら、可能性はあと二つね」


 ノルテはほっそりした指を二本立てて、テーブル越しにレティシアに詰め寄った。


「まずは、さっきわたしが言ったことの真逆パターン。セレナを取られてレイドに嫉妬してるってこと」

「……はい?」


 目が点になる。なぜ、自分がレイドに嫉妬せねばならないのか。

 レティシアの表情を見たノルテは、ゆっくり手を振った。


「嫉妬といっても種類はいろいろよ。恋愛感情のみとは言い切れないものよ。今回の場合は、レティの友だちであるセレナをレイドがかっさらっていったってこと。セレナの中にも仲間や友だちの優先順位ってものはあるでしょ。その内部順位で、レイドと付き合うことによって隊長がぶっちぎりの一番になってしまったのよ。今までは親友として親しくしていたけれど、友だちと恋人とを選ばされたら大抵なら、恋人に傾くじゃん。レティはそれが悔しくて、親友を取られたように思って虚しくなるってことよ」


 自分より年下の十五歳とは思えない、説得力のある解説にレティシアは舌を巻いた。元々ノルテは年の割に大人びており博識な少女だと思ってはいたが、これほどしっくり来る答えを出されるとは。


(……じゃあ、私がセレナに甘えてるってことか)


 おもちゃを取られて泣く子どもと大差のない、嫉妬。大切なものを誰かに取られてしまう、悔しさ。

 レイドとセレナの間の絆を認めつつも、そこに自分が入り込めないことへの苛立ち。

 かあっと頬が熱くなり、レティシアはぐうの音も出ずに項垂れた。


「……そうだとすると、私ってやっぱりセレナに依存してたのね」

「人間誰だって、そんなもんでしょ。わたしだって、さすがに最近はセレナに抱きつくのは自粛してるもん。本当は前みたいに、ぎゅーってしたいんだけどね」


 今、セレナを抱きしめるのはレイドの特権だもんね。

 そう言って、ノルテは静かに笑った後――


「……で、もう一つの可能性ね。というか、ぶっちゃけわたしはこっちの方が有力だと思うんだけど」

「うん」


 レティシアはソファに座り直し、神妙な顔になってノルテの言葉を待った。


「……ずばり! レティはレイドとセレナの間柄が羨ましい。つまり、自分もセレナみたいに、ステキな彼氏がほしい! でもそんな人がいない現状が虚しい! ってことね」


 腰に手を当ててノルテが宣言した。

 その数秒後――


 ばくん、とレティシアの心臓が大きく鳴った。

 一旦引きかけたというのに、自分でも分かるほど顔が熱くなり、それと反比例して指先はひんやり冷たくなる。


「な……何を、ノルテ……!」

「つーか、レティくらいの年頃のレディで恋だの愛だの無関心な方が珍しいって。ステキな彼氏に愛を囁かれたい……ぎゅーって抱きしめられて、甘い声で名前を呼んでほしい……熱く、身のとろけるようなキスをしてほしい……」

「ノルテ!」


 思わず発された声は、調子の外れた楽器のようにひっくり返っていた。


 ノルテはいきり立つレティシアをまじまじと見、勝ち誇ったかのようにふふん、と鼻を鳴らした。


「そこまで過敏に反応するってことは……さてはレティ、気になる人がいるんじゃないの? で、セレナみたいに、その人とお付き合いしたいって思ってるんでしょ?」

「な、な……!」

「図書館まで迎えに来てもらってぇ、『おいで、レティシア』なんて囁かれてぇ、人前で華麗にかっさらってほしいって思ってるんでしょ?」


 言い返そうにも、全く言葉が浮かんでこない。口も、酸欠状態の魚のように意味なくぱくぱくさせるしかできない。

 悔しいのは。ノルテに問われて、どうしても頭に思い浮かぶ男性がいること。


(違う! 絶対そんなの違う!)


 頭を両手で押さえて心の中で否定しても、その人の姿は否応なしに、レティシアの脳みそに侵入してくる。


 柔らかな日差しのように微笑んで、レティシアに手を差し伸べてくれる人。隣に立って、一緒に困難に立ち向かってくれる、端整な顔立ちの少年騎士。


(だから違うってばぁーーー!)


 オレンジ色の髪をかきむしり、ぶんぶんと首を振る。それでも足らず、ソファに置いていたクッションを掴んで両拳を叩きつけ、最後には自分の頭をクッションの中に勢いよく埋める。


 心の中が修羅場で悶え苦しむレティシアを、ノルテは至って冷静に見つめ、茶菓子に出された卵白仕立てのクッキーをぱくぱく食していた。


 クッションに顔面めり込ませ、そのままソファにダイブしてじたばたもがいていたレティシアだが、ふっと動きを止めて静かになる。

 ノルテは指に付いたクッキーの滓を舐め取り、きちんと紙ナプキンで指先を拭った。


「……で? 落ち着いた?」


 返事は、クッション越しに伝わるくぐもった声。

 間もなくごろんとレティシアの体が横転し、ノルテの方に体を向けた状態でクッションが床にコロリと落ちる。


「……ノルテ」

「はいよ」

「今、頭の中で考えていることを消し去るっていう魔法、知らない?」

「んー」


 ノルテはゆっくり瞬きし、空っぽになっていた二人分のカップに、冷めかけの紅茶を注いだ。


「ノルテさんは魔道士じゃないから分かんないや。今度ミランダに聞いてちょうだい」

「……そうする」


 呟くレティシアの顔は、今まで見たことがないほど憔悴しきり、そして魂が抜けたかのような無表情であった。









 明るい日差し。南向きの天窓から、惜しみなく降り注いでくる日光。既に暦は春に入り、日光も柔らかく、春の香りを伴っていた。

 レティシアはきょろきょろと辺りを見回した。埃の匂いと、紙魚防止の薬の匂い。そして、書物の香り。


(ここは、セフィア城の図書館……?)


 がらんとして人気のない図書館だ。定期的に通っているが、これほど来客のない図書館は初めて見るかもしれない。辺りを見回しても、生徒はおろか司書の姿すら見受けられない。

 すっと、本棚に指を這わせてみる。指先に乗った埃を意味もなく見つめていると、ふと、何かの物音が耳に届いた。


(誰かいる?)


 本棚の間を縫うようにして歩き、閲覧用のテーブルがある場所――昨日の夕方、セレナと一緒に勉強した席だ――を見る。


(……え?)


 レティシアがいつも使っている窓際の席。そこに、レティシアに背を向けるようにして一人の少女が座っていた。


 豊かなオレンジ色の髪は夕日を浴びて、金に近い色に照り輝いている。読書に集中しているのだろう、背後にレティシアが立っているのも気付かないようで、静かに本のページをめくっている。


 レティシアはドキドキ鳴る胸に手を当てて、ゆっくり少女に歩み寄った。

 少女はそれでも気付かず、テーブルに頬杖を突いて読書に没頭していた。

 恐る恐る、少女の前方に回りこんで思い切って正面から顔を覗き込む。


「……! うわっ……」


 思わず裏返った声が出た。それでも、少女は反応しない。


 少女は樹木色の目をわずかに伏せ、唇をわずかに開いて本を読んでいた。毎朝レティシアが部屋にある鏡に映しているのと、同じ顔で。


 少女はレティシアだった。いや、この少女が「レティシア」だった。

 少女は目の前で驚愕するレティシアに気付かない。時々顔を上げて、柱時計を目にしてはため息をつき、また目線を落として本を読み始める。


(これ、私だよね……)


 この少女の目に、自分の姿は映らない。それをいいことに、レティシアはテーブルに頬をくっつけ、至近距離で「レティシア」の顔を眺めた。


 それは、紛れもなく自分の顔。生まれたときからの付き合いである、見飽きたほど見たことのある顔だ。


(でも……何か違う?)


 間近で見る自分の顔に違和感を覚え、レティシアは眉をひそめた。

 顔立ちは瓜二つと言っていい。でも、何かが決定的に違う。むしろ、レティシアというよりも、別の誰かに似ているような気さえした。


(どうしてだろう……)


 レティシアは顔をしかめ、体を起こした。と――

 急に、「レティシア」が勢いよく顔を上げ、目を大きく見開いてレティシアを凝視した。


「うわっ、今気付いたの!?」


 ばっちり視線がぶつかって奇声を上げながら後退したレティシアだが、どうやら「レティシア」はレティシア以外のものに反応したようだった。


 バランスを崩して床に尻餅つくレティシアには目もくれず、「レティシア」は本を閉じて椅子から立ち上がった。


『待たせたね』


 静かな声。レティシアの背後から響く、青年の声。

 その声を聞き、「レティシア」はぱっと顔を綻ばせ、そして頬を赤く染めた。恋する乙女、そのものの顔で。


(うっ……私って、こんな顔するの?)


 自分の顔ながら薄気味悪さを感じていると、「レティシア」は椅子を戻し、呆然とするレティシアの脇を通って図書館の入り口の方へ歩いていった。


 レティシアは眼球だけ動かし、そちらを見やる。

 図書館の入り口。柔らかな後光を浴びて立つ男性の姿。光が照っており、男性の顔はうまく見えない。


 だが「レティシア」はまっすぐその青年のへ行き、青年もまた、ゆっくりと「レティシア」の方へ歩み寄る。


『とんでもないです。わざわざ迎えに来てくれて、ありがとうございます』


 「レティシア」は言う。聞いているレティシアの鳥肌が立つほど、甘くて優しい声で。

 青年は笑い、「レティシア」に手を差し出す。「レティシア」は微笑み、その手を取る。


『行こう。みんなが待ってる。レティシアが最後だよ』


 「レティシア」に囁くその声は、レティシアがよく知っている人とそっくりで――

 昨夜、ノルテと話しているときに頭に浮かんできた人と全く同じで――


 思わず、口が動いていた。


「―――様!」


 気付かないのは分かっている。この二人に、レティシアの存在が見えていないことは既に知っている。


 それでも。

 立ち上がりながら、「彼」の名を呼ぶ。心の中でずっとレティシアを支えてくれている、彼の名を。


 「レティシア」がゆっくり振り返る。テーブルの横に立つレティシアを、不思議そうな眼差しで真っ直ぐ見つめてくる。


『レティシア?』


 いきなり背後を振り向いた「レティシア」を気遣ってか、青年は声を掛ける。

 そして、ゆっくりと振り返った――

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