遠征 2
講堂の扉が壁にぶち当たって振動しているので、今し方部屋に入ってきた青年に蹴り開けられたのだろう。
ずかずかと講堂を横切って教壇に立った背の高い青年を目にし、ミシェルら魔道士見習がはっと息をのむ音が聞こえた。
癖のない、真っ赤な髪。ルフトの山に成る完熟した木の実をそのまま髪に溶かしたかのような、燃えさかる炎の色。額の中央で分けた前髪のうち右側は極端に長く、彼の右目を完全に覆って頬の下にまで垂れている。左側は軽く額に撫でつけ、涼しげな切れ長の目を露わにしていた。
彼が纏うのは緋色を基調とした騎士団制服と、上質な白銀のマント。魔道の授業の中年男性教師も同じ色のマントを羽織っていたが、この騎士のマントはずっと新しく、彼自身背が高いため非常に様になっていた。
薄い灰色の目は不機嫌そうに細められ、口元も固く結ばれている。表情を緩めればかなりの美青年だろうが、今は半分露わになった額に青筋が浮かびそうな勢いで不快そのものを表していた。
青年の不機嫌を誘うのは、椅子にも座らずきゃあきゃあ喚く魔道士見習たちだろう。騎士の少年たちとレティシアは青年の号令を受けて既に着席していたが、少女らはうっとりと美貌の騎士を見つめ、「素敵」だの「かっこいい」だの連呼するばかり。
だが美貌の騎士様は賛美の言葉に気をよくした様子もなく、両腕を組み忙しなく軍靴のかかとを鳴らせて魔道士の着席を待っていた。そしてとうとう我慢ならなかったのか、ギッと歯を擦り合わせて低く唸るように警告を飛ばした。
「……貴様らは黙って席に着くこともできんのか。今すぐこの場で単位を落とされたいのか?」
殺気すらにじみ出すその一言で目が醒めたのか、魔道士たちはいそいそと空いた席に座った。席についてもなお、「怒っても素敵だわ」「とても野性的」などと夢見心地に囁き合いながら。レティシアはそんな彼女らから距離を取るべく、椅子を動かした。
「……全員席に着いたな。では、遠征についての話をする」
騎士が開会を告げると、蹴り開けられたままのドアから音もなく、ローブ姿の女性たちが入ってきた。
部屋の隅に控えた彼女らのローブはデザインこそレティシアらと同じだが、マントの色が違う。艶やかな赤銅色はもちろん、一人は輝く銀色のマントを羽織っている。
合計四人の彼女らは皆凛とした佇まいで、静かな眼差しで赤髪の騎士を見つめている。どう見ても、見習の中にいるひねた表情の二十代女性より年下の者もいるのだが、全員威厳すら感じられる静謐な美しさをにじみ出していた。
「知っているだろうが、俺の名はレイド・ディレン。おまえらの遠征の指導役を担っている。今入ってきた者が俺の隊、ディレン隊の魔道士たち。侍従魔道士見習は彼女らに指導を受けてもらう。騎士見習の方は……俺と、俺の隊の騎士だ。あいにく騎士たちは出払っているので、騎士の顔合わせは出発のときにしようと思う」
レイド・ディレンがやや早口に説明し、彼の紹介を受けてディレン隊の女性魔道士たちが礼をする。全員全く同じタイミングで腰を折り、そして体を起こす。その統一感はさながら、魔道士というより軍隊に近かった。
レイド隊長は見習たちに紐綴じ資料を配り、遠征の計画や今後の予定についての注意事項を述べた。騎士見習の方は憧れの先輩騎士を前に、輝く眼差しでじっと彼の説明に聞き入っているのだが、残念ながら魔道士見習の方はそうもいかなかった。
少女たちはレイドの方を見てはいるのだが、彼の説明の半分も飲み込めていないようだった。レティシアは配られた資料を膝に乗せ、説明を受けて所々鉛筆で書き込んでいるのだが、彼女らの腕は一ミリも動かない。中には資料に手を付けてさえいない者もいる。
教壇に立てば不真面目者と真面目者は一目瞭然なのだろうが、レイドはあれから一切注意を飛ばさず淡々と資料を読み上げ、注意すべき箇所では語調を強めて警告を促している。だんだんと早口になっていることから、きっと彼も早く説明会を終わらせたいのだろう。
「……要は期間中、野営を挟みながら延々歩いてもらう。貧弱な魔道士は今のうちから長距離歩行の練習をしておけ。とろい奴は置いていくぞ」
レイドがこの役を嫌々受け持ったことは、彼の口調からも楽に読み取れた。唇は遠征の概要を丁寧に述べているが、その灰色の目ははっきり「めんどくさい」と訴えていた。「置いていくぞ」も決してただの脅しではないのだろう。
一通り遠征の説明を終え、資料を丸めたレイドが閉会を告げ、来たときと同じようにいらいらと足早に講堂を去り、彼の侍従魔道士たちも一礼して部屋を後にしていった。
最後に退出しようとした侍従魔道士がドアを閉めようとノブに手を掛けるが、どうやら隊長の蹴りを受けて蝶番の金具が曲がってしまったらしい。何度かうんうんノブを引いてみるが、やがて諦めて仲間たちの後を追って退出していった。
ディレン隊が全員いなくなった後、魔道士見習の方から甲高い歓声が上がる。
「素敵な人じゃない、レイド隊長!」
「クールでハンサムで。あれほど格好いい人、滅多にいないわ」
「私たち、とーっても幸運だったのよ! あんなに素敵な騎士様とご一緒できるなんて」
「声も低くて。レイド様の甘い声で囁かれたいわ! 『お手をどうぞ、レディ』って!」
「そうそう! もし遠征中にわたくしの魔法でレイド様をお助けして、恋の花が芽生えたりしたら……」
きゃー! と甲高いを通り越して刺々しい声を上げる夢見る少女たち。恋愛小説の読み過ぎだ、とレティシアは冷ややかにそちらを一瞥するのだが、当然その視線は彼女らには届かない。届いたら届いたで、面倒なことになるのは目に見えているが。
(普通の女の子は、ああいう人が好きなのかな)
レティシアからすれば、唸るような声で「貴様ら」と言われるだけでお腹一杯なのだが、魔道士見習たちは相当先ほどの騎士様に入れ込んでしまったようだ。
もはや彼女らの話は空想の域に入り、そろそろ部屋に戻ろうかとレティシアが腰を上げた、そこへ。
「……やあ、魔道士さん。ちょっといいかな」
明るい少年の声が後方から掛かったため、レティシアは資料を胸に抱えたまま身を翻した。
背後に立っていたのは、先ほど目が合った金髪の少年騎士見習だった。
彼は目を見開いて一歩後退するレティシアににこやかに微笑みかけ、「はじめまして」と頭を下げた。
「僕たちしばらく同じ隊で行動するのだから、顔と名前は一致させたくて。名前、聞いてもいいかい」
なるほど、彼の手には先ほど配られた資料があり、その白紙の面に「オレンジ色の髪の少女魔道士・歳=僕と同じくらい?」とメモ書きしている。その上方には騎士見習の見た目と名前が列挙されているので、こうして全員の特徴と名を覚え書きしておくつもりなのだろう。真面目な性格のようだ。
レティシアは、知らぬうちに肩にこもっていた力を抜いた。
「あ、ええ。私はレティシア・ルフト。よろしくお願いします」
「ルフト」
少年のペンが止まる。
しばしの空白の後、彼は面を上げ、ペンの尻でぽりぽりと鼻の横を掻いた。
「……間違いだったら申し訳ないけれど、ひょっとしてルフト村のこと? オルドラント公国の北の端っこにある」
「知ってるの?」
初めて村の名前がロザリンド以外の者の口から聞けたため、レティシアは瞠目して少年に詰め寄った。
「ど、どうして? あんなに辺鄙な村なのに……」
「それはもちろん、自分の領地のことなのだから。小さな村の名前だって知ってるよ」
驚愕の表情のレティシアに微笑みかけ、少年は「レティシア・ルフト」と記した資料を脇に抱え、右手を差し出した。上質そうな絹の手袋に包まれた、レティシアより少しばかり大きな手だ。
「僕の名はクラート・オード。君の出身地であるオルドラント公国の公子だ」
あっさりと自己紹介した少年だが、レティシアはぎょっとしてその手と彼の顔を交互に見やる。
(クラート公子……だって?)
「こ、公子様でしたか……!」
オルドラント公国大公は、レティシアの村含む領土を善く治める、穏和で心優しい君主。数年前の祝賀祭で両親についてオルドラント市街地に降りた際、馬車でパレード行進する大公の姿は見えたのだが、その息子である公子は今まで見たことがなかった。
確か、クラート公子はレティシアより一つ年上の十六歳。考えてみればリデルの同盟国であるオルドラントの公子がリデル騎士団で修行するのは当然のことで、十六歳ならばどう足掻いたって見習期間になるのだ。
まさか自国の公子とこれほどの至近距離で話ができるとは思っておらず、レティシアの頬が熱を持つ。そのまま、倒れ込むように勢いよく頭を下げた。
「そ、その……失礼しました! 失礼な口を利き……」
「気にしないで。むしろ、これから僕たちは身分を超えた実習仲間になるんだ。気楽に話してくれたら嬉しいよ」
クラート公子はあっけらかんと笑い、差し出したままの手をぶらぶらと揺らした。
「同郷の人と知り合えて嬉しいよ。よろしく、レティシア」
恐る恐る、差し出された手を握り返す。
「は、はい……クラート様……」
強く握られた手はとても温かかった。
その後、クラートは騎士見習仲間を引き連れて悪の花園――もとい魔道士見習集団へと果敢にも立ち向かっていった。騎士見習の面々はレティシアの方を興味深げに見つめ、軽く会釈をしたり微笑みかけてきたりしながらクラートについていく。
ミシェルらは最初、近付いてくる騎士見習を胡散臭げに見やっていた。だが先頭の公子の顔を目にすると一転、不機嫌そうな顔を引っ込めていつもの猫を被った淑女の顔へと変貌を遂げた。それもこれも、クラート公子の整った容姿を見て――そして彼の身分を知ってのことだろう。
レイドの凍てつく氷のような美貌とは違う、すくすく育った若葉のような瑞々しい笑顔。レイドが冬なら、クラートは春だ。あの春の日差しのような笑顔を向けられれば、誰も悪い気はしないだろう。
顔がよければ何でもいいのだろうか、とレティシアはぼんやり考えながら、まだ熱の引かない頬を両手で押さえてその場から退出した。




