騎士の誓い 3
「断る」
今度こそ、きちんと言えた。
妙な達成感を胸に覚えるレイドを、セレナは微かに曇った笑顔で見つめていた。
レイドが固辞することはある程度計算内だったのだろう、小首を傾げて優しく言う。
「なぜですか? 私は、あなたとの約束を破ったのですよ」
どこまでも明るいセレナの声。彼女の心の中の何かを吹っ飛ばそうとしているかのような、強がりが見え隠れする笑顔。
「私が……ディレン隊に入ったときに、レイド様と交わした約束です」
セレナの言葉に、さっとレイドの顔が曇った。
「……レイド様はおっしゃいましたよね。何があっても、私は人殺しをしてはならないと。私は約束しました。何があっても人を殺めたりしないと。人を殺す手を持つことなく、あなたの側でお仕えすることを、誓いました」
「おまえ……」
「私は、たくさんの人を殺しました」
調律のできていないピアノのように、裏返った声を出すセレナ。その顔は未だ笑っているが、茶色の目は霞んでおり空っぽのガラス玉のように虚ろに光るのみだった。
「罪もない若い兵士さんを殺して、剣を奪って……私を止めようとしてくれた近衛兵の方々を、この手で……斬って……それから、レティシアにも……」
セレナの白い手がぶるぶる震えている。レイドはその手を握ってやれない自分に苛立ちを感じた。今の自分に、そんな資格はないのだから。
「私は……たくさんの人を、殺しました……親友も、殺そうとしました……。……そして……あなたも……あなたにも、剣を向けました……」
「おまえのせいじゃない」
決して厳しくはないが、確固とした意志を持ったレイドの声。
レイドは腕を組み、操り人形のような虚ろな笑みを浮かべるセレナをじっと見つめた。
「おまえも知っているだろうが、あれはエルソーン王子の仕掛けた罠だった。ティエラ王女を貶めるため、王女に近しい人間を狙っていた。それに、おまえが掛かってしまっただけなのだ。おまえは加害者じゃない。被害者だ」
「でも……まだ、残っているのです。人を斬ったときの感触が……近衛兵の方の、苦しそうな声が……真っ赤な、血が……」
セレナはふるふると首を横に振った。貼り付けたような笑顔は、今にも崩れそうに震えている。
「私は、レイド様のお側にいてはなりません。どうか……解雇してください」
「断る」
「レイド様!」
「いいから聞け!」
言ってしまった後でレイドははっとして口をつぐむ。いきなり声を荒らげたレイドに、セレナはびっくりしたように目を丸くしている。
レイドはこほんと咳払いし、セレナを真っ直ぐ見つめた。
「……おまえと交わした約束は、俺のエゴだった。俺の戦い方はあまりにも残酷で、容赦がないと常々皆から言われていた。だから俺は、おまえを侍従魔道士に選んだ。おまえのような、きれいな手を持った者が近くにいれば、俺は無差別に人を殺さずに済む。おまえが側にいると分かれば、おまえの前で人殺しをしてはならんと自分を押さえることができた」
言いながらレイドはわずかに顔をしかめ、顔の右半分を覆い隠す前髪を軽く掻き上げた。
セレナは掻き上げた前髪の奥に潰れた右目があるのを見、微かに眉をひそめる。
「己を制御できない俺の弱さが祟った結果だ。俺がもっと強かったならばおまえを縛り付けることも、酷な約束を取り付けることもなく済んだ。俺は、おまえを傷つけまいとしていたのに……今回、おまえを傷つけてしまった」
俺の手で。
「心ない言葉を言って、おまえの心を傷つけた。側にいてほしい、守ってやりたいと思っていたくせに、俺がおまえを悲しませた……すまない。おまえが、どんな思いだったのかも推し量ってやることもせずに……」
「でも……それは、本当に似合っていなかったのでしょう」
セレナの目からは怯えの色が薄まり、隠しようのない戸惑いが浮かんでいた。
「私……今考えれば、あまりにも度を超した出で立ちをしていたと思います。ですから、レイド様のご意見はもっともじゃないですか」
「確かに、似合っていない格好ではあったが……」
レイドはすっと目を細め、一歩セレナに歩み寄った。
自分の目の前で跪かれ、セレナは一瞬びくっと身をすくませたが、それ以上の拒否反応は表さなかった。
レイドの手が持ち上がり、自分のミルクココア色の巻き毛がその指に絡み取られるのを、どこかぼうっとした眼差しで見つめていた。
「おまえは……何をしなくても美しい。着飾らずとも、派手な化粧をせずとも、肌を見せるような服を着ずとも……おまえは十分、美しい。だから、ごてごてと着飾ったおまえを見ていると無性に腹が立った。おまえが生来持っている美しさを、潰されたようで……」
そう言って、レイドは自分の指先で掬い取られたセレナの髪に、静かに唇を寄せた。
貴族のような振る舞いに、セレナはぎょっと赤面した。かといって、レイドに口付けされた髪を奪い取ろうとはせず、真っ赤になってぶるぶる震えるしかできない。
「レ、レイド様っ!」
「そうやってすぐ赤くなるところも、笑う顔も、泣き顔も、すべて……美しい。俺の手でおまえを守りたい」
セレナ、と優しく呼ぶ声。
かつてないほど優しく、甘いレイドの眼差し。
セレナはそんなレイドを、ぼうっとした心で見返していた。
早く、次の言葉を言ってほしい。
早く――
「好きだ、セレナ。俺は、おまえのことが……好きなんだ」
薄い唇から紡ぎ出された言葉は、一瞬でセレナの心を解かし、とろけさせ、甘い痺れを誘ってきた。
自分のことをこの上なく愛しいものを見る目で見つめるレイドの眼差しで、セレナは今にもくらくらと意識を失ってしまいそうだ。
「紅い狼」と恐れられる、冷徹なディレン隊隊長。戦場では鬼神のごとき戦いを繰り広げ、全てを達観したような凍てついた眼差しで皆を見る、孤高の騎士。
そんな彼が、ただの侍従魔道士でしかないセレナの前に跪いて髪に口付け、情熱的な眼差しで愛の言葉を告げている。
セレナ以外の誰にも見せない表情。
セレナ以外の誰にも、決して囁くことのない愛の言葉。
「……私で、いいのですか」
セレナの桜色の唇から漏れたのは、確かめるような、迷うような言葉。
「身分もなくて、美人でもなくて……何も持たない、私でいいのですか……?」
「おまえがいい。誰よりも優しくて、美しいおまえがいい……おまえでなくてはならない……」
二人の視線がぶつかる。
樹木色の目と灰色の目が互いを見つめ、愛おしい相手の姿のみをその瞳に映す。
「……今度こそ、俺はおまえを守る。だから……」
だから、側にいてくれ。
俺の前から、いなくならないでくれ。
セレナの目尻からころりと、真珠の粒のような涙がこぼれる。
そして、薔薇色に染まるその頬に手を当て、セレナはこっくりと、ひとつ頷いた。
「……レイド様の、仰せの通りに。でも……」
「うん?」
「……私は人を殺してはならないという、あの約束を……解消させてください」
レイドの赤い眉が跳ね上がる。彼が何か言う前に、セレナは急いて続けた。
「今回の一件ではっきり自覚しました……私は騎士団として、魔道士として生きていると、人と戦わなくてはならない場に遭遇します。その時、いつまでもレイド様との約束を守っていたら、私は……私が本当に守りたい人を、失ってしまうかもしれないのです」
約束している以上、レイドは必ずセレナを守ってくれるだろう。
だがそれではセレナは彼に報いることはできないし、相手がレティシアたちであればなおさらだ。
「私は、みんなを守りたい……レイド様の御身もお守りしたいし、大切な友人や仲間たちも、守りたい……レイド様が傷つけられるなら、殺されるなら……私が、私の手であなたの安全を脅かす者を討ちたいのです」
レイドの目はきつく吊り上がり、今にも怒鳴りだしそうに唇が震えている。
だが、セレナも負けていられない。真っ直ぐ正面からレイドを見据え、その灰色の目をしかと見つめる。
「あなたが私を守ってくださるように、私にもあなたを……皆を守らせてください。私はきっと、皆を守るためにこの魔道の力を授かったのです」
しばしの沈黙が、二者の間に流れる。
にらめっこのようなきつい時間は、レイドが先に視線を反らすことで静かに終わった。
「……ただ守られるだけなのは、受け入れられないってことか」
ふうっと息をつき、レイドは自分の長い前髪を掻き上げた。
「……それがおまえの望みなら、俺はそうしよう」
「レイド様……!」
「だが、これだけは分かってくれ」
レイドの腕が伸び、そっと、セレナの両手が包み込まれるように手の平で覆われる。
「……おまえが俺を守りたいと思っているのと同様……いや、それ以上に、俺はおまえに傷ついてほしくないし、誰かを傷つけてほしくないと思っている。それだけは……忘れないでくれ」
そのままレイドはセレナの右手を取り、微かに目を伏せるとその白い手の甲に、そっと唇を押し当てた。
セレナの手が震えている。そっと目線を上げれば、真っ赤になって自分を見つめるセレナの顔が。
レイドは体を起こし、微笑むとセレナの顎の下に自分の指先を宛い、くいとのどを上に反らせた。
「……愛してる、セレナ」
セレナがはっと息をつき、目を潤ませる。
扇情的なその表情にレイドは小さく笑みを零し、セレナの唇を見つめた。
ぷっくりと膨らんだ桜色の唇は微かに開き、酸素を求めるように忙しない息をついている。
セレナも、この後レイドが何をしようとしているのか察しているのだろう、双眸は微かに細められ、うっとりと情熱を孕んだ眼差しで真っ直ぐに、レイドを見つめ返していた。
レイドの体が傾ぐ。セレナの瞼が静かに伏せられ、二人分の吐息が間近で絡み合い――
――すっと、レイドの呼吸が遠のいていく。
驚いてセレナが目を開くと、すぐ間近にあったはずのレイドの顔が離れており、言い様のない失望に胸が潰されそうになる。
「悪い、セレナ」
口付け間近で拒絶されたと思ったセレナは微かに唇を震わせたが、レイドの大きな手の平が優しくセレナの頭を撫で、慰めるように髪を梳る。
「少しだけ……待ってくれるか」
「レイド様……」
「大丈夫。すぐ戻ってくるから……な?」
少しだけ意地悪に、甘く妖艶に、耳元で囁かれる。
一瞬で不安が吹き飛び、セレナは頬を赤らめると言葉もなくコクコクと頷き、大人しくベッドの上で丸くなった。
レイドはもう一度、セレナの髪の房に口付けを落とすと腰を上げ、セレナに背を向けた。
部屋のドアに歩み寄り、ゆっくり押し開ける。エヴァンス王子が貸してくれた客間はしんとしていて、人気はない。静寂そのものだ。
だが、それで騙されるほどレイドはヤワではない。
レイドは、セレナの前ではすっかりとろけきっていた顔を引き締めていつも通りの「紅い狼」の表情に戻ると、ツカツカと真っ直ぐに続き部屋の方に足を進めた。
ゴソゴソという不穏な物音。何人かの囁き合う声。
レイドは無表情で、部屋のドアを開け放った。
奇怪な悲鳴を上げながら逃げてゆく、見慣れた面々。金髪の少年が何か言い訳の言葉を述べながら、隣にいたオレンジ色の髪の少女の手を掴んで真っ先に逃げだす。黒髪の美女は、さして驚いた様子もなくするりと開いたままのドアから廊下に滑り出て、小柄な少女はきゃはは、と笑い声を上げ、ふと思い出したように振り返ると、背後にいた大柄な男の背中に強烈な蹴りを入れた。
細身の少女相手といえど、完全に不意打ちだった男は野太い悲鳴を上げて倒れ込み、そんな彼を嘲笑いながら少女は扉の奥へと消えてゆく。ドアを閉めることも、忘れずに。
静かに男の足元へ歩み寄るレイド。尻をしたたかに打った彼は患部をさすりながら体を起こし、そして凍てついた眼差しで自分を見下ろすレイドを見てぎょっと顔を強ばらせた。
「よ……よう! いやぁ、実は俺たちもセレナを見舞おうと思ってさぁ!」
「……」
「セレナも元気になったようで、俺ぁ安心だよ! まったく!」
「……」
「い、いや、別に俺だけじゃないだろ、ノルテたちだってドアの隙間から……」
「……」
「だからその、エヴァンス王子に聞いたらこの部屋にいるって言うからさ、ちょーっと様子見ようと思っただけで……おい、その物騒な物をしまえ! やめろ、許してくれレイドーーーーー!」
穏やかなアバディーンの昼下がりの空を、オリオンの絶叫が満たしていった。




