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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第4部 黒薔薇舞う
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血塗られた憧憬 4

残酷描写注意

 王妃の庭園と違い、王の庭園には街灯型の魔道ランプは据えられていなかった。そもそも夜中に立ち寄る場所ではないのだろう、綺麗に雪が払われた芝生の庭はだだっ広く、一寸先がねっとりとした重い闇に包まれている。

 オリオンの肩に乗っかって庭園を進むにつれ、レティシアの鼻にも例の、人間の血の臭いが届いてきた。むせ返るような、濃い血の臭い。


 レイドとクラートを先頭に、その後にミランダとノルテが、最後にレティシアを担いだオリオンが歩いていると、ふいにレイドたちが足を止めた。


「……待て」


 低いレイドの声。それに混じって聞こえるのは、誰かのうめき声。血の滴る音。血の塊を吐き出す鈍い音。

 レイドの右腕が上がり、ノルテたちを止める。


「……レティシアとミランダはこれ以上来るな。ノルテ、おまえも下がっていた方がいい」

「大丈夫。手伝うよ」


 事の次第を悟ったのだろう、ノルテが毅然とした声で言い、すたすたとレイドたちの方へ歩んでいった。オリオンがその場にレティシアを下ろし、軽く肩をすくめてノルテの後に付いていく。


 レティシアの視界を塞ぐように覆い被さってきたミランダの腕に縋りながら、レティシアはぎゅっと目を閉ざした。視界を遮られても、嫌でも耳には例の音が飛び込んでくる。あの匂いも、夜風に乗って鼻に届いてくる。


「……酷いな。これは、ほぼ全滅か……」

「ああ……しかもこれは、かなりの手練のようだ」

「リデルの兵士でも歯が立たないなんて、相当だよ? しかもこの人数を……」


 クラートたちの声が聞こえてくる。戦に疎いレティシアでも、この庭園で何が起きたのか嫌でも分かった。


 ついさっき、この緑豊かな庭園で殺戮檄が繰り広げられたのだ。

 レイドたちの調査の様子から察するに、相手はごく少数。王宮兵士たちが応戦したが、八割方が殺害され、残った者も意識不明の重体に陥っている。


 ぴちゃん、と血の跳ねる音が響く。

 少し離れたところで、ごふっと鈍い音がする。急ぎオリオンがそちらへ向かい、闇の中でしゃがみ込む。彼はしばし草地に膝を突いて何事かしていたが、ややあって立ち上がると、こちらにむかって緩く首を横に振ってきた。

 彼の言わんとすることが分かり、ぞくっとレティシアの背筋に悪寒が走る。


(……なんで、こんなことが……)


 立て続けに起こる事件に頭が着いていけず、ミランダにしがみつくしかできないレティシアだったが。


「……状況は最悪だ。すぐさま城の者を呼ばなければ」


 レイドのはきはきした声が響く。


「ミランダ、すぐに衛士を呼んでこい。ノルテは夜会会場の方へ連絡を。オリオン、王宮騎士団に駆け込んで応援を呼んでくれ。それからクラート、おまえはすぐにレティシアを部屋まで連れて行け」


 すっと、ミランダの腕が離れていく。すぐに、別の人物の腕がレティシアの腰に回った。


「こんな所まで付き合わせてごめん、レティシア」


 クラートは言い、自分の着ていたチュニックを脱いでレティシアに頭から被せた。庭園の惨状を見せないためだろう。

 チュニックの間から窺うと、クラートはその場にしゃがみ、渋い表情でレティシアと目を合わせていた。


「事態は最悪だ……セレナを探している場合じゃない」

「でも、セレナが今もどこかに……」

「うん。でも僕たちもそれぞれ、今の状況を解決しなくてはならない」


 慰めるようにクラートは言い、レティシアをゆっくり立たせて肩に腕を回した。


「君にできることは、部屋に戻ってしっかり休むこと。君はもう、十分動いたんだ。……部屋まで送るから、ね?」


 優しいけれど、有無を言わせないクラートの声。

 レティシアはクラートの手をぎゅっと握り、静かに頷いた。


(……ごめん、セレナ……)


 そうして、脳を焼き尽くすような血と死の香りから逃れようと、二人揃って踵を返した。


「……え?」


 最初に声を上げたのは、クラート。釣られてレティシアは伏せていた顔を上げた。


(……あれ?)


 庭園の暗がり。木々が等間隔に植えられた庭の隅の方からやって来る、見慣れた女性の姿。遠くからでも分かる、今レティシアが探していた人物。

 ふわりと、レティシアの肩からチュニックが滑り降りる。それまでの疲れも一瞬で吹き飛び、レティシアはよろめきながら足を踏み出した。


「セレナ! よかった、そこにいたんだね!」


 ドレスの裾に躓きそうになる。それでもレティシアは安堵の笑みを浮かべ、こちらへ歩んでくるセレナに駆け寄った。


「みんなで探していたところだったの。セレ……」

「! だめだ、レティ!」


 鋭いクラートの声が飛ぶ。


 クラートに叫ばれてレティシアが足を止め、クラートがだっとレティシアに駆け寄り、何事かと振り返ったレイドが目を瞠る。

 それと同時に。


 ゆらゆらと左右に揺れながら歩いてきたセレナの右腕が、ゆっくり持ち上がる。その手に握られているのは、細長い棒――否、サーベル。

 犠牲者の血を吸った、赤黒い刀身が煌めく。


「っ、レティシア!」


 クラートが絞り出したような声を上げて、その場に立ちつくすレティシアの腰を掴んだ。

 完全に意識を飛ばしていたレティシアはあっけなくバランスを崩し、クラートと二人して芝生に倒れ込んだ。


 そして、つい数秒前までレティシアの喉があったところを、セレナのサーベルが薙ぎ払っていた。ひゅん、と刀身が何もない空を切り、レティシアの目の前を赤黒い剣先がかすめてゆく。


「下がってろ!」


 レイドが駆けだし、護身用の剣を抜いてセレナのサーベルに打ち掛かった。

 金属と金属がぶつかる鋭い音が夜空に響き、レイドの剣とセレナのサーベルが十字架を描くように交わる。


 そこでレイドは微かに眉をひそめ、渾身の力を込めて剣を振り上げた。セレナの体は、サーベルを弾かれて軽く仰け反る。


 その時初めて、レティシアは真正面からセレナの姿を見――そして、悲鳴を上げそうになった。


 その姿は間違いなく、親友そのものだった。

 だがノルテが丁寧に結い上げたはずの豊かなミルクココア色の髪は半分以上崩れて、顔にすだれのように降りかかっている。薔薇をあしらった真っ赤なドレスはあちこちが破れ、引き裂かれているため腹部や脚の肌が露わになっている。どこかで落としたのだろう、ヒールの靴は片方脱げており、かろうじて履いている方もベルトが千切れていた。

 もともと肩や胸部を大きく露出させるタイプのドレスを着ていたのだが、白い肌には赤黒い血が水玉模様のように飛び散っている。


 そして、いつもは優しく細められている両眼は、ふたつが別の方を向いており、くるくると壊れた機械のように意味もなく宙をさまよっていた。


 ぼろぼろになったセレナの衣服。

 明らかに正常ではない目。

 体中に付いている、返り血。

 そして、その白い右手に握られた、血濡れのサーベル。


(嘘でしょ……!)


 嘘だと信じたい。だが、この状況では誰もが同じこと思ったはずだ。


 セレナが、この殺戮を行った。

 兵士たちを惨殺した。


 ギン、と再びレイドの剣とセレナのサーベルが打ち合わされる。

 どう考えてもレイドの方が力が強いはずなのに、レイドは歯を食いしばりながらセレナの攻撃を受け止め、かかとで踏ん張りながらギリギリの所で押し返していた。


「レティシア」


 ぐい、と腕が引かれ、レティシアはずるずるとクラートに引っぱられた。そうされつつも、レティシアは目の前で繰り広げられるレイドとセレナの剣戟を、口を開けて見守るしかできなかった。


『君の友人には最も相応しい役目をさせるつもりだ』


(これが、あんたの言う「最も相応しい役目」だと言うの、エルソーン王子……!)


 レイドはセレナの攻撃を受け流すのみで、ひたすら防戦に徹している。素人であるレティシアの目から見ても、今のセレナはおかしい。加えて、サーベルを操る姿も決して滑らかとは言えない。セフィア城でゴールドナイトに叙されるレイドならば、セレナの攻撃をかいくぐって斬り捨てることも難くはないだろう。


 だが、決してレイドがセレナを斬るはずがない。セレナは本気で、レイドを殺す気でサーベルを振るっているようだが、レイドはセレナを傷つけまいと、全ての剣戟をかわし、受け止め、打ち払っていた。


「レティシア、君はあっちで姿を隠しているんだ」


 言い、クラートはなおも友人と隊長の死闘を凝視するレティシアの肩を掴み、自分の方へ強制的に視線を向けさせる。

 夢半ば状態のレティシアの目に入ったのは、いつも以上に真剣で――そして、かすかに恐怖を帯びた、クラートの青い眼差し。


「魔法を使えない君は、戦力に入れられない。ただでさえ相手はセレナだ。ここはレイドに任せるしかない」

「でも……一体どうするつもりなんですか」


 クラートが掴んでくる肩が痛い。


「あのセレナ、どう考えたって何かの呪いに掛かってます。そうじゃないと……」

「分かってる。僕だって分かってるし、レイドだって気付いている」


 急いて答え、クラートはブルーの目を細める。二人の対話を遮るように、レイドとセレナの剣戟の音が夜空に響いていた。


「そうでないと、セレナがレイドと渡り合えるはずがない……そもそも、セレナが人殺しなんてできるはずがない。だからレイドはセレナが弱るのを待っているんだ」


 ギャン! と鈍い鋼の音が耳朶を震わせる。


 剣を弾かれたセレナがふわりと宙を舞うように跳んで後退し、左手を芝生に突いて着地した。そしてすぐにまたサーベルを構え、鎌鼬のごとき一撃を見舞う。

 レイドが鋭く突き出されたサーベルを装飾剣で弾くと、セレナのサーベルに付着していた犠牲者の血糊が飛び散った。

 夜闇の中で、まるで漆黒の薔薇の花びらのように舞い散るそれは、足元の芝生を黒く染め上げてゆく。


「……これ以上、セレナに無実の罪を負わせてはいけない。だから、レイドが防戦に回ってセレナが力尽きるのを狙っているんだ。セレナの体力にも限度がある。弱ったところを捕らえるつもりなんだろう」


 淡々としたクラートの説明は、確かに筋が通っている。周囲にこれ以上の味方がおらず、魔法による呪いの解除もできない今、自然と呪いの効果が切れるのを待つのが一番簡略的な解決策であろう。


(……でも、納得できない)


 クラートやレイドの作戦が合理的であるのは分かっていた。

 だが、レティシアはクラートの言葉を聞いても安心することができず、むしろ胸にぞわりとした恐怖の芽生えを感じた。

 何か、この呪いには落とし穴がある。


『……呪いっていうのは、いろいろあってね』


 いつぞや、セレナがレティシアに教えてくれたことが蘇ってくる。


『解除する魔法ももちろんあるわ。ただ、新型の呪いや、既存の魔法や呪いをいくつも組み合わせた厄介なものは、解くのが相当難しくなるわ』

『じゃあ、打つ手なしってことなの?』

『もちろん対策はあるわ。手っ取り早いのは、術者を殺害する、気絶させること。もしくは、呪いを掛けられた者が疲弊して呪いの効果が切れるのを待つ』

『ふーん……つまり、時間は掛かるけど効果切れを待つ方が平和的に解決するのね』

『いえ、そうとは限らなくて。もしも――』


 その後、セレナが言ったのは。


(……! まずい……!)


 ぞくりと、胸の奥から溢れる冷気。

 レティシアは短く息を呑み、そして自分の肩を掴むクラートを押しのけると、よろめきながらレイドに向かって駆けだした。


「だめ! レイド、セレナを気絶させて!」

「レティシア? 何を……」

「早く!」


 レティシアは芝生に足を取られて転び、クラートに助け起こされながら、困惑顔のレイドに向かってあらん限りの声を上げた。


「そうしないと……セレナ、死んじゃうよ……!」


 レイドの隻眼が見開かれる。

 そのわずかな空白を、セレナは逃さなかった。


 剣を握るレイドの手が弛緩したのを狙い、横一文字に斬るようにサーベルを振るう。レイドは素早く反応し、ハッと小さく息をついて後方に跳ぶ。


 サーベルの切っ先がレイドの左腕をかすめる。

 上着の裾が切り裂かれ、細い糸のような鮮血が飛ぶ。


 レイドの剣が銀色の軌跡を描きながら、下から上へ突き上げるように振るわれる。セレナのサーベルが弾かれ、その上体が上向いた瞬間、レイドの体がセレナの懐に滑り込んだ。

 ドッと、重い音を立ててセレナの腹部にレイドの左の拳が沈められる。セレナの手からサーベルがすっぽ抜け、セレナはなおも目を彷徨わせつつも、一度二度、乾いた咳をするとゆっくりと体の重心を失った。


 喉を天に向けるように仰向き、芝生に倒れそうになるセレナの体をレイドの腕がかっさらう。剣を放り出してセレナの体を抱え、どさりと二人して芝生に倒れ込んだ。

 そこでようやく呪縛が解け、まずレティシアが、その後をすぐクラートが駆けていく。


「セレナ!」


 意識を失い、レイドの腕の中でぐったりとする親友の姿は、間近で見ると胸が痛くなるほど傷ついていた。肌は青白く、呼吸は浅い。

 目立った外傷はないが、中途半端に開かれた唇の端からつうっと赤い血が滴り落ちて、レイドの腕を濡らした。着ているドレスもぼろぼろで、豊かな胸元や太ももが露わになってしまっている。

 レイドが自分のマントを脱いでセレナの肌を隠すように被せ、ぐっと唇を噛んだ。


「……レティシア、今のって……」

「……思い出したんです」


 静かに問うクラートに、レティシアはセレナを見つめたまま応える。


「筋力増加の呪い。生命力や体力を削って筋力を増加させる呪いで……あまりに危険だし、武術大会で使われると不正にしかならないから、法律で厳禁されているのです」


 今回の場合、非力なセレナにこの呪いが掛けられた。結果、セレナは近衛兵の大群を屠り、手練の騎士であるレイドと張り合うくらいの剣の腕前を手に入れた。

 だがその代償として、セレナの命が削られていた。


 もしレティシアの制止の声なく、あのままレイドとの剣戟を続けていたならば、削れるだけの命が尽き、結果セレナは死んでしまっていた。

 だからレティシアはレイドの防戦を止めさせたのだ。殴って気絶させればセレナの暴走が止まり、呪いが終了するからだ。

 だが、この呪いが成立するには大きな欠点があったはずだ。


「……けれども、そもそもアバディーン王城は封魔体勢が完備しているはずだろう」


 クラートの指摘にレイドは眉をひそめ、レティシアは目を丸くさせた。


「呪いといえど、魔法の一種だ。ならば、王城内で魔法を掛けることは不可能だ。もちろん、城外で呪いを掛けたとしても、再び城の中に入った時には呪いが解けるはずだ」

「……俺も、思っていた」


 レイドも短く肯定する。


(……そういえば、さっきの王妃の庭園でも同じようなことが起きた)


 エルソーン王子に捕まりそうになった時。ふいに封魔の気配が消え、衝撃波の魔法を放つことができた。

 あの時は驚きと混乱と焦りでうまく頭が回らなかったが。


(私の魔法もあの時だけ使えた……セレナにも呪いが掛けられた……)


 何か、きっかけがあるはず。

 クラートたちにも教えようと、レティシアが口を開きかけた時――


 近付いてくる足音。それも、多数。

 振り返れば、中庭に面した渡り廊下から掛けてくる、衛兵が。その数、ざっと見ても百単位。


「……今来やがったな」


 意識を失っているセレナの体をぎゅっと抱き、レイドが歯噛みした。


「最悪のタイミングだ……」


 なすすべもなく、四人は衛兵に囲まれた。各々、手持ちサイズの魔道カンテラを腕に下げ、手には自身の背ほどある鉄製の槍を持っている。

 その槍先は、まごうことなくレティシアたちに向けられていた。


 レティシアたちを包囲する衛兵の中から一歩、前進する中年男性兵。その他大勢の上司なのだろうか、腕章は他の者のそれよりも豪華だった。

 彼はその場に立ち尽くすレティシアたちと、血まみれで昏睡するセレナ、そしてその足元に転がるサーベルを順に見、徐に口を開いた。


「……そちらの女性を引き取ろう」

「……そ、それは!」


 思わずレティシアが一歩前に出かけるが、そのドレスの裾をクラートが掴み、引き戻される。

 レイドも、一瞬だけセレナに視線を落としたが、すぐに顔を上げてセレナの体を芝生にそっと下ろした。


 衛兵たちがセレナを抱え、去ってゆく。現場検証のためにと兵が散らばり、セレナの手によって命を落とした衛兵の遺骸が搬送される。


「……貴公も同行願おう」


 先ほどの上官が、静かに告げる。見れば、渡り廊下で同じように兵士に囲まれるノルテたちの姿が。


 庭園の死闘は、静かに幕を閉じた。

 だが周囲には、未だ濃い血の香りがねっとりと重く、漂っていた――

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