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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第4部 黒薔薇舞う
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血塗られた憧憬 2

 王妃の庭園前には、さすがに近衛兵がいた。

 だが兵は肩で息をしながら走ってくるレティシアを見ると、何も言わず頭を下げて庭園への道を譲ってくれた。

 レティシアは一言も喋らない兵士に一瞬だけ視線を送った後、すぐに薔薇園に足を踏み入れた。


 庭園の入り口は鉄製のアーチに薔薇を絡ませており、野薔薇の生け垣で小道を作るようになっている。足元には正方形の煉瓦石が敷かれ、通り道を作っていた。

 王妃のために造られた庭園なだけあり、ドレスを纏った状態でも生け垣に衣服の裾を引っかけないようになっていた。レティシアはできるだけドレスの裾を泥で汚さないよう、スカートをたくし上げて薔薇の小道を急いだ。


 小道は薄暗かったが、生け垣迷路を抜けた先の広場には、街灯型の魔道ランプが円を描くように据えられており、夜闇の中でもぽうっとした灯りをもたらしていた。

 広場の中央に立てられた、白銀製のガゼボ。その下に佇む、黒衣を纏った人影。


(やっぱり……)


「……あなただったのですね、エルソーン王子」


 カラカラに乾いた唇を湿してそう声を掛けると、黒衣の人物が振り返った。


 魔道ランプの明かりを受けて燦然と輝く、黄金色の髪。年齢を隠せそうにない、皺の刻まれた顔立ち。

 顔の造りこそは、息子のエヴァンスとよく似ていた。きっとエヴァンスが歳を取ったならば、エルソーン王子のような落ち着きのある中年男性になるのだろう。


 だがレティシアは、このエルソーン王子を魅力的だとは到底思えなかった。

 エヴァンス王子とエルソーン王子の決定的な違い。それは、二人の頬に浮かぶ笑顔の違いだ。


「ようこそいらっしゃった、クインエリアの姫」

「その呼び方は止めてください。極秘事項です」


 低く耳に残るテノールの声に、レティシアは鋭い声を返した。

 じっとりと汗が浮かぶ手の平を手袋の裏側で拭い、エルソーン王子の放つ重苦しい雰囲気に負けじと、顔を上げた。


「それに、私は姫なんかじゃありません」

「今は、な」


 エルソーン王子はクックと笑う。笑い方もエヴァンス王子と似ているのに、これほど背筋が凍るのは何故なのか。

 すぐにでも尻尾を巻いて逃げそうになる脚に鞭打ち、レティシアは挑むようにエルソーン王子をにらみ上げる。


「案ずることはない。この王妃の庭園は、王族のみに許された秘密の薔薇園……我々の声が外に漏れることはない」


 つまり、ここで何が起ころうと外界には伝わらない。レティシアが悲鳴を上げても、誰にもその声は届かない。


(やっぱり、嵌める気だった……!)


 うすうす感じていたことだったが、負けるわけにはいかない。

 レティシアはエルソーン王子に向かい、挑戦的に声を張り上げた。


「……手紙を私に送ったのは、あなたですね」

「そう、一度君とはじっくり話がしたかったのでね」


 言うが早い、エルソーン王子はずいとレティシアに顔を寄せてきた。


 男性が未婚の女性に顔を近づけるのは無礼千万だと、レティシアも知っていた。だからレティシアは、四十代の男性の顔が間近に近付いたためぎょっと身を引いた。


「……おや、やはり姫は純粋な方だったか……暗がりの中でも、真っ赤なお顔がよく見えますよ」

「……ほっといてください。それより」


 レティシアはキッとエルソーン王子をにらみ上げた。何よりもまず、親友の安否を確認したかった。


「……私の友人に何をするつもりなんですか」

「別に、何も? だがこれからの君の返答次第では、何か起こるかもしれないがな」


 そう応えるエルソーン王子の声は弾んでおり、親からのプレゼントを期待する子どものような気楽ささえ窺われた。

 セレナのことが心配でならないのに、エルソーン王子は焦るレティシアを見て愉しんでいるのだ。

 暗がりの中、レティシアの額に青筋が走る。


(何よ、それ……!)


「考えてもみなさい、姫」


 エルソーンは目を見開いて怒りを露わにするレティシアをなだめるように、急に穏やかな口調になった。


「君はクインエリア大司教の娘。いずれ聖都の頂点に立つべき身だ。だが……君の友には何がある? 君が身を張って助けに来るほどの価値があるのか?」


(あるに決まってるから来たんでしょーがっ!)


 今にも噛みつきそうな勢いのレティシアを一瞥し、何故かエルソーン王子は哀れむような色を瞳に浮かべた。


「……私はね、君が来ないことも想定していたのだよ。君が友人を見捨て――もしくは手紙が虚構だと信じて、ここへ来ないことだって計算に入れていた」


 だが、君は来た。

 愚かにも、手紙に書かれたことを全て鵜呑みにして。


 エルソーン王子の言葉を耳にして、レティシアは体中の力が抜けそうになる感覚を覚えた。

 やはり、罠だった。クラートたちにも、あの手紙を見せるべきだった。セレナを助けようと、暴走してしまった。


(でも……)


 混乱して爆発しそうになる思考の片隅で、冷静な自分が訴えている。

 先ほどエルソーン王子は、セレナの身に「何か起こるかもしれない」と言っていた。つまり、今この場にセレナはおらず、もしくはこの瞬間はセレナは捕らえられていないにしろ、セレナはエルソーン王子の管轄内にいるのだ。


(エルソーン王子は、私の返答次第でセレナに手を出すと言ったけど……)


 逆に言えば、レティシアの返答次第ではエルソーン王子からセレナを守ることができる――もしくは、王子の関心からセレナを引き剥がすことができるのだ。

 ここ数日、セレナが浮かべていた哀しそうな笑顔が脳裏に蘇る。


(大丈夫だよ、セレナ……絶対守るから)


 親友のためにと、眼差しを変えたレティシア。

 だがその決意も、エルソーン王子の言葉によって一瞬で打ち砕かれてしまった。


「夜会中にちょろちょろする見慣れない侍女二人……さて、どう料理するものかと悩んだものだ。聖都クインエリアの娘はともかく、もう片方はどうとでもなる。君を釣るための材料にしてもいいし、こちらの駒にしてもいい。それも適わぬのならば、物好きな兵士の処理役にでもすればいいのでな」

「なっ……!」


 レティシアの顔から血の気が引き、そしてすぐに火傷したかのような熱に襲われる。エルソーン王子の言っていることが分からないほど、レティシアも馬鹿ではない。


 最低野郎、女の敵、男のクズ、一遍地獄に行け――様々な罵倒が思い浮かんだが、結局声に出たのは「……外道」の一言のみだった。

 だがそんなレティシアの必死の抵抗も、エルソーン王子は余裕綽々の笑みで受け流した。


「外道で結構。姫には分からぬかもしれないが、王宮は陰謀と策略に満ちている。これぐらいでないと、生き残れないのだよ」

「へ、平然と言ってるんじゃないわよ、このクズ!」

「……本当に品のない姫君だ」


 エルソーン王子はわざとらしく落胆のため息をつく。


「まあ、君の友人には最も相応しい役目をさせるつもりだ。だが……忘れていないか? 君が今、どのような状況にいるのか」


 いきなり黒いマントの奥から腕が伸びてきて、なすすべもなくレティシアの右腕が捕らえられた。手首を締め付けんばかりの握力に、レティシアは思わず悲鳴を上げた。


「な、何すんの! この暴力野郎!」

「……下品で俗な言葉をご存じのようだが、これから先、妃となる上で調教すればよいものだ」


 下品、俗、という言葉はともかく。


 レティシアは「妃」という一言に、さっと顔を青くした。王子に掴まれた腕が震え、指先が白くなる。


「何を……」

「レティシア・バル・エリア」


 薔薇園を、冬の風が吹き抜ける。レティシアのオレンジ色の髪を靡かせ、エルソーン王子の黒いマントをはためかせる。


「私の妃になってもらおう」










 同時刻、夜会会場前では――


「……何? それじゃあ、セレナは行方不明になったのか?」


 会場に駆けつけてきた仲間たちの報告を聞き、クラートは低く唸った。


「嫌な予感ばかりが浮かぶ……さては、セレナを囮にしてレティシアを釣ろうとしたのだろうか」

「まあ、その逆はあり得ないでしょうからね」


 ミランダが平然として言う。


 夜会会場前に集ったディレン隊は五人。

 五人の中では最も平常心を保っているミランダではあったが、その声に微かな震えが混じっていることに、誰もが気付いていた。


「どうにかしてセレナを捕まえて、レティシアを呼び出したってところかしら」

「でも、レティシアが目的だったってことは、相手はそうそう容易い敵じゃないわよね」


 胸の前で腕を組むノルテが何気なく言う。


「だって、レティがクインエ……」

「ノルテ!」


 オリオンの鋭い怒号が飛ぶ。ノルテは口を閉ざし、うろんな眼差しでオリオンを睨め付け――はっと、ブルーの目を見開いた。

 恐る恐る視線をミランダへずらすと、ミランダは数度瞬きした後、ふうっと深いため息をついた。


「……お気遣いありがとう。皆までは言う必要はないわよ、ノルテ」

「ミランダ……」

「私だって魔道貴族の端くれ。あの子がただ者じゃないって、うすうす気付いてはいたから」


 言い、ミランダは顔を上げた。その凛とした面差しに、迷いや疑惑はなかった。


「レティシアの正体が何なのかは、ここでは無関係よ。私たちは行方不明になった仲間二人を捜せばいいだけ。……クラート公子、会場への連絡は?」

「済ませた。うちとエステス家の使用人には事情を伝え、バルバラ女王陛下にも伝言を頼んだ」


 クラートは順々に仲間たちの顔を見つめた。


「今なら全員自由に動ける……すぐに二人を見つけないと。レイド」


 それまでずっと黙りだったレイドは、クラートの呼びかけに一瞬顔を上げかけたが、すぐにまた俯いてしまう。仲間の誰とも視線を合わせないように、灰色の目を伏せてしまっていた。いつものような威勢も、周囲を圧倒させるような気配も、一切なかった。


 そこにいるのは、レイドの姿をした大きな人形。


「レイド、何が起きたのかまでは言わなくていい。とにかく今は動かないと」

「今、レティシアとセレナは間違いなく別行動しているわ。おまけに城内のどこかにはエルソーン王子もいる」


 クラートの声に被せるように、ミランダもやや棘のある口調でレイドに詰め寄る。


「間違いを犯したならば、必ず汚名を返上しろ。その機会ならいくらでも与えてやろう。……これ、あなたがいつも口にしていた言葉でしょ。今、まさにその汚名返上の機会が来たんだから。セレナたちを探しに行きましょう、レイド隊長」


 レイドの肩が揺れる。いつもは堂々としており自信に満ちているレイドだが、今の彼は完全に萎れ、意識を飛ばしてしまっている。


「ねえ、レイ……」

「失礼します、クラート公子」


 背後から声が掛かり、五人の手前にオルドラント公国の紋章入りの腕章を着けた兵士が跪いた。


「お話中申し訳ありません。報告を致してもよろしいでしょうか」

「構わない。だが、手短に頼む」


 クラートの返事を受け、兵士はその場に深く頭を下げた。


「はっ……先ほど連絡が入りまして、『黒翼館』四階通路東奥にて、若い近衛兵の遺骸が発見されたそうです」


 兵士の報告に、皆一斉に不可解な表情をした。


「……死因は?」

「それが……詳しくは調べていないのですが、腹部を攻撃魔法で貫通されたためかと」


 オリオンの問いかけに兵士は答えにくそうに言い、それを聞いたクラートたちもさすがに目を瞠った。


 アバディーン王城内が魔法全面禁止だというのは、城下町でちゃんばらごっこしている子どもでも知っていることだ。多少の不便には目をつむってでも、不審な魔法が発動されないよう、魔法無効の結界を張り巡らしているのだ。


 そんな城内で起きた、魔法による殺人事件。

 兵士は言葉を失うディレン隊に一礼し、「そこで」と懐に手を入れた。


「現場を検証した結果、こちらが……」


 兵士が懐から出したのは、真っ白な布にくるまれた、何か。


 クラートが緊張に満ちた手で受け取り、そっと布を巻き取る。

 皆が息を呑んで見守る中、布の中から姿を現したのは――点々と黒い返り血を浴びた、赤薔薇のコサージュだった。

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