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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第4部 黒薔薇舞う
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血塗られた憧憬 1

 レティシアは、弾かれたように顔を上げた。

 薄暗がりに包まれる、パーティー会場隅の緞帳の奥。クラートとオリオンが、それぞれの顔に濃い影を落としながら不安顔でこちらを窺っている。


「レティシア、その手紙は一体……」

「……行かないと」


 手紙を覗き込もうとしたクラートの胸を、無意識の内に押し返す。

 そうして手紙と封筒を重ねてドレスのコルセットの間に押し込み、レティシアは二人に背を向けると重い緞帳を押し上げて、会場に滑り出た。


 既に貴賓らの注目は自分から逸れていた。レティシアはずれ落ちそうになる帽子を片手で押さえながら、人々の間を縫うようにしてホール出口へと向かった。

 足元にまとわりつくロング丈のドレスが鬱陶しい。自分の行く手をブロックするように立つ貴族たちが邪魔くさい。


「すみません……よけて、ちょっとよけてくださいっ……!」


 半ば肩で押しきるようになりながら客人たちを退け、会場から抜け出した頃には既に、体にはじっとりと汗が浮かび高級なドレスは皺だらけになっていた。


 だが見た目を気にしている暇はない。レティシアは背後を振り返り、クラートらの姿がないのを確認してもう一度、謎の手紙を開いた。


(友……ってのは、やっぱりセレナのことだよね)


 文字はよくある筆記体で、記述者の正体が見えにくい。

 だが紙の折りたたんだ反対側にはインクの掠れた跡が写っており、インクもまだ十分には乾いていない。手袋を外した指先でそっと文字をなぞると、指の腹に青黒いインクの筋がついていた。


(じゃあ、これを書かれてまだ間もないってこと……)


「レティシア!」


 鋭い声が掛かり、レティシアは反射的に身を翻し、持っていた手紙をぐしゃりと握り潰した。

 見れば、廊下の暗がりからドレスを翻して駆けてくる友人二人と、赤髪の騎士が。


「ノルテ……ミランダにレイド」

「ちょうどよかった! ねえ、レティ。セレナがいないの」


 はあはあ肩で息をしながらノルテが訴える。

 セレナ、の名を聞いてレティシアの肩が震えるが、幸か不幸か、その変化に気付いた者はいなかった。


「『黒翼館』は探したんだよ。でも、どこにもいなくて……レティ、セレナの居場所知らない……」

「ノルテ、セレナを探すのを続けてて」


 早口でレティシアが割り込むと、ノルテはぽかんとした顔でレティシアを見上げた。ミランダもまた、柳眉をすっと細めてレティシアを見据える。


「レティシア、あなたひょっとして……」

「ごめん、時間がないの! とにかくセレナが危ない……!」


 レティシアはミランダの言葉をも遮り、丸まった手紙を再び隠し場所に突っ込んで三人に背を向けた。

 去り際に見えた、ノルテの戸惑いの表情、ミランダのいぶかしげな眼差し、そして――


(セレナ……レイドと何かあったの?)


 レイドの、ガラス玉のように何も映していない虚ろな目。


 レティシアはブンブン頭を振り、仲間たちから逃げるように廊下を駆けた。

 夜会開催中にもかかわらず、廊下の見張りの数は驚くほど少ない。皆、全力疾走するレティシアを見て目を丸くしたものの、止める気はないのかそのまま見過ごしてくれた。


(一体、何が起きてるの……)


 いなくなったセレナ。

 会場から姿を消したエルソーン王子。

 そして、レティシアを庭園へと呼び出した謎の手紙。


 自分のドレスの裾に躓きそうになりながら、レティシアは階段を駆け下りた。


(……っ!)


 レティシアは立ち止まった。そしてドキドキ鳴る胸に手を当てて、ゆっくり周囲を見回す。


 紅い絨毯が敷かれた廊下に、等間隔に据えられた大理石の石像。ぽつぽつと暗がりの中に佇む魔道ランプの明かり。

 特に人影は見あたらない。けれども、先ほど一瞬感じた妙な気配は。


(見られている……)


 監視されているのだ。手紙の指示通りに、一人で王妃の庭園へ行っているかどうか。

 首筋にジリリとした視線を感じつつも、レティシアは踵を返した。そして、庭園へと向かう足を速めたのだった。










 時は遡って。レティシアとクラートが緞帳の奥で語り合っていた、その頃――


 城内を巡回していた若い兵士は、一つ大きなあくびをした。

 夜会開催中は城内の警備を怠ることがなく、こうして城内の随所に兵が配置されている。けれども兵の身分や階級によって担当箇所が違い、彼のように年若く、駆け出しの兵士に与えられる場所はせいぜい「黒翼館」の端の端程度。

 開催直前は会場へ向かう貴婦人たちでごった返していたこの廊下も、いざ夜会が始まってしまえば静寂そのもの。このような早い時間に部屋に上がる貴族はそうそうおらず、巡回兵からすれば「暇」の一言に尽きた。


 早く詰め所に戻って、仲間たちとボードゲームをしたい。

 本日何度目になるか分からないあくびをかみ殺していた兵士は、ふと前方から響いてくる足音に目を丸くさせる。そして一拍遅れて、手に持っていた支給品の鉄の槍を握り直した。


 夜闇の彼方からこちらへ駆けてくる、人影。不審者かと身構えた兵士だったが、その人物は重厚なドレスを纏った若い女性で、しかも体調が悪いのか足元がおぼつかなく、今にも倒れそうな走り方をしていた。


 彼は頭突きせんばかりの勢いで駆けてくる女性を見て、槍の穂先を下ろした。そして彼女に声を掛けようとしたが――その気迫に押され、何も言えないまま彼女は彼の脇を通り過ぎていった。


 ふわっと控えめに香る香水。彼女は面を伏せていたため顔立ちは見えなかったが、あの様子だときっと、男に振られるなりしたのだろう。

 夜会で意中の男性との恋に破れた女性はよく、会場を抜けてどこぞへ去っていく。過去にも何度もそのような女性を見かけていたため、彼は槍の石突きを床に立て、ふうっと息をついた。


 高貴な女性への声掛けは御法度。それが自分のような下級兵士ならなおさら。上階にも見張り兵がいるため、勝手にどこぞの部屋に押し入ることはまず、ないだろう。


 足音荒く階段を掛けていった女性を見送り、兵士は甲冑の頭部に手をねじ込んでぼりぼり頭を掻く。

 それにしても、先ほどの女性は胸が大きかったなあ、と思いながら。












 「黒翼館」の端は、さすがに省エネルギーのためか魔道ランプの明かりも少なく、人通りがない。


 セレナは息も絶え絶えになりながら廊下の柱にもたれかかり、そして壁際に据えられた休憩用のソファに倒れるように座り込んだ。

 せっかく貸してもらったドレスが皺になるのも厭わず、セレナはソファに横倒しになり、肘掛けに両腕を乗せて顔を埋めた。


 誰もいない、静かな廊下。あるのは、心地よい夜の闇のみ。

 一人っきりになると、抑えが効かなくなった。じわりと目尻が熱くなり、それまでずっと堪えていた涙がぼろぼろとこぼれだす。


 喉を引きつらせながら嗚咽を堪え、思わず漏れそうになるうめき声を、自分の剥き出しの腕を噛むことで押さえ込む。

 無様な泣き声は堪えられた。だが、胸の奥で渦巻く負の感情は、堤防が決壊したかのごとく止めどなく溢れ出し、心を闇色に染めてゆく。


 いつだってそう。自分は役立たず。仲間の中の端者。


 セフィア城で出会った仲間たち。性格も何も違うけれど、とても気の合う友人たち。


 全員、何かに優れていた。何かを持っていた。

 それは身分だったり、武力だったり、魔力だったり。


 自分にも何かあると思っていた。何か、皆を助けられると信じていた。

 自分にしかない、何かがあると信じていた。妄信していた。


 でも。


「……私には……何もない……」


 何も、ない。


 レティシアのような類い希な魔道のセンスや高貴な血も。

 クラートのような弓の腕と公子としての身分も。

 オリオンのような類を見ない武術も。

 ノルテのような明るさやドラゴンを操る力も。

 ミランダのような絶世の美貌と知性も。

 そして。レイドのようなカリスマ性や美しさも。


 ない。


 何も、ない。


 皆を助けることしか、できない。


 仲間たちが輝ける場を提供するしか、できない。


 仲間たちの引き立て役にしか、ならない。なれない。


 ぐるぐると、思考は悪い方にばかり傾いていく。魔道ランプの明かりはいつの間にか消え、廊下はねっとりとした濃い闇に包まれている。


 この暗闇の中にいると、なぜが心が落ち着く。そして、芋蔓式に自分の暗い部分が引き出されていく。


 ――あの日。レティシアの先輩になれると分かって、本当に嬉しかった。

 言っては悪いが、出来のよくないレティシアを指導できる。師として教えを授けられる。ずっと魔法を放てなかったレティシアが紅茶の澱屑を飛ばしたときは、我が事のように嬉しかった。彼女が成長できたのは自分のおかげなのだと、言葉には表さないが自尊心に包まれていた。

 そして、自分はレティシアよりも優れているのだと、暗い優越感に浸ることができた。


 だが、二度目の遠征で明かされた真実。

 レティシアはクインエリア大司教の娘であり、かのフェリシアに並ぶ潜在能力を秘めた魔道士であること。

 リデル国王とカーマル皇帝と並ぶ権力を持つ、聖都の大司教の座に就く未来を与えられ――そしてその栄光を蹴ることすら許された少女であること。

 いずれは自分を追い抜き、遥か高みへと昇ってゆく力を持つこと。


 ――ショックだった。


 やはり、自分は勝てなかったのだ。


 魔法の才能や勉強では勝てると思っていた。でも、やはり勝てなかった。

 自分はレティシアを育て、レティシアの引き立て役として終わってゆくのだ。


 それでも、レティシアは特別扱いされることを拒んだ。聖女扱いされるのを否定し、いつも通り友人として接してほしいと懇願された。

 だからセレナも、それを受け入れた。これまで通り、友として、姉代わりとして、レティシアの側にいることを決めた。


 だが。真実は頑として変わらない。あらゆる点でセレナが劣っているという事実は。


『見苦しい』


『体を売って情報を買おうとでも思ったのか』


 レイドの冷たい声が、耳の奥でこだまする。

 最後の砦が崩壊した、その瞬間だった。

 レイドに信頼されている。最後の頼みの綱が、音を立てて切れたのが分かった。


 ――もう、何もできない。


 もう、何を頼みにすればいいのか分からない。


「……私は……」


 ソファに沈み込み、引きつる喉を押さえながら嗚咽を耐えるセレレナ。


 廊下に立ちこめる闇は、いつの間にか密度を増し、セレナを包み込んでいた。

 ねっとりとした重い闇に包まれて、少しずつ、セレナの意識も遠のいていった――











 青年兵はくああ、と大あくびした。そして慌てて口をつぐんで周囲を見渡すが、この廊下に自分以外の影がないと確かめ、ほうっと肩の力を抜く。

 もうそろそろ、交代の時間だ。引き継ぎ相手が来さえすれば、自分は晴れてこのような陰湿な廊下から解放される。ようやっと詰め所に戻って遊ぶなり、仮眠を取るなりできる。


 さて、今夜は何をして過ごそうか。

 眠気覚ましと暇つぶしを兼ねて手持ちの槍をぐるぐると回していた青年は、廊下の暗がりからやって来た姿を目にし、手を止めた。そして危うく取り落としそうになった槍を掴み直す。


「……あれ?」


 こつこつと、暗闇の奥から歩み寄ってくるのはつい先ほども見かけた、扇情的なドレスを纏った女性。胸元が大きく開かれているので、歩く度に胸が揺れる。塔のように高く結い上げられた髪がふわふわと尾を引いてたなびいている。


 先ほどは声を掛けるのも躊躇われるような失望っぷりだったが、今の彼女の足取りはしっかりと、落ち着いている。

 きっと会場に戻るのだろう。彼は槍を握り、エスコートを申し出ようかと右手を差し出した。


 女性の面が上がる。そして彼が声を掛けようと口を開いたとたん――


 ――どっ、と胸に何かがぶつかり、息が詰まる。


 手を伸ばした形のまま、彼は自分の胸にぶつかった何かに違和感を感じて左手で胸元をまさぐり――そしてそのまま、前のめりにどうっと倒れ込んだ。


 女性は未だパチパチと電撃の名残がはぜる右手を下ろし、胸に大きな穴が空いた青年兵を冷たい目で見下ろす。


 きっとこの若い兵士は、自分が事切れたことにも気付いていないだろう。見開かれた彼の目には、驚きや恐怖の色はなく、きょとんとした無邪気な色が未だに残っていた。

 どくどくと濃い血を流す青年兵の遺骸を靴のつま先で押しのける。そしてしゃがんで、側に転がった鉄製の槍を拾い上げる。


 槍の長さは彼女の身長ほど。王宮勤めの兵士に支給される、先が三叉に割れた一般的な鉄の槍。

 彼女はそれを右手に持って何度か軽く素振りをし、ふと顔をしかめた。そして落胆のため息と共にそれを両手で構え、ばきっといとも容易くへし折ってしまった。


 細い木の棒のごとくあっけなく鉄製の槍は真っ二つに折れ、彼女はそれを床に放る。毛足の長い絨毯の上を転がる槍の残骸には目もくれず、彼女は既に温もりを失った青年の遺骸に手を掛け――瞳孔が見開きっぱなしのまぶたを軽く閉じさせ――その腰に下げられていたサーベルを抜き取った。


 先ほどの槍よりずっと軽いそれは、軽く振ってみただけで彼女の手に馴染み、持ち主の手入れが施されているため、おろしたてのように艶やかに煌めいていた。


 彼女の朱の引かれた唇がニッと吊り上げられた。

 銀の刀身を見つめる茶色の目は、この世ではない、どこか別の場所を見つめていた――

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