影で動く者たち 4
パーティー会場隅で、ちぐはぐな会話が繰り広げられている、ちょうどその頃。
「黒翼館」のエステス伯爵令嬢用客室では。
「じゃあね! その悩殺ボディでレイドをコロッとさせちゃってよ!」
バルバラ王国王女が子犬のように飛び跳ねながら部屋を出ていく。セレナはそんな友人の後ろ姿を見送り、ぱたんと閉じられた扉を恨めしげに見つめた。
セレナの要望を受けてくれ、ノルテが最終チェックしてくれたのだ。ミランダはとっくの前に会場に行っており、レティシアもついさっき出ていったところだ。そしてノルテも、「今日は姉さんと一緒なんだー!」とご満悦で会場に向かってしまった。
セレナは振り返り、鏡に映る自分の姿を見た。何回、何十回見直しても決して慣れることのできない、飾り立てられた自分。
赤色がいいと、セレナはミランダに申し出た。
最初は驚いた表情をしたミランダもすぐに優しい眼差しになり、その時持っていたオレンジ色のドレスを仕舞って、この豪華な深紅のドレスを出してくれたのだ。
赤は、レイドの髪の色。
憧れて止まない、あの人の色。
(レイド様……)
セレナはそっと、胸元に手を遣った。
ずっと、隠していた。ずっと、知らない振りをしていた。
なぜなら、叶うことはないから。想うだけで十分だから。
彼の側に入れるだけで、幸せだから。
だから、少しだけいつもより大胆になってしまった。
セレナは、きゅっと唇を噛みしめて鏡に見入った。そうすると、それまでは別人にしか見えなかった鏡の中の自分が、急に身近に感じられた。
このような高価なドレスを着る機会なんて、もう後先ないだろう。今回だって、レティシアが夜中の徘徊行動を起こさなければ決して、このドレスを身に纏うことがなかった。
だから、レティシアには感謝してもし足りなかった。人生で最初で最後だろう、令嬢のドレスを着る機会を与えてくれたこと。レイドをこの部屋まで呼んでくれたこと。
深紅の髪の隊長のことを想うと、きゅっと胸が苦しくなった。
(大丈夫、きっと大丈夫よ)
あの優しいレイドなのだから。セレナが心から尊敬する彼なのだから。
(一度くらい願ったって、罪にはならないよね)
そう、一度だけなのだから。
地味で平凡顔で、取り立てて美点のない自分の、晴れ舞台になるのだから。
明日からは、ちゃんといつも通りのセレナに戻るから。
(女神様……今日くらいは、夢を見させてください)
ドアが、鳴る。
一度、二度。所在を確かめるように、叩扉される。
弾かれたように顔を上げ、セレナは背後を振り返った。ノルテは鍵を掛けずに出ていってくれたようだ。
「……開いています」
掠れきった、震えた声で告げると、それに応えるように、ゆっくりとドアが押し開かれた。
燃えるような紅い髪。騎士の礼装である軍服に身を包んだレイドはドアを閉め、そして顔を上げると真っ直ぐ、セレナを見つめてきた。
灰色の隻眼が見開かれ、端正な顔に驚きの色が走る。
その視線を浴び、セレナは思わず回れ右したくなるような気持ちに襲われる。
(だめ! ここで逃げたら、ミランダ様たちに申し訳ない……!)
及び腰になる体に鞭打ち、セレナはぐっと背中を伸ばしてドレスの裾を摘み、その場でゆっくり一回転した。
高く結い上げられた髪が舞う。ノルテが掛けてくれた香水がふわりと香り、薔薇の花の刺繍が入ったショールが羽のように踊る。
「あ、の……レイド様」
再びレイドを正面から見据えると、彼は何も言わず、腕を組んでセレナを見返していた。
レイドの返事がないことに一抹の不安を覚えつつも、セレナは果敢に声を絞り出した。
「そ、その……このようなドレス、初めてで……似合っているか、不安ですけれども……」
セレナの声を受けて、レイドの視線が動く。
頭のてっぺんから少しずつ視線が下がり、ばっちり化粧された顔と、露わになったのど元と、胸元と、それから爪先まで。
舐めるような視線、ではなく確かめるような、見定めるような眼差し。
いつも通り、感情に薄いレイドの表情。
(お願い、早く何か言って……!)
耳の裏まで心拍音が鳴り響き、うるさいくらいだ。むき出しの胸元に汗の粒が浮かび、ドレスの襞に隠した指先が震える。
レイドの薄い唇が、ゆっくり持ち上がる。
「……しい」
「え……?」
「見苦しい、と言った」
その口元から告げられたのは。
正直な褒め言葉でも、照れ混じりの賛美の言葉でも、ましてや礼儀に適った世辞の言葉でさえもなかった。
見苦しい。
そう言ったレイドの顔は、他人の顔をしていた。
セレナたち仲間に向ける温かいものではなく、凍てついた、この冬空のような寒々しい目だった。
告げられたセレナは、数拍、その言葉の意味することを理解するのに時間が掛かった。
ゆっくりゆっくり、頭の中でその短いフレーズを読み込み、そして震えていた指先が振動を止め、はたりと力なく垂れ下がった。
「……見苦、しい……?」
「おまえらしくもない」
レイドはすげなく言い放ち、視線を反らすとひとつ、息をついた。
「その格好は、一体何のつもりだ? 街の娼婦ではあるまいし、夜会にそのような出で立ちをして何をするつもりだ。どこかの貴族でも落とすつもりだったのか」
すらすらと流れ出てくるのその言葉は、一つ一つがセレナの胸を突き破り、じわりとした毒を注ぎ込んできた。
セレナは、ついさっきとは全く違う震えに体を蝕まれ、青ざめた唇を持ち上げた。
「……何を……何を、おっしゃるのですか」
「思ったことを言ったまでだ」
そう答えるレイドの眼差しは、もうセレナを捉えてはくれない。
分かっていた。
ちゃんと、分かっていた。
自分らしくない格好だと。
地味で目立たない自分には、不釣り合いなドレスと化粧だと。
もっと落ち着いた色とデザインのものを選べばよかった。ミランダが勧めたものを着ていればよかった。
分かっていたけれど。
それでも、「綺麗」と言ってほしかった。
「赤が似合う」と思ってほしかった。
レイドに、褒めてほしかった。
セレナという存在に、気付いてほしかっただけなのに。
打ちひしがれ、それでもなけなしの力で両脚で立っていたセレナだったが、レイドは最後に、角材で殴られたに等しい衝撃を与えてきた。
「それとも何だ。体を売って情報を買おうとでも思ったのか」
「なっ……!」
体が冷えたのは一瞬だった。
気付けばセレナはレイドに詰め寄り、右手を大きく振り上げていた。慕って止まない人の頬を張ろうと、構えていた。
レイドは静かな眼差しで、そんなセレナを見返していた。怒るでも呆れるでもない、張り手を受け入れたような眼差しで。
素直に殴られようとするレイドを見ていると、振り上げた右手がどうしようもなく、滑稽に思われた。尊敬する隊長を引っぱたこうとする自分が、ひどく矮小で、小汚い存在に思えてきた。
「私は……あなたに、褒めてほしかったのに……」
届かないと分かっている、絞り出された本音。紅い唇からこぼれ落ちた、小さな願い。
綺麗と言ってほしかった。
似合っていると言ってほしかった。
もう若くもないのだから、最後に一度、夢を見たかった。
恋しく思う人に、夢を見させてほしかった。それだけが願いだった。
レイドの目が見開かれる。
その唇が何か言おうと開かれた直後、セレナは身を翻した。差し出された両腕から逃れ、ドレスの裾を掴んでまろぶように部屋から飛び出した。
背後からレイドの声が響く。でも、もう耳には入らない。
今のセレナの頭の中には、先ほどのレイドの冷めた声がいつまでも、ぐるぐる巡っていた。
宴も最高潮に達し、楽団が今巷で大人気のワルツを奏でている頃。
「セレナ……来ないよ……」
そわそわと緞帳をめくり上げて、外の様子を確認しては落胆の声を上げるレティシア。この動作を、もうかれこれ十分は続けている。
窓辺のソファでカクテルを啜りながらそんなレティシアを見守っていたクラートも、さすがに同じ不安を胸に抱いたらしい。グラスをテーブルに置き、懐から懐中時計を出して眉をひそめた。
「……確かに。レイドが部屋に向かうと行っていた時刻から、二十分近く経っている」
「ここまで呼んでくれることになってるんですよね」
レティシアが振り返って焦り声で問うと、クラートはしっかり頷き返してきた。先ほどからアルコールや軽食を持ってきてくれているオルドラントの使用人が、会場に入ったセレナとレイドをここまで招いてくれる予定になっているのだ。
さっきからちょくちょく彼を呼んでは様子を問うているが、まだ二人とも会場に現れないらしい。使用人も疑問に思っているのか、「会場の外で確認して参ります」と言って出ていったきりだ。
「ここまで時間が掛かると、不安になるな」
「場所が場所なだけにですね」
そう応えてもう一度緞帳の隙間から外の様子を窺ったレティシアだったが、思わず息を呑んでしまった。
「クラート様!」
「どうした」
「エルソーン王子が……いなくなってます」
レティシアの言葉を受けて、クラートは目を丸くしてレティシアの隣に立ち、同じく緞帳を持ち上げて会場に視線を走らせた。
「ちょっと前まではいたんです……あそこの、二階席の端っこに」
レティシアが示す先には、空席が据えられているのみ。レティシアの記憶が正しければ、あそこにエルソーン王子が座っていたのは数分前のこと。
「本当だ……夜会中にエルソーン王子がいなくなるなんて、聞いたことがない……」
クラートのつぶやきを、レティシアは唇を噛みしめて聞いていた。
レティシアはセレナの安否確認のために緞帳をめくって様子を見ていたが、同時にエルソーン王子の動向も窺っていたのだ。セレナが来たら一緒に行動するつもりだったため、エルソーン王子の方への注意が疎かになっていた。
「どうしましょう、様子を見てきましょうか」
「いや、君が行くと逆に目立ってしまう。それよりはうちの使用人に命じた方が」
「でも、あの人はまだ戻ってきてませんよ!」
「けれど、今は僕も君も目立ちすぎる。会場から外に出るのが一苦労だ」
緞帳の裏に戻って作戦会議をする二人。そこへ――
「クラート公子。少々よろしいでしょうか」
幕の反対側から響く、焦ったような男性の声。オルドラントの使用人の声ではなく、もっと身近な青年の声。
二人は顔を見合わせて、クラートの方が立ち上がって幕を引いた。
「もちろんだ……入ってくれ、ブルーレイン公子殿」
緞帳の隙間からするりと入ってきた大柄な男は、後ろ手で幕を閉めるとぎゅっと眉を寄せた。そして大きな体を縮め、軍服の内ポケットに手を突っ込んだ。
「二人とも、邪魔して悪い」
「そんなことないよ! オリオン、実はセレナたちがまだ来なくって……」
縋るようなレティシアの言葉にオリオンは一瞬手を止めたが、岩を削ったような顔を歪めたのみで、すぐに胸元から白い封筒を出した。
「……やっぱりこっちも番狂わせが来たな。そっちの事情も気になるが、まずこれを」
オリオンが差し出した封筒。魔道ランプの明かりに照らされた表面に記されているのは、クラートの名ではなくレティシアの名前。それも、「レディ・レティシア」とファーストネームのみ。
「……エルソーン王子がいなくなったってのは知ってるか? 今、外でもうちの部下に捜索させてるんだが、会場前廊下でこれを護衛騎士から受け取ったって……」
オリオンの言葉も耳を素通りし、レティシアは震える指先で封筒を裏返した。当然のこと、差出人名はない。
蜜蝋で閉じられた封筒の上部を千切り、中に入っていた上質紙を取り出す。
一度谷折りしただけの、簡素な手紙。そこには――
『クインエリアの末裔。友の命が惜しくば、一人で王妃の庭園に来い』
緞帳の外では。
夜会が、一切の滞りなく進んでいた――




