影で動く者たち 3
(ちょっと強引だったかもしれないけど、別にいいよね)
クラートのことをからかったのだから、これくらいの仕返し、可愛いものだろう。
(それに、セレナは絶対、レイドにドレスを見せたいと思ってるって)
レティシアは最後にもう一度、鏡に映る自分の姿を確認すると、着替え部屋から出た。
エステス伯爵令嬢の部屋のリビング。ミランダは既に一足先に会場に向かっており、リビングには慣れないドレス姿の娘が二人だけだった。
「セレナ」
窓辺の椅子に座る友人に声を掛けると、ゆっくりと首だけ捻ってセレナがこちらを向いた。
パステルカラーを基調としており、随所に愛らしいレースやリボンが飾られたレティシアの衣装とセレナのドレスは、真逆に位置していた。
おおよそ彼女らしくない、胸元が大きく開いたデコルテのドレスに、高く結い上げられた髪。目元にもばっちりアイシャドウが施され、伏し目がちの眼を色濃く映えさせていた。
ドレスはコントラストの激しい赤と黒をベースにしており、薔薇をモチーフにした飾りやコサージュが随所にちりばめられている。
軽やかな印象のあるレティシアのドレスとは違い、重くてどっしりとした、威厳ある淑女の出で立ちをしたセレナは、そわそわと落ち着かなさげにのど元に手を遣った。
「あの……レティシア。私、おかしくない?」
「おかしいって?」
「いや……こういうドレス着るのって、初めてで……なんだかすごく派手だし、この辺はすーすーするし……」
言いながら、セレナは谷間まで露わになっている胸元を両手で押さえた。セレナの豊かな胸を慎ましく隠すどころかその大きさを際立たせるデザインのため、どうしても胸元が気になってしまうのだろう。
「あの、本当にレイド様が迎えに来られるの? ここまで?」
「うん、昼間にそう言ってたよ」
「……どうしよう……今から凄い緊張してきた」
セレナは白粉を塗った頬を紅潮させ、困ったように眉を寄せて手をもじもじした。
「セレナったら……一応今日のメインは潜入調査なんだよ」
「そうだけど……分かってるけど……」
いつもならばセレナがいきり立つレティシアをなだめる側なのだが、なおもセレナは落ち着かずそわそわさせている。
(って、人のこと言える立場じゃないな)
レティシアはそっと、自分の胸元に手を遣った。鼓動はいつもよりずっと速く、薄手の手袋に填った手にも微かに汗が噴き出ている。
自分だって、緊張している。
なぜなら、この姿をクラートに見せるのだから。
(クラート様は、何とおっしゃってくれるかな)
きっと、褒めてくれるだろう。いや、間違いなく褒めてくれる。彼はそういう人なのだから。
でも、社交辞令やお世辞だけじゃない。彼の心からの意見を聞きたい、と思ってしまうのはなぜだろうか。
レイドやオリオンとは違う、あの暖かな笑顔を自分に向けてほしいと思ってしまうのは、どうしてなのだろうか。
レティシアはブンブンと頭を振った。そして折角セットしてくれた髪型が崩れないよう、そっと帽子を手で押さえる。
余計なことを考えてはいけない。つい今し方自分が言ったように、レティシアたちの仕事は偵察なのだ。浮かれすぎていてはとんでもない失敗を犯してしまう。今回しくじれば、仲間たちの「お説教」程度では済まないだろう。
(気を引き締めないと……せっかくミランダたちも許してくれたのに、無駄にするわけにはいかない!)
「とにかく、お互い頑張ろうよ、セレナ」
セレナの肩をそっと叩くと、セレナは視線を彷徨わせながらもこっくり頷いた。だがそれ以上答える気力はないのか、側にあった丸椅子にすとんと腰を下ろしてそのまま、固まったように動かなくなった。
「準備中」の札の掛かったセレナを数秒見つめ、レティシアは一つ息をつくとセレナに背を向けた。申し訳ないが、ここから先はレティシアも自分のことで精一杯だ。
(健闘を祈るよ……セレナ)
レティシアは背筋を伸ばし、ゆっくりと、ドアを押し開けた。
昨日までは、ミランダの背後に隠れていればよかった。貴族たちの視線を浴びるのは全てミランダ。話をし、情報を仕入れてくれるのもミランダ。レティシアたちはただ、その場にいればよかった。
だが今夜は違う。今のレティシアは「エステス家侍女その一」ではなく、「謎の令嬢」としてパーティー会場に入るのだから。
盾になってくれる人はいない。隣に立ってくれる人もいない。クラートと接触できるまで、一人で耐えなければならない。
緊張でガチガチになった体や脚を、ドレスがうまく隠してくれた。会場前の大扉ではガードマンに不審そうな顔を向けられたものの、ミランダに教わった通り、「エステス伯爵家の遠縁の者で、今夜が初めての社交の場なのです」と告げると、おもしろいほどあっさりと戸を開いてくれた。どうやら、貴族令嬢の常套句らしい。
レティシアはガードマンに思わず会釈しそうになるのをぐっと堪え、胸を張って扉をくぐった。少しでも令嬢らしく見せるため、淡いピンク色のガウンの裾を軽く摘んで。
夜会の雰囲気自体は、今までとそう大差はない。今夜は楽団を招いているようだ。フロアの中央はダンス用に大きく空けられ、会場の奥まったところ、一段低くなっているところに楽団が控えてワルツを演奏しているのが遠目に見えた。
招待客たちは、ある者はフロアでダンスに興じ、ある者はビュッフェ台できらきらしい料理を摘み、またある者は壁際のソファに陣取って話に興じている。
(なるべく目立たないように、入らないと……)
だが、慎重に足を踏み出したレティシアの期待を裏切り、入り口近くにいた貴族たちは一斉に、新しくやってきた令嬢に目を向けた。
「……おや、見慣れない令嬢だな」
「まあ、なんて鮮やかな色の髪……まるで黄昏時の空のようですわね」
「ご覧なさいませ、あのドレス……東内区の専門店の意匠ですわ」
「では、あの令嬢はどこぞの爵位保持家の娘なのか……?」
「そうでしょうね……」
ひそひそ、こそこそと囁かれるのは、どれもレティシアのことばかり。
とたんにかっと頬に熱が上がり、レティシアはぎゅっとドレスの裾を掴んだ。
貴族たちの視線や噂話は、決して悪質なものではない。ミランダが見立ててくれただけあり、どこかの令嬢だと勘違いしてくれた。
(でもこの視線、全然気持ちよくない……)
ぶすぶすと体に突き刺さってくる、幾つもの眼差し。
「どこのご令嬢かしら?」「あいさつすべきかしら?」と囁かれる声。
侍女に扮していた頃は全く浴びることのなかった、好奇心と疑問に満ちた視線。
一歩歩く毎に体力が削れていくような、魂が奪われていくような感覚。
その呪いのような時間は、すぐに打ち払われた。
「……失礼します、レディ」
さっと割れる人垣。聞き慣れた、優しい声。レティシアが「会いたい」と、いろんな意味で思っていた人の声。
げっそりとして俯くレティシアの前に差し出された、手袋に填った手。細くて華奢で、それでいて男らしい手の平。
「レディ……このような場は初めてなのですね。ご気分が優れないのですか」
ゆっくり顔を上げる。そこにあったのは、太陽のような笑顔。
会場の天井で煌々と輝く魔道シャンデリアにも負けない、暖かな微笑み。
周囲の貴婦人たちが黄色い声を上げる中、レティシアはゆっくり頷いた。
「はい……お気を遣わせてしまって申し訳ありません」
「気にしなくていいですよ。……さあ、こちらへどうぞ、レディ」
レティシアの手は、しっかりした青年の手に包まれる。そのまま、二人は会場の視線を浴びながら隅へと移動し、一番窓際の席に向かった。
レティシアがどさりとソファに沈み込み、青年が素早く紅い緞帳を引く。しゅるしゅるという衣擦れの音を立てて幕が下り、窓辺の特等席に二人は包まれていた。
きっと、レティシアのためにここを空けておいてくれたのだろう。青年は、テーブルに置いていた「オルドラント公子予約済み」のカードを裏返し、力なくソファに項垂れるレティシアを見て苦笑いを漏らした。
「何となく予想はしていたけれど……想像にも勝る疲弊具合だね、レティシア」
「返す言葉もありません……」
ふあああ、と冬眠明けの熊のようなため息をつくレティシアの肩をポンポン叩き、クラートはテーブルに据えられていた手の平サイズのハンドベルを数度鳴らした。
緞帳が引かれる気配がし、レティシアが慌てて体を起こそうとするとクラートが肩を押さえて制止した。
「そのまま楽な姿勢でいていいよ。今呼んだのはうちの使用人だから。事情は話しているから、気にしなくていい」
クラートが言ったように、緞帳の隙間から入ってきた使用人の青年はソファに伸びるレティシアに軽く頭を下げると、クラートの注文を受けてすぐに出ていった。レティシアを見ても動揺する様子がなかったので、きちんとこの場の状況を分かっていたのだろう。
すぐに、同じ青年が飲み物の乗ったトレイを手にこちらへ戻ってきた。窓辺で夜景を見ていたクラートの前にはルビーのような深い赤色の液体が注がれたグラスが置かれ、レティシアの所には同じグラスに、青海をそのまま溶かしたかのような澄んだブルーの飲み物が注がれたものが据えられた。
「……不思議な色ですね」
「青い飲み物ってのはそうそうないからね。でも口当たりがよくって、女性に人気のカクテルなんだ」
カクテル、と口の中でレティシアは転がした。ここ数日、ミランダが飲む姿は見ていたが、まさか自分の口に入る日が来るとは思ってもいなかった飲み物。
「これってお酒ですよね」
「そうだよ」
「……でも、お酒は十八歳からですよ」
「オルドラントではね。でもここはリデル。アルコールの飲める年齢は国によって微妙に違っていて、うちの国は代々遅めなんだ」
そう言うクラートは、いたずらっ子のような眼差しをしている。
「だから僕もレティシアも、カクテルを飲んだって誰にも咎められないってわけだよ」
「そういうのって、屁理屈って言うんじゃないんですか」
「賢明な手段だと言ってほしいな」
二人は顔を見合わせて、どちらからともなく笑いだした。今やレティシアの疲労は吹き飛び、セフィア城の時のように心から笑うことができた。
「それじゃあ、君の潜入調査と僕の仕事の順風満帆を祈って……」
「祈って」
乾杯。
初めて口にするカクテルは、とろりと甘く、一口で果実の香りが口腔一杯に広がった。ジュースに似ているが、後味の中にほんのりと香ってくるものがある。これが、噂のみに聞いたことのあるアルコールの香りなのだろうか。
「すごい、おいしいです!」
「よかった。それ、若い女性に人気の品らしいんだ」
クラートは真っ赤なカクテル片手に微笑み、そしてふと真剣な眼差しになった。
レティシアは射抜くようなその視線を受け、静かにグラスを置いた。そして、無意識のうちに居住まいを正す。
「……クラート様?」
「……そのドレスやアクセサリーは、ミランダが?」
クラートの声がやや掠れて聞こえるのは、カクテルに含まれるアルコールのためか。
レティシアは反射的にのど元に手を遣った。指先に触れるのは、涙形のサファイアが埋め込まれたネックレス。ミランダの手持ちを見せられて、真っ先にこのネックレスが目に入ってきたのだ。
なぜか、そのネックレスをクラートに見られるのが猛烈に恥ずかしい。それは、レティシアが無意識のうちにクラートの目と同じ色の宝石を選んだからなのか。
「……そうです。ミランダが貸してくれて、髪はノルテがしてくれました」
「そうか……二人に、感謝しないといけないな」
(それは、どういう意味……?)
問おうとしたレティシアだが、開きかけた唇はすぐに、貝のようにぎゅっと閉ざされた。
徐に伸びてくるクラートの右手。ゆっくりと、先ほどのように差し出された手の平。
(クラート様……?)
クラートの右手は、硬直するレティシアの髪の房を一つ、手に取った。シルクの手袋の填った指先で、擦るように、何かを確認するかのようにオレンジ色の髪を弄びながら、クラートは視線を上げた。
「……とても、綺麗だ」
静かに発された、優しい声。
どくん――と、レティシアの胸が一拍、内側から肋骨を叩き割るくらいの勢いで打ち鳴らされた。
顔が熱い。先ほどの比ではないくらい、膝が震える。
(どういう、こと……?)
顔は異常なほど熱を孕んでいるというのに、指先は冷水を浴びたかのように冷たい。
クラートは微動だにできないレティシアの気持ちを知ってか知らないでか、固まるレティシアの顔を覗き込み、ふっと微笑んだ。
「今日のレティシアは、すごく輝いているよ……本当に、綺麗だよ」
綺麗だよ。
それは、その言葉は。
クラートに言ってほしいと、心から思ってほしいと願っていた言葉で。
でも、いざ言われると何も応えることができなくて。
(クラート様……顔が、近い……)
ついさっきまでクラートは窓辺にいたはずなのに、今はソファに座るレティシアの前に跪き、限りなく優しい目でこちらを見つめていた。
緞帳の向こうの喧騒も音楽も、何も聞こえない。
この閉ざされた空間にいるのは、二人だけ。
(何か……何か、言わないと……!)
レティシアはパンクしそうになる思考回路の彼方で、なけなしの精神を総動員して頭を回転させた。手汗がひどい。真夏の農作業中でも感じたことのないくらいの熱が、体中を駆けめぐる。
(言わないと……!)
レティシアは意を決し、すっと大きく息を吸った。
吸ってしまった。
今、自分がどんな格好なのかも忘れて。
「ふっ……! うぐおっ……!」
「レティシア!」
息を吸うと同時に、男らしい悲鳴を上げてソファに横倒しになったレティシア。慌てて立ち上がるクラート。どこかに吹っ飛ばされていった、甘い雰囲気。
「ど、どうしたレティシア?」
「……ふっ……」
「ふ?」
「……腹筋が……千切れそうです……」
息も絶え絶え、頬を真っ赤に上気させたレティシアが声を絞り出す。彼女の腹部では、「だから無理しちゃダメだと言ったのに」とばかりに、革製のコルセットがギチギチ悲鳴を上げていた。
どうやらミランダがコルセットを締める時に、レティシアが息を吐いていたのが原因だったらしい。ただでさえ息をする度に腹部を圧迫していたコルセットが、急にレティシアが深呼吸するものだから容赦なくその腹筋を締め上げ、装備主を悶えさせていたのだった。
クラートは目をぱちぱちさせてしばしレティシアを呆然と見つめていたが、間もなく息を吹き返してソファから起きあがったレティシアを見ると、がっくりと肩を落とした。
「んっ……あー、苦しかった……あれ、クラート様?」
「……もう、大丈夫かな、レティシア」
「はい。……えーっと、あ、そうそう!」
レティシアはぽんと手を打ち、きちんと座り直すと膝の上に両手を重ね、しゃちほこばってクラートに頭を下げた。
「その、綺麗って言ってくれてありがとうございます! すごく嬉しいです!」
レティシアは思っていたことを言えて、晴れ晴れとした表情でクラートを見つめていたのだが。
「……」
「クラート様?」
「……あ、いや……何でもないよ」
オルドラント公子はそう言って、力なく笑ったのだった。




