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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第4部 黒薔薇舞う
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アバディーン城のディレン隊 6

 暗闇の中、ミランダが微かにレティシアたちの手を引いた。レティシアはミランダの横に身を寄せ、他の貴族たちと同様に、固唾を飲んで二階貴賓席に見入った。

 間もなく二階席から姿を現したのは中年の男性。ここからはうまく顔の細部までは読み取れないが、恰幅の良い大柄な男性であるのは間違いないだろう。


「紳士淑女の皆……今宵は私、エドモンド・フォン・リディア主催の夜会にお越しいただき、誠に感謝する」


 魔道マイクを通して朗々と会場に響くのは、耳に心地良い男性の声。力強いだけでなく、決して曲がらない強い意志と来客を労る心が、彼の声には込められていた。


「今夜は、皆に夜会の趣旨をお伝えしないまま、遠路遙々ご足労いただいたことに感謝すると共に、事情をお伝えできなかったことを深くお詫び致す。というのも今回この場に皆をお呼びしたのは今夜、我がリデル王国の再機密事項となるだろうことを公表したく存じている所以であるためだ」


 会場にざわざわと囁き合う声が満ちる。事情を知っているレティシアは、ここしばらく会っていない黒髪の女性を脳裏に思い描いていた。


「おそらく、今回皆にお伝えすることはリデルの歴史を、行く末を、大きく揺るがすことになるだろう……皆にはこの場で、その事実を目にして貰いたい。そして、これからのリデルへの変わらぬ協力と理解を賜りたいと思っている」


 そこでエドモンド王は一歩下がり、背後にいる人を呼ぶかのように手招きした。


 エドモンド王に並ぶようにしてバルコニー席に現れたのは、真っ白なドレスを身に纏った若い女性。

 会場のざわめきが大きくなった。


「紹介しよう……我が息子、エンドリック・フォン・リディアの娘にして、正統なるリデル王室王位継承者、ティエラ・フィオネ・リディア王女である」


 王女、王女とざわめきが最高潮に達する。

 事前にティエラの存在を知っていたのはほんのごく一部の人間だけ。それ以外の者にとってはまさに寝耳に水の情報であり、今まで「エルソーン王子が王位継承者になれるのか」が一番の話題の種だった貴族たちに、新しい話題が転がり込んできた。

 既に漣立っていた貴族社会に新しく投げ込まれた石は、以前より一層大きな波紋を水面に浮かばせていた。


「王女はリデル西部、アルスタット地方で誕生した。周知の通り、我が息子エンドリックは二十年以上前に城を出て失踪した。だが息子はアルスタット地方で暮らしており、そこで出会った女性との間にこちらのティエラをもうけたのだ。ティエラ王女は既に結婚しており、夫君のセイル殿と息子のレアン王子も共に、今回アバディーンに参上した」

 

 見ると、バルコニーの一番端の位置に、見覚えのある銀髪の男性と少年がいた。


 隠された王女の登場にざわめいていた群集は、新たに明かされた情報にひそひそと声を上げた。


「まあ……王女の存在だけでも驚きですのに、もう結婚されていたなんて……」

「しかし、当然王女の夫は平民なのだろう?」

「エンドリック殿下も平民の女を娶ったそうですし、二代に渡って高貴な血を汚すことになるとは……」

「悲しい限りですな。リデル王家の栄光も翳りが差したということだろうか」

「王女殿下の夫君ならば、もっと相応しい者がいるでしょうに……」


(……言ってればいい)


 レティシアはこそこそ不快な話をする貴族たちを、冷めた眼差しで睨んでやった。どうせ会場は薄暗いのだから視線ごときで咎められることはない。咎められるべきなのは、不敬罪をしでかした彼らの方だろう。


 レティシアは護送の旅でティエラ王女一家と知り合っている。王女がいかに孤独で懸命な女性かも知っているし、レアン王子の無邪気さにも触れた。そしてセイルが妻想いであり、必死で彼女を守ろうとしていたことも。


(結婚相手に相応しいか相応しくないかは、血筋だけで決められるもんじゃないでしょうに)


 護送隊で一緒だった貴族の令嬢たちも言っていたではないか。平民だからこそ、守るべき人を守り通せるのかもしれない、と。

 いつ、新王女ティエラが襲われるか分からない。そんな時、セイルならば命を掛けてでも王女を守るだろう。王女だからではなく、愛する妻として、ティエラを守るために剣を抜くはずだ。


 敵と戦えるか逃げだすかが、愛情の深さを決めているわけではないだろう。だが、王女――いずれ女王となるだろう妻――を守るには、どのような敵にも屈せず戦い通せるような戦士こそが相応しいのではないだろうか。


 やがて、会場は日の出のように緩やかな光に包まれた。エドモンド王の挨拶が終わったらしい。城仕えの侍従たちが動きだし、テーブルの飲み物や食事をいそいそと客人の元へ運んでいた。


「……お疲れ様、レティ、セレナ」


 くるりとミランダが振り返り、扇子を口元に当てて微笑んだ。


「少し、休憩するわ。二人とも、飲み物と軽い食事を持ってきなさい」

「は、はい。お嬢様」

「今すぐ!」


 主人に「行け」と言われれば行かなくてはならない。

 レティシアとセレナはミランダが近くのソファに腰掛けたのを見届け、急ぎビュッフェ台の方へ向かった。もちろん、足元の異物を踏まないように注意しながら。


「……ついに、ティエラ様の存在が公にされたわね」


 レティシアが呟くと、セレナも硬い表情で頷いた。


「ええ……きっと、これからが正念場になるでしょうね」

「多分、国民全員が祝福するわけじゃ……ないよね」


 決して盗み聞きされないよう、セレナの耳元で極小の声量で言うと、セレナの表情が強ばった。


「……多分ね。私たちの後ろにいた人たちも、いろいろ話していたし」

「やっぱ聞こえたんだね」


 ビュッフェ台は相変わらず豪勢で、アバディーンの給仕はもちろん、レティシアたちのように主人から命令された使用人たちがあれこれ食事やドリンクを見繕っていた。

 レティシアは台の端に重ねられていた白金製の盆を一枚取り――指紋がくっきり浮き上がったためぎょっとしつつ――トングを手に取った。


「セレナ、ミランダお嬢様ってどんなお菓子が好きだっけ」

「ミランダお嬢様は冷菓がお好きよ。ほら、あの虹色のゼリーなんていいんじゃない?」

「わお、本当に虹色だ。……中身は何が入ってるの?」

「……知らないけど……」

「……虫を粉末にした色粉とかじゃないよね?」

「……多分」

「じゃ、それ一つと……見て、あのマカロン! 宝石みたいなのが付いてるよ! 食べれるの、あれ?」

「あれはアラザンね。お砂糖を固めて色つけしたものよ。故郷の街の食材屋でも売ってたけど、あんなに色とりどりなのは初めて見るわ」

「貴族って本当に、きらきらカラフルなのが好きなのね」

「まったくだわ」


 二人でミランダが好きそうな菓子を選び、飴色のシャンパンが注がれたグラスを取る。もっとじっくり料理を観察したいのだが、長居すればするほど他人にトレイの中身をぶちまけたりスカートを踏んだりする可能性が高くなる。偽侍女とはいえ、ミランダの迷惑になってはならない。


 レティシアが菓子の乗ったトレイ、セレナがシャンパンの載った盆を持って元来た道を歩いていると。


「……あれ見て。バルコニー席の所」


 視線を変えずにセレナが言う。言われた通り、先ほどエドモンド国王が挨拶した二階バルコニー席を見てみると、先ほどとは違う人物が立っていた。


 ティエラ一家は奥に引っ込んだようで、今バルコニー席で一階を見渡しているのは、鮮やかな金髪の男性だけだった。真っ赤な軍服を着込んでおり、ワイングラス片手に、何かを探すように一階フロアを見ている。


「エルソーン王子殿下よ。私も今、気付いたの」


 セレナに囁かれ、レティシアは体中の神経が敏感に反応した。


「……あれが、エルソーン王子……」


 エドモンド国王の第二子で、ティエラ王女の伯父に当たる王子。長らく「王太子候補」の位置に留まっており、ティエラ派の人間にとって最も注意すべき人物。


「エヴァンス王子殿下は謹慎中だけれど、エルソーン王子は出てきているのね」

「うん……それもまた、何だか違和感があるけど」


 ミランダのいるソファ席まで戻る途中、二人は必然的にエルソーン王子の近くを通ることになる。一階と二階で隔たりはあるのだが、エルソーン王子の顔が近くなるにつれ、緊張が高まっていく。


(……エルソーン王子は、一体どういう気持ちでさっきの挨拶を聞いていたんだろう)


 妬みか、怒りか、落胆か。

 表沙汰にはされていないが、ティエラ王女の出現はエルソーン王子にとっては相当おもしろくないはずだ。


 エヴァンス王子の面影が強いエルソーン王子の顔が、どんどん近くなってくる。もうすぐミランダの所まで辿り着く、その直前でレティシアはつい、気を抜いてしまった。

 そっと顔を上げ、エルソーン王子を最後にもう一度見ようと思ったのが間違いだった。


 レティシアが顔を上げたとたん、それまでずっと遠い眼差しであさっての方向を見ていたエルソーン王子が視線を下げ、ほぼ自分の真下にいるレティシアを真っ直ぐ見つめたのだ。


(っ……!)


 体が一度、大きく震える。

 もう少しで手に持つトレイを取り落としそうになり、レティシアはすんでの所でトレイの耳を掴み直した。


(やばい……もろこっち見てる……)


 エルソーン王子はなおもじっとレティシアを見つめ、床に縫いつけられたかのように硬直する侍女をじっくり眺めた。

 レティシアは視線を反らすこともできず、そのまま数秒時が流れ――


(……! 笑った……?)


 エルソーン王子は微かに唇の端を持ち上げて、笑った。

 そして一口、手元のグラスのワインを飲むと、視線を反らして再び、会場の奥の方を眺めるような目になった。


「……レティシア?」


 既にミランダにシャンパンを渡していたセレナが振り返る。そしてその場に棒立ちになるレティシアからトレイを奪い、ぽんぽんと背中を叩いてきた。


「……こら、そんなところに立たないの」

「……セレナ?」

「ミランダ様が待ってるわ。……ほら、足を動かして」


 セレナに引きずられながら、レティシアは放心状態でミランダの前に戻った。


(……さっき、エルソーン王子は私を見て笑った……?)


 ぞっと、背中を冷たい汗が流れる。

 あの笑顔は、とてもではないが感じのいい笑みではなかった。言うならば、獲物を見つけた蛇のような。弱り切った小動物に襲いかかろうとする肉食獣のような、身震いのするような笑みだった。


 レティシアはごくっと唾を飲み込んだ。

 エルソーン王子はきっと、レティシアの正体に気付いていないだろう。リデルの王子となれば、クインエリア大司教の娘の話は耳にしているかもしれない。だがその娘がエステス伯爵家の侍女に扮して夜会会場に紛れ込んでいるとまでは察していない……はずだ――多分。


(そうだったら、ミランダに迷惑は掛からないけど……)


 何か、エステス家に泥を塗る以上の不安要素があるような気がしてたまらなかった。

 セレナに相談してみようか、と口を開きかけたレティシアだが。


 マカロンを上品に食べていたミランダがはっと顔を上げ、素早く立ち上がった。

 それは他のソファでくつろいでいた貴族も同じで、皆同様に緊張の面持ちでソファから腰を上げる。専属侍従たちもさっと道を開け、主人の背後で畏まるように小さくなった。


「レティシア、こっち」


 素早くセレナに袖を引かれ、レティシアは転ぶようにミランダの背後のスペースに入り込んだ。

 ミランダの長身に隠れてそっとスカートの裾を直していると。


「……気を楽にして。どうぞ座ってください」


 凛とした、年若い男性の声。耳に聞き慣れた、甘くて優しい少年の言葉。

 レティシアははっと顔を上げ――すぐさま隣のセレナに後頭部を押さえられ、問答無用で会釈のポーズをさせられた。


(この声は……)


「……エステス伯爵令嬢」


 ふわり、とコロンの香りがレティシアの所まで届いてくる。

 ミランダの前に跪くのは、金髪の青年。優雅に膝を折り、ミランダのほっそりとした手を取る。


「今宵お会いできて光栄です、レディ」

「ええ、わたくしもですわ、クラート公子」


 ミランダも堂々と言い、その指先にキスが落とされるのを許した。


 ミランダに促されて立ち上がったのは、レティシアが思い描いた通りの人物。シャンデリアの光の元、柔らかく輝く金色の髪に、青空を切り取ったかのようなスカイブルーの目。上品でかつ高級でありながら、派手さや嫌らしさを一切感じさせない上質な貴族服。オルドラント家の紋章である「弓と鷹」が描かれたブローチをマント留めにしており、細い腰には儀礼用とおぼしき宝剣を下げている。


(クラート様……)


 初めて見る、クラートの「公子」としての姿だった。

 レティシアは前髪の間から必死に、その姿を見つめていた。ともすれば顔を上げてしまいそうになるのを、背後でセレナが後頭部を押さえることで阻止してくる。


 クラートの背後には、レイドも控えていた。元々癖のない灼熱色の髪を撫でつけ、髪とよく合う煉瓦色の制服を着ている。無機質のような灰色の目は、いつも以上に感情が読み取りにくく無愛想に思えた。

 クラートはにこやかに微笑み、まっすぐミランダを見据えた。


「エステス伯爵令嬢、今宵は父君の代理としていらっしゃったようで」

「そうですの。父はこのところ小康を保っておりますが、関節痛もあって外出がしにくい体ですの。オルドラント大公閣下もお元気でしょうか?」

「おかげさまで父も少しずつ回復の兆しが見えております。最近ではまた、弓を弄るようになったそうです。僕もたまには帰って親孝行せねば、と思っているところです」


 傍目から見てもよそよそしい、他人行儀な会話。

 普段気さくに話し合っている二人を知っているレティシアからすれば、笑ってしまいそうなくらい素っ気ない「貴族」のお喋り。


 夜会のルールに則り、クラートとミランダはお互いしか目に映さない。彼らの背後にいる侍従は完全無視だし、侍従同士の交流も許されない。

 よってクラートはミランダと話すのに夢中だし、レイドはレイドで冷めた目でこちらを見てくるだけだった。


(分かってはいたけれど、すごく居たたまれない気になるな)


 ひたすら居心地が悪い。

 知った仲の五人だが、実際に話しているのは二人だけ。他の三人はただひたすら立っているだけで、主人の用事が終わるまで忠犬のごとく待つのみ。


「……それではエステス伯爵令嬢、今後とも我がオルドラント公国をよろしく頼みます」

「ええ、また新しい魔具ができましたら、公国までお知らせに伺いますね」


 その言葉で漸く、呪縛が解かれた。

 クラートたちが颯爽と去り、ミランダがソファに腰を下ろしてレティシアはふうっと大きな息をついた。それと同時に、後頭部をブロックしていたセレナの手も解ける。


(貴族って嫌だな……友だち同士でも、ああやって他人行儀に話したり、時には完全無視しないといけないだなんて)


 今日のクラートはばっちり正装しており、とても眩しかった。眩しすぎだ。

 去ってゆくクラートの後ろ姿を、貴婦人たちがひそひそ噂しながら好気の眼差しで見つめていた。そういう人なのだ、彼は。


(でも、この会場みたいなのが、本来クラート様やミランダがいるべき場所なんだな)


 「無駄」ばかりのパーティー会場。

 上下関係と身分差が明確に現れる、社交の場。

 表面上では笑顔でも、裏では何を考えているのか分からない人物の集まる場所。


(……遠いな、やっぱり)


 ミランダにトレイを差し出しながら、レティシアは自嘲気味に笑った。


 そのため。


 レティシアはついさっき、セレナに相談を持ちかけようとしたことも、すっかり忘れてしまった。

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