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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第1部 黄昏の魔女
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聖詔

 純白に輝く大理石で造られた、穢れなき神殿。その回廊にはこの世の人間を慈しみ、見守っていると謳われる女神の像が並んでおり、聖堂の澄んだ空気を纏って柔らかく微笑んでいた。


 淡い西日が窓から差し込み、女神の足元に供えられている白い花が夕焼け色に染まる。つい今し方誰かが供えたばかりらしく瑞々しい花は、微かな風を受けて愛らしく揺れていた。


 そんな開放廊下を足早に通り過ぎる、細身の女性。歩みに合わせて後頭部で緩く結われた髷が小さく揺れ、彼女の足首まで覆う長衣の裾がふわりと靡く。

 女性はまだ年若いがいつも以上に表情は険しく、他者を寄せ付けない厳しい空気を纏っていた。廊下で彼女とすれ違った者たちも、ただならぬ雰囲気を感じてさっと黙礼する。


「……だそうですわ。フェリシア様のご容態が回復に向かい――」


 両開きのドアの前を通り過ぎたとき。

 若い女性の声が響き、彼女は足を止めてドアの方を見やる。


「では、レティシア様はどうなさるの? 元々は姉君の代役としてお生まれになったのでは……」


 これは、下級女官の声だろう。神殿に仕える彼女らは仕事の合間、現在巷で広まっている噂を取り上げて世間話に興じているようだ。扉を貫通して廊下までその興奮気味の声が響いているとは、思いもしないで。


「そうそう。万が一フェリシア様が病没なさった場合、跡継ぎが必要になるでしょう? レティシア様はその時用のスペアじゃないの?」

「さすがに言い方が悪いわよ。……まあ、事実その通りなのだけれどね」

「しかし、本来クインエリア大司教の跡継ぎは一人しか……」

「しっ! だからこそ大司教様はお悩みになってるのよ……不要になったレティシア様の処遇について」

「いっそ、リデル貴族の養女にでも出してしまう? ここにいても後々面倒なだけよ」


 廊下に佇む女性の拳は固く握られ、白い手の甲に血管が浮かび上がっていた。普段の彼女ならこの扉を叩き開け、無礼者たちに説教を食らわせていたところだが、今は時間がない。


 彼女は薄く紅の引かれた唇を噛みしめ、ブーツのかかとを鳴らせて再び足を進める。

 彼女を呼び出した、「大司教様」の元へ行くために。











「ロザリンド・カウマー、参りました」

「よく来てくれた。入ってくれ、ローザ」


 部屋の前で名を名乗り、下仕えの者が扉を開くと、彼女は迷いない足取りで部屋の中へと進む。


 見慣れた空間。何度も立ち入った場所。

 石壁全体は分厚い紅の緞帳で覆われ、床には金糸で繊細な刺繍が施されたカーペットが広がっている、大司教の間。

 段上で彼女を出迎えるのは、清潔な白の法衣を纏った男性と、彼の妻である可憐な女性。そして――男性の腕に抱かれた愛くるしい顔立ちの女児と、女性が抱える小さなおくるみであった。


「来てくれてありがとう、ローザ」


 赤子を抱えた夫人がほっと安堵の表情を浮かべ、彼らの前まで歩み寄った女性の手を優しく握る。


「ローザ、我々が君を呼んだのはほかでもない」


 法衣の男性が重々しく告げ、自分の腕の中で大人しく人形遊びをしている幼い姫をあやすように軽く揺すった。


「現在、神殿中を騒がせる話題……君も聞き及んでいるだろう」


 先ほど、廊下で立ち聞きした下世話な会話が耳に蘇る。

 彼女は表情ひとつ変えず頷いた。


「はっ――フェリシア様のご病気が回復に向かわれたため、レティシア様の今後のご身分をどうなさるかという……」

「そうなのよ、ロザリンド」


 男性の妻が疲れた笑みを浮かべる。ロザリンドと同い年だというのに、この夫人はいくつになっても、どのような表情をしても、妖精のように愛らしい美貌が崩れることはなかった。


「聖都の規則はわたくしたちも重々承知しているわ。それに、わたくしたちはフェリシアの代わりとしてレティシアを生んだのではないの。どちらも、かけがえのないわたくしたちの娘よ」

「はい」


 ロザリンドは固く告げて、難しい表情の大司教に顔を向け――そして視線を逸らした。


「大司教様。わたくしにできることがありましたら、何なりとお申し付けくださいませ」

「……すまない。君ならそう言ってくれると信じていた」


 大司教はほっとしたようにわずかに口元を緩め、妻の腕の中ですやすや眠りにつく次女を手で示した。


「我々としては、今後ともレティシアを夫婦で育ててゆきたい――しかし、聖都の者はそれを許さん。どれほど姉妹仲がよく育とうと、いずれは大司教の座を争って姉妹で争いを起こすだろうと噂している。そのような中で、レティシアを健やかに育ててゆくことは難しいだろう」


 大司教の言葉を聞き、ロザリンドは腹の前に当てていた拳に力を込めた。彼女も、大司教を囲む面々の腹穢さには常々、苛立ちを感じていたのだ。


 跡継ぎ争いが起きてはならないから――なるほど、大司教夫妻を説得するための言い訳としては、まっとうかもしれない。

 だが所詮彼らも権力がほしいもの。姉姫と妹姫、二人の大司教候補が立てばそれぞれの擁護者が出てくる。


 姉に付く者と、妹に付く者。


 姉に付く者は妹を蹴落とし、妹に付く者は姉を貶める。周囲の者たちは己の欲望のために、姉妹を利用するだろう。そして、そんな連中を成敗するだけの力は、今の神殿にはなかった。


 姉妹の両親たる大司教夫妻もそれを見通しているのだろう。

 大司教は妻に目を遣り、妻がこっくり頷いたのを確かめてロザリンドに視線を戻す。


「……単刀直入に我々の結論を言おう。レティシアは大司教の娘としての身分を全て剥奪。フェリシアを次期大司教の座に据え、レティシアは――ロザリンド、君に託す」


 はっと、ロザリンドの目が見開かれる。

 彼女も馬鹿ではない。こうして名指しで呼び出されたからには、妹姫の養育係に任じられることくらいの覚悟はしていた。


 だが、あくまでも彼女が予測していたのは後ろ盾としての立場。まさか養育権が与えられるとは。

 驚き戸惑うロザリンドを見下ろし、夫人は愛らしい顔に微かな悲哀を浮かべる。


「わたくしたちは、ただレティシアが幸せに育ってくれればいいの。だから、あなたが娘をどう育てようと文句は言わないわ。どうか、レティシアをお願い。この子を……幸せにしてあげて」


 いち女官に過ぎないロザリンドには「否」の返事を許されない。

 思考の間を挟まず、何かに堪えるように大きく息をつき、ロザリンドは深く深く頭を下げた。


「――ありがたき幸せ。お任せを、ティルヴァン様、マリーシャ様……」










 ロザリンドは大司教の間を辞し、腕に抱えたおくるみを見下ろした。

 生まれて一年も経たない赤子だが、頭部には薄いオレンジ色の髪が生えてきている。ふっくらした唇は母似だろう。先ほど悲しげに微笑んだ大司教夫人の顔が赤子の寝顔に重なる。


 レティシア様――と、ロザリンドは声を掛ける。赤子はそれにも気付かず、彼女の腕の中で眠っている。これから実の両親の手から引き離されていくことなぞ露知らず、夢の世界を幸福そうに羽ばたいている。


 ロザリンドは瞑目し、薄い唇を開いてつぶやいた。

 申し訳ありません、レティシア様。と――

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