ノルド父さんの期待
エリノラ姉さんの魔力操作を兼ねたヴァーシェルの授業から解放され、俺はリビングから自室へと戻る。
すると、廊下で誰かを探しているような素振りをしているノルド父さんの姿が見えた。
……なんか嫌な予感がする。
「あ! アル、ちょっと待って!」
俺は即座に踵を返そうとするが、それよりも早くに気付いたらしいノルド父さんが呼び止めてくる。それでも俺は聞き入れずに逃れようとしたが、ノルド父さんが風のような速さで回り込んできた。
おかしい。十メートル以上先にいたっていうのに、一瞬にして後ろに回り込んでくるってどうなっているんだ。
「……ノルド父さん、屋敷内を走るのは良くないよ」
「アルが呼び止めても逃げるからだよ」
「それで何の用?」
「シルヴィオの報告書の件だよ」
あー、やっぱり、それについてか……。
だけど、問題ない。その件については、シルヴィオ兄さんが黙ってくれていれば問題はない。この場では適当にシラを切っておいて、シルヴィオ兄さんには後で余計なことを言わないように念押ししておこう。
「報告書?」
俺は敢えて何も知らないフリをして、いつも通りの興味のない様子を演じる。
「シルヴィオから報告書の修正が上がってきたんだけど、それがすごく纏まっていて読みやすかったんだ」
「へぇ。さすがはシルヴィオ兄さんだね。すごいや」
「うん、修正前と比べると明らかに出来栄えが違っていた。王都にいる文官レベルさ」
ええ? そうなの? あの程度の報告書でそこまで褒められるって、この世界の人たちはどれだけ報告書を書くのが下手なんだ?
「急に報告書の質が上がった理由を尋ねると、シルヴィオはアルがアドバイスをしてくれたお陰って言ったんだ」
シルヴィオ兄さんめ! なに余計なことを言ってくれているんだ!
「……アルはひょっとして書類作成が得意なんじゃないのかな?」
ほら、見ろ。ノルド父さんが俺に余計な期待をしてしまった。
こういう事が起きないようにできるだけ領地関係の仕事には関わらないようにしていたというのに。
正直、前世で社会人をやっていた俺からすれば、こちらの世界の書類仕事のほとんどは簡単にできるだろう。だけど、俺はまだ子供なんだ。働くつもりはサラサラない。
「そんなことはないよ。だって、やったことすらないし」
「本当に?」
ノルド父さんがこちらの胸中を見透かそうと瞳を真っ直ぐに向けてくる。
「本当だよ」
嘘ではない。俺はこの世界では書類仕事などやったことがないのだから。
純粋無垢な視線で見つめ返すと、今度はノルド父さんが戸惑ったような反応をみせた。
エルナ母さんであれば、このような小手先の技術は通用しないが、出来るだけ家族のことは信じたいと思っているノルド父さんには大いに通用する。
「……でも、シルヴィオはアルにアドバイスをされたと言っていたよ?」
ノルド父さんのその言葉からシルヴィオ兄さんが、俺が具体的にどんなアドバイスをしたかまでは言っていないようだ。ならば、そこに付け入る隙がある。
「俺は子供だし、エリノラ姉さんは文字を読むのが苦手だから、俺たちにもわかるように書いてって文句つけただけだよ」
「……なるほど。確かにシルヴィオが仕上げてきた報告書はエリノラでも簡単に理解できそうなくらいに纏まっていた」
あくまで遊びの範疇であることを述べると、ノルド父さんがどこか納得したような顔になる。
ここにきてエリノラ姉さんの頭の悪さが役に立つとは思わなかった。
世の中、何が役に立つかわからないものである。
「シルヴィオ兄さんのことだから謙遜して、俺たちの言動をアドバイスって捉えたんじゃないかな? 実際はそれを取り入れて、修正してみせたシルヴィオ兄さんが凄いのにね」
「そうか。そういうことだったのか……わかった。ありがとう」
報告書を書いたことなどない怠惰な次男と、勤勉な長男を比べれば、どちらの能力を信じるかは明白だろう。ノルド父さんはあっさりと信じてくれた。
うーん、我が父親ながら素直過ぎて心配になってしまう。いや、俺とエリノラ姉さんの日頃の行いが悪いと嘆くべきなのか?
とにかく、今はノルド父さんを丸め込めことを喜ぼう。
「あ、そうだ。アルは書類仕事に興味とかは――」
「ない」
ノルド父さんの血迷った提案を即座に対して、俺は即座に首を横に振りながら返事をした。
「それじゃあ、俺はそろそろ部屋に戻るね」
「あ、うん。ごめんよ」
きっぱりと興味がないと態度で告げると、ノルド父さんはそれ以上食い下がってくる様子もなく呆然と見送るのだった。
廊下を抜けて、階段を上ったところで俺は息を吐く。
「……ふう、危ないところだった」
シルヴィオ兄さんに報告書を作成する際のアドバイスをしたせいで、ノルド父さんから妙な勘違いをされて、働かされるところだった。
俺はまだ七歳児だ。いくら成人年齢が前世よりも早いとされる異世界とはいえ、こんな年齢から働きたくない。
いつかは何かしらの方法でスロウレット家に貢献し、自分の食い扶持くらいは稼げるようにならないといけないが、今からはいくらなんでも早過ぎる。
というか、今の段階で既にお金なら稼いでいるし、わざわざ書類仕事をする必要なんてない。
俺は今世こそは働かずにスローライフをおくると決めたんだ。
「……シルヴィオ兄さんに余計なことは言わないように念押ししておかないと」
またシルヴィオ兄さんの言葉でノルド父さんから変な期待をされても困る。
そんなわけで俺は自室に戻る前に、シルヴィオ兄さんの部屋に向かった。
扉をノックして入ると、シルヴィオ兄さんはイスに座って本を読んでいた。
「シルヴィオ兄さん、ノルド父さんに変なことを言わないでよ」
「え? 変なこと? なんのこと?」
俺の第一声にシルヴィオ兄さんがきょとんとした顔になる。
「俺が報告書作成のためにアドバイスしたとか」
「ええ? それは事実だよね? アルのアドバイスをしてもらって、僕の報告書は良くなって父さんに褒められたんだけど……」
シルヴィオ兄さんが戸惑うのも無理はない。だってシルヴィオ兄さんは何も悪いことはしていないのだから。ただ今回の件に関しては俺にとって都合が悪いだけだった。
「確かにそうかもしれないけど、それじゃあ俺が困るんだよ」
「どうして?」
「報告書が書けるってバレると、ノルド父さんは俺に仕事を振るかもしれない」
「それはいいことだよね?」
「全然よくないよ! 俺は働きたくないから」
前世の会社では、仕事ができるやつほど大量の仕事を任されて忙殺されていた。
仕事ができるからといって世の中を上手く立ち回れるわけでもない。
仕事はできた方がいいのかもしれないが、できないならできないでも上手く立ち回ることができる。はじめからできないとわかっていれば、仕事なんて任されることはないのだ。
「あ、俺は父さんに仕事を振られて認められる喜びとか、スロウレット家に貢献する喜びとかは感じないタイプだから」
残念ながら俺は仕事でやりがいといったものに価値を感じないし、そもそも働きたくないと言っているのだ。やりがいくそもなかった。
「…………」
まさに、そんな台詞を述べようとしていたのだろう。何かを言おうとしたシルヴィオ兄さんの口が閉じられた。
ごめんね。シルヴィオ兄さん。好きな仕事だから、社会に貢献しているからっていう理由で低賃金、長時間労働を強いられるのはもううんざりなのだ。
「まあ、アルはまだ七歳だしね。今は自由でいたいよね」
「うん、そういうわけだから。ノルド父さんには変なことは言わないでよ?」
俺に書類仕事の適性があるとか言い出したら、仕事に忙殺されているノルド父さんが書類を持ってきかねない。
「わかったよ」
最後に念を押すと、シルヴィオ兄さんは肩をすくめながら頷いてくれた。
よし、これで問題はない。
「また書類仕事で困ったら相談してもいいかな?」
根回しが済んだので部屋を退出しようとすると、シルヴィオ兄さんが声をかけてくる。
「弟として相談に乗るくらいなら構わないよ。それで解決できる保証はないけど」
「ありがとう。アルが相談に乗ってくれるだけでも心強いよ」
本来ならこういう役割は長女が担うべきであるが、剣一筋であるエリノラ姉さんにそれを求めるのは酷だろう。
俺とシルヴィオ兄さんはそんな共有な見解を有しており、兄弟としての絆を強固にするのであった。




