堕落のクッション
『転生して田舎でスローライフをおくりたい』コミック一巻から三巻がLINEコミックスで発売。
Kindleなどの電子配信が始まりました。
それぞれの巻に書き下ろし小説をつけましたのでよろしくお願いします。
「あー……」
ビッグスライムのクッションに埋もれたエリノラ姉さんが、だらしない顔でだらしない声を上げている。
ビッグスライムに埋もれて三十分ほど経過しただろうか。
それでもエリノラ姉さんが自らの意識でクッションから出ることはなかった。
いや、出られないんだろうな。
あそこに埋もれていると、自ら姿勢を制御する必要もない。柔らかな弾力に全てが包まれているだけでいいのだ。何もする必要もなく、それだけで居心地が最高。
並の精神力では抗うことはできないだろうな。
きっと、エリノラ姉さんも俺が味わった幸福感を味わっているに違いない。本人はもう三十分も経過したなんて気付いていないだろうな。
一体、いつになったら本人の力で起き上がれるんだろうな。
埋もれているエリノラ姉さんを観察していると、不意に扉がノックされた。
「はいはい」
「アル、ビッグスライムを捕まえてクッションにしたんだって? 見てもいいかな?」
扉の奥からシルヴィオ兄さんの声がした。
どうやら誰かからビッグスライムの事を聞いたらしい。
最初は魔物であるスライムをクッションにすることに反対していたシルヴィオ兄さんであるが、今ではすっかりとその便利さを認めているようだ。現に気になってわざわざ見にくるくらいだし。
そんなシルヴィオ兄さんの変化がとても好ましいな。
「いいよー、入って入って」
「それじゃあ、お邪魔するね」
どこかの姉と違ってしっかりと返事を聞いてから入ってくるシルヴィオ兄さん。
「あっ、すごく大きいね。早速、姉さんがクッションに堪能して――ええっ!?」
ビッグスライムを見て無邪気な反応をするシルヴィオ兄さんで合ったが、うつ伏せになっているエリノラ姉さんを視界に入れてギョッとした。
「ア、アル! なんかエリノラ姉さんが大変なことになってるよ!?」
どうやらエリノラ姉さんの異常に気付いたようだ。
「うん。そうだね」
「いや、そうだねって……」
「大丈夫。クッションの心地良さでそうなっているだけだから」
「ええ? あの姉さんが、こんなだらしない顔をするほど!?」
俺の言葉に戦慄するシルヴィオ兄さん。
普段は言葉遣いも柔らかいシルヴィオ兄さんであるが、ショック故にはっきりとだらしない顔と言ってしまったほどだ。
やはり、俺の主観だけでなく、誰から見てもだらしないってわかる顔だよね。
「ね、姉さん? 大丈夫?」
心配になったのだろうシルヴィオ兄さんが、エリノラ姉さんが揺すって声をかける。
しかし、エリノラ姉さんは焦点の合っていないような目でうわ言のように「あー……」とか呟いているだけ。わかっていることは非常に心地よさそうというだけだ。
あー、口から涎が垂れている。アクアハウンドの皮に垂れてほしくないので、しょうがなくハンカチで拭ってあげる。
「アル、姉さんは大丈夫なの?」
「俺も一回こうなったけど、心地良いだけだから害なんてないよ」
「姉さんがこんな顔になっちゃうくらいの心地良さって、一体どれくらい……」
それはもう極上の幸福感だったね。何もしないでいいって最高だ。
「どうやった姉さんは目覚めるんだい?」
「普通にクッションから下ろしたら多分起きるよ」
「それじゃあ、起こしてあげよう!」
「ええー? どのくらいエリノラ姉さんがこうなってるか見ておきたいんだけど」
「そんなことしたら姉さんが壊れるよ!」
いや、壊れるって大袈裟さな……まあ、こんな酷い顔したエリノラ姉さんを見たら心配にもなるか。
「アルも手伝って」
「しょうがないな」
二人でビッグスライムに埋もれているエリノラ姉さんを無理矢理下ろす。
「あー……はっ!?」
すると、エリノラ姉さんが我に返ったかのように意識を取り戻した。
猫のような素早い動きで起き上がり、周囲を見回す。
先程のようなだらしのない顔は潜まり、いつものキリッとした表情に戻った。
「あ、あれ? あたしってば、一体何して……?」
意識が覚醒してしまうと、ちょっと困ったことになるのが俺だ。
何せ、警戒するエリノラ姉さんの背中を押して、無理矢理クッションに埋もれさせてしまったのだから。
でも、記憶が混濁している今なら情報をすり替えられる可能性がある。
「何言ってるのエリノラ姉さん。ビッグスライムの感触を確かめていただけじゃん」
「あっ、そういえばビッグスライムをクッションにしてアルと一緒に確かめていたわね。座ってみたらすごく心地良かったわ」
おお、どうやら記憶の刷り込みに成功したらしい。
エリノラ姉さんが能天気にも言葉を鵜呑みにしている。
やったね。これで俺が怒られることはない。
などと安心していると、後頭部に衝撃を感じた。
「いたっ!?」
「なんて言うわけないでしょ! アルが後ろから突き飛ばして、埋もれさせたことくらい覚えているから!」
くっそー、さすがに都合よくそこだけ忘れることはなかったか。
エリノラ姉さんの拳骨回避失敗だ。
「なんだかシルヴィオまでいるけど、どれくらい時間が経ったの?」
「三十分くらいかな」
「三十分!? 嘘!?」
やはり、ビッグスライムに埋もれている間は時間の感覚が全くなかったらしい。
俺の言葉を聞いてエリノラ姉さんが酷く驚いている。
その気持ちはわかる。つい、さっき腰かけたと思ったら、いつの間にか時間が経過しているのだからな。
「とにかく、よかったよ。姉さんが元に戻って」
「元に戻ってってどういう事?」
ホッとしたシルヴィオ兄さんの呟きを聞いて、エリノラ姉さんが訝しむ。
勿論、俺は言いたくないので聞こえなかったかのようにビッグスライムを触ってるフリを装う。
「――っ! まさか、あたしもアルみたいな変な顔になってたわけ!?」
しかし、誠に勘のいいことにエリノラ姉さんは真実に気付いてしまったらしい。
先ほど、俺が堕落していた姿を見たからたどり着いたのだろう。自分もあんな風になっていたかもしれないと。でも、俺みたいな変な顔っていうのは余計だと思う。
「え、えっと……まあ、うん」
そして、答えなくてもいいのに答えてしまう素直な兄。
俺の部屋にいたたまれない空気が漂う。
俺はまた怒られるかもしれないと思い、いつでも逃げられるように準備を整える。
しかし、エリノラ姉さんはこちらに近づいてくることはない。
というか、シルヴィオ兄さんの方に近づいていっている。
「え、えっと、姉さん?」
「ちょっとシルヴィオ。クッションに座ってみて」
にっこりとした笑みを浮かべながら詰めるエリノラ姉さんと、恐れるように後退するシルヴィオ兄さん。
両者の位置関係は逆になり、シルヴィオ兄さんがビッグスライムのところにまでやってきてしまう。
「ええ! 嫌だよ。なんかあのクッションに座ると、人としてダメになる気が――」
「えい」
「うわっ!」
なんとか回避しようとしていたシルヴィオ兄さんであるが、エリノラ姉さんに突き飛ばされてビッグスライムに背中から埋まる形となる。
ちょっと乱暴的に座ろうが、ビッグスライムの弾力は全てを包み込む。
形を変えながらもシルヴィオ兄さんの身体を受け入れて、ピッタリと吸い付いた。
ビッグスライムによる最適化により、今このクッションは世界に一つしかないシルヴィオ兄さんだけのクッションになった。
「ああぁっ!」
シルヴィオ兄さんのどこか恍惚とした声が漏れる。
俺とエリノラ姉さんが覗き込むと、シルヴィオ兄さんはそれはもうだらしがない顔になっていた。
こうなるといくらイケメンであるシルヴィオ兄さんでも、残念な感じは拭い切れないな。
「うわっ、酷い。これに座るとこんな風になるのね……」
どうやら俺以外の第三者に腰かけさせて、自分がどんな風になっていたか把握したかったらしい。
酷いのは突き飛ばしたエリノラ姉さんの方であるが、俺も同じように突き飛ばしたので咎める資格はなかった。
「ビッグスライムクッション、恐るべしだね」
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