呼吸困難の朝
翌朝、目を瞑っていた俺は得体の知れないモヤモヤとした感覚を抱いていた。
しかし、今は人生の中でもっとも尊い睡眠の時間、これを邪魔するものはあってはならない。このすーっと底に落ちていくような心地よい感覚が気持ちよくと、俺は違和感を敢えて無視する。
しばらくすると、モヤモヤとした違和感は消え去り、俺はまた暗闇の中の深い深いところへ意識を落としていこうとした瞬間、ドンッと背中に何かが乗って俺の意識は現実へと戻された。
「な、なにっ!?」
慌てて目を見開いて起き上がろうとするけど背中に何かが乗っていて起き上がることができない。
何が乗っているのだと顔を向けると、そこにはいい笑顔を浮かべたエリノラ姉さんが鎮座していた。
「おはよう、アル」
「う、うん? おはよう、エリノラ姉さん。で、人の背中に乗ってきて何の用?」
今日は一日自由時間。それぞれが別々に行動をするので、朝食は各自好きなタイミングでとっていいことになっている。
当然俺は昼頃までダラダラ寝る予定なので、こんな朝早くに起きる理由はない。
「……何の用だと思う?」
「稽古なら行かないよ。今日は自由時間で身体を休める日なんだから」
「ええ、それは知ってるわ。強情なアルが絶対に稽古に参加しないってことも」
ふむ、エリノラ姉さんにしては物分かりのいいことだな。ん? 待てよ。エリノラ姉さんが稽古や朝食集合以外で起こしにきたことなんてあっただろうか? この姉は、俺の健康を気遣ってわざわざ起こしにくるような殊勝な人ではない。
だとしたら、一体何の用で朝早くに押しかけてきたのか。
ましてや俺の背中に乗っかるような意味なんて……。
「これでもわからない?」
エリノラ姉さんの手が両脇に差し込まれた瞬間、俺は全てを理解した。
寝ぼけていた脳がスーッと冴えていくような感覚。
今までの俺は何を考えていたのだろうか。ちょっと寝起きだからってボケ過ぎやしないだろうか。
エリノラ姉さんは部屋に入ってきたことに気付かないのもそうだし、背中に乗られても警戒していなかったなんてどうかしていた。
「ま、まさか……」
「そう、昨日の仕返しよ」
俺が恐る恐る言うと、エリノラ姉さんはニヤリと笑って、両脇に差し込んだ両手を動かした。
「あははははははっ! ちょっ、やめれ、やめれ!」
「だーれが、止めるもんですか。こっちは魔力が減って動きたくないって時に、ふたりがかりでやってきた癖に!」
俺が静止の声を上げるも、エリノラ姉さんは聞き入れずにこちょこちょを続けてくる。
必死に脇を閉じようにも、エリノラ姉さんの力のこもった細い指が強引にねじ空けてくすぐってくる。
「ぐっ、こやつ……中々の指使いをして――ぎゃははははははは! ちょっ、あかん、あかんって」
「少なくてもあたしと同じ時間のくすぐりは受けてもらうから」
「あははははは! ちょっと、それなら何で俺だけやるのさ!」
「勿論、後でシルヴィオにもやるに決まってるじゃない」
なんて恐ろしいことを。ひとりひとり入念にいたぶって仕返しをするつもりだ。
「シルヴィオ兄さん! 逃げ――あははははははははっ!」
せめて隣の寝室で寝ているシルヴィオ兄さんだけでも助かるようにと声を上げようとしたが、即座に口を塞がれてくすぐりをされてしまった。
エリノラ姉さんの細い指が、縦横無尽に動いてこそばゆい。
人間というのは、どうして脇を触られただけで、これほどにまでくすぐったいのであろうか。不思議でしょうがな――あはははははははは!
だ、ダメだ。このままでは笑い過ぎて息ができなくなる。何とか抵抗して逃げなければ。
「ふぬおおおおおおおおっ!」
身体を動かして何とか這いずり出ようとするも、完全に腰を押さえられていてビクリともしない。
「何だこれ! 重い!」
「失礼ね! 身動きがとりにくくなるところに座ってるだけよ! 軽いわよ!」
「それ、絶対にノルド父さんか騎士団で習った捕縛術だよね!? 俺は盗賊かよ!」
「……害をなしたという点では、捕まった盗賊と同じかもしれないわね」
酷い言い草だ。それに習った技術をこのように悪用するなんて信じられない。
ぐぬぬぬぬ、逃げることが敵わないのであれば、ここは脇だけを守って――
「はいはい、脇を閉じようとしても無駄だから」
俺が必死に丸くなって抵抗をするも、エリノラ姉さんはそれを遥かに上回る力でこじ開けてくすぐってくる。得意の回転で手を巻き込んでやろうにも、しっかりと身体を抑え込まれているためにできない。
「まだ一分も経っていないし、まだまだね」
「いや、俺とシルヴィオ兄さんはそんな長くやってな――あははははははははっ!」
俺はエリノラ姉さんにくすぐりの刑に処せられて、朝から呼吸困難になった。
◆
「はぁ、はぁ、朝から酷い目に遭った」
執行人が部屋から出ていって、少しするとようやく呼吸が整ってきた。
本当にあの姉は、無駄に高等な体術を駆使してくるものだから質が悪い。あれほどまでにロックされて身動きが取れず、なすすべもなくくすぐられたのは前世を合わせても初めてだ。戦闘技術を悪用するととんでもない行いができてしまうものだな。
「あははははははははっ! ちょっと! なに!? エリノラ姉さん!?」
「昨日の仕返しよ。アルが終わったから、次はシルヴィオよ」
俺がしみじみと思っていると、隣の部屋から微かにそんな声が聞こえてきた。
きちんと言葉が聞こえたのは、これだけで以降はシルヴィオ兄さんの笑い声が延々と聞こえてくる。
同じくすぐりを味わった俺だからわかる。楽しそうな悲鳴を上げているシルヴィオ兄さんであるが、これは必死に助けを求める悲鳴であることを。
「この無力な弟を許してくれシルヴィオ兄さん……」
弟は隣の部屋におり、兄がどうなっているか知っていながら動くことができないでいる。
俺だって戦友であるシルヴィオ兄さんを助けたい気持ちはある。だけど、それ以上にエリノラ姉さんにくすぐりの刑に処せられるのが怖いのだ。
あのくすぐり地獄をもう味わいたくないのだ。
情けない弟を許してくれ。シルヴィオ兄さん。
俺は最後にもう一度心の中で謝り、二度寝をするために布団を被った。
隣の部屋から悲痛な笑い声など何も聞こえない。それでいいのだ。
ん? 今日は七夕?




