エリノラの帰還
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「……あー、平和だなぁ」
自分の部屋の椅子に座り、窓から外の景色を見ながら俺は呟く。
視界にあるのはいつも変わらない青い空と綺麗な緑色をした山々や平原だ。
それは前世の日本とは比べ物にならないくらい広大で綺麗な景色。
それを毎日ボーっと見る事ができることの何と幸せな事だろうか。
忙しい毎日を過ごしていると心に余裕を持てず、景色を楽しめなくなってしまう。だからこそ、こうして心にゆとりを持って、景色を楽しめる今の状況は幸せなのだと俺は思う。
今は緑生い茂る夏の季節。
植物達は降り注ぐ日差しを目いっぱい受け止めて元気だ。
木々の葉が春よりも一段と青々としている。
人間だったらこうはいかないな。むしろ、暑い気温に食欲すらもなくしてげっそりとしてしまうだろう。
まあ、俺は氷魔法で室内を快適な温度で保っているから大丈夫なんだけどね。
そんな事を考えながら、俺は皿に乗っている塩キュウリを手に取る。
噛むとポリっとした気持ちのいい音が鳴り、弾けるように僅かな塩っ気を含む水分が広がった。
キュウリの九十五パーセントは水分。体を冷やす作用があり、暑くて水分が不足しがちな夏にはぴったりの食材だ。
コリアット村で獲れたてなのと、旬なだけあってかいつもより格段に美味しいな。
「アル、僕にもちょうだい」
ポリポリと塩キュウリを齧っていると、部屋で座りながら本を読んでいるシルヴィオ兄さんが言ってきた。
俺が氷魔法で室内を快適な温度に保っていると知っているからな。暑い自分の部屋で本を読むよりも俺と一緒に涼しい部屋にいる方がいいに決まっている。
「はーい」
俺はサイキックで塩キュウリの乗った皿を移動させて、座っているシルヴィオ兄さんの下へと移動させる。
「ありがとう」
シルヴィオ兄さんはお皿を手に取ると、塩キュウリを一つだけ摘まんで礼を告げた。
どこかの姉と違って鷲掴みにしたり、皿を奪って抱え込んで食べたりはしない。
お礼の言葉もきちんと述べて非常にお上品である。
「今はカグラの本を読んでいるの?」
「うん、カグラの歴史についての本だね。王国とは全く違う神が信仰されていてとても興味深いよ」
ああ、昨日ノルド父さんとも話し合っていたな。
俺達の住むミスフィリト王国や隣接するアルドニア王国、神聖イスタニア帝国、ラズール王国といった国々は全て創造神ミスフィリト様を信仰しているからな。
大陸を越えると信仰されていないというのは少し不思議だ。
「水神様の話しでわかる通り、向こうは海に囲まれていて津波とか嵐の自然被害が多かったみたいだしねー。ミスフィリト様に縋っても意味がないって感じで切り捨てられたんじゃない?」
「……確かに、そういう事もあるかもしれないね」
「いやいや、冗談で言ってみただけだからね?」
冗談で言ってみただけなので、そのように真に受けられると困る。
「わかってる。でも、面白い意見だよ」
俺は修一と春から簡単に纏められた説明を聞いただけなのに。
シルヴィオ兄さんの書物には、きっと正しい理由や頭のいい人が書いた推測などが書かれているのだろう。
そんなのと比べられると俺の意見がかなり幼稚に思われるので恥ずかしい。
心の中で半ば後悔し、話題を変えるべく口を開く。
「それにしても、こうやって静かに過ごせるのはいいねえ。これもエリノラ姉さんがいないお陰かな?」
「確かに姉さんがいないと静かだね」
俺の言葉にシルヴィオ兄さんが苦笑しながら答える。
エリノラ姉さんがいたら、やれ室温が暑いだの、食べ物がもっと欲しい、紅茶が飲みたい、退屈などと言うし、挙句の果てには稽古をしようなどと誘いをかけてくるからな。
こうやって俺達が朝から平和に過ごせるのはエリノラ姉さんがいないからだろう。
エリノラ姉さんが帰ってくるであろう日付は明日。
こうして平和に過ごす時間が、あと少しで終わりを迎えるのだと考えると憂鬱にならざるを得ない。
あーあ、まだまだやりたい事があったのになぁ。
俺が心の中でため息をついていると、シルヴィオ兄さんがこちらを向きながら言う。
「……でも、やっぱり姉さんがいないと寂しいよ」
「えー、そう?」
「そうだよ。姉さんがいないと屋敷も静かだしね」
まあ、確かにエリノラ姉さんがいない屋敷はとても静かだ。
家族は基本的に皆落ち着いているし、エリノラ姉さんほどエネルギッシュな人はいない。
「でも、静かだとゆったりと本が読めていいじゃん。稽古に誘われもしないし」
屋敷の活気の少なさに少しの寂しさがあることは認めないでもないが、だからこそ自由で平穏な時間があるとも言える。
「そうだけど、僕は姉さんが騒いだり、稽古に行こうって誘われてアルが頑なに反抗したり。僕まで巻き込まれて、エルナ母さんやノルド父さんも時々口を入れながらも笑う。そんな賑やかな声が響く家が大好きだ
よ」
にっこりと微笑みながら言うシルヴィオ兄さん。
どうしてこの兄は、こういう恥ずかしい台詞を真正面から言えるのだろうか。聞いているこちらが恥ずかしくなってきた。
この純粋さが俗世に塗れた俺とシルヴィオ兄さんの決定的な差だろうか。
「……そうかなあ」
「そう言いつつも、アルも寂しそうだよ」
「どこが?」
俺が首を傾げていると、シルヴィオ兄さんがクスクスと笑う。
「朝食の席に着く時とか、寂しそうにエリノラ姉さんの席を見ているよ」
「いや、それはあるべき場所にあるべき物がないから、ちょっと落ち着かないだけだよ」
本で埋まっている本棚の中に唯一空いている隙間がある。それをきちんと埋めたい整理の気持ちと同じだ。
俺が毅然と主張すると、シルヴィオ兄さんは面白そうに「あはは」と笑う。
何だ人の顔を見ながら笑って。失礼じゃないだろうか。
「あるべき場所にってことは、アルにとってエリノラ姉さんは傍にいるのが自然という事だよね?」
微笑ましそうな表情を浮かべながら言うシルヴィオ兄さんの台詞に、俺は咄嗟に反論することができなかった。
◆
シルヴィオ兄さんに何だか温かい眼差しを向けられた俺は、居心地が悪くなったので部屋を出てリビングに向かう。
シルヴィオ兄さんとの会話のせいか、屋敷が妙に静かな事が気になる。
二階の廊下に人気はなく、俺の足音だけが妙に大きく響いて聞こえる。一階に降りると厨房から微かに仕込みの音がするのみだ。
メイドであるミーナやサーラは庭掃除や、何かしらの雑用をしているのか声などは聞こえない。
この時間はノルド父さんも執務室で仕事をしているし、エルナ母さんもリビングでゆっくりしている事が多い。
勿論、食事の時は集まって皆で会話をしたりするし、エリノラ姉さんがいる時もこういう静かな時間はあった。
だけど、エリノラ姉さんがいないとどこか屋敷全体が静かに思える。
「……何か認めるのは癪だけど、エリノラ姉さんがいないと静かだな」
ついに俺はエリノラ姉さんがいないと寂しくなるほどに調教されてしまったのだろうか。いや、そんな事はないはず。
などと心の中で思いながらリビングを歩いていると、突然玄関にある扉が音を立てて開いた。
このどこか忙しない扉の開け方はミーナだろうか? などと思いながら視線を向けると、そこにいたのはサーラであった。庭で掃き掃除をしていたのか手には箒を持っている。
丁寧な所作をするサーラがこんな風に慌ただしく入ってくるとは珍しい。
「どうしたの? サーラにしては忙しいね」
「アルフリート様。エリノラ様が帰ってきました」
俺を見るなり告げたサーラの言葉の意味がよくわからない。
「ん? 何だって?」
「エリノラ様がコリアット村に帰ってきたのです」
俺が改めて尋ねると、サーラがきっぱりと告げる。
いやいや、おかしいよ。エリノラ姉さんが帰ってくるのは明日のはずでしょ?
思わず口に出して問い詰めたくなるが、それを言ったら疑問に思われるので何とか心で留める。エリノラ姉さんは帰還日程の手紙を家に出してないからな。
俺の場合はトリーが細かく報告していたので、安心していたようだ。
エリノラ姉さんとキッカで遭遇したのは一昨日の事。そこから馬車でコリアット村に帰ってくるとなると、三日はかかるはずだ。
今日はまだ二日目の昼過ぎ。半日以上は早いのではないだろうか?
「……エリノラ姉さんのそっくりさんで見間違いとかじゃないの?」
「遠目に見ても当家の紋章が見えましたし、中にいるのはエリノラ様で間違いないかと思いますが」
おお、言い逃れができないほどの特徴。
それもそうか。本人を見たとか関わらずにあの特徴的な紋章の馬車に乗っている者はうちの家族だけだ。特徴的な紋章であるが故に、俺の心も思わず本人だと納得してしまいそうになる。
「本当の本当に帰ってきちゃったの?」
「本当の本当に帰ってきました」
「本当の本当の本当――」
「アルフリート様、屋敷を出ればわかりますよ。信じられないのであれば、外に出て確かめてきてください。私はエルナ様やノルド様にお伝えしなければいけないので失礼しますね」
半ば現実逃避的に尋ねると、ついにはサーラが呆れてリビングへと入っていった。
エリノラ姉さんが帰ってきた。
本当かどうか外に出て確かめたい。確かめたくはあるが、外に出るのが恐ろしくもあった。
それでも俺は怖い物見たさの気持ちを胸に抱きながら、恐る恐る外靴に履き替えて玄関を出る。
屋敷の中庭を歩いて、門の近くまで行く。
そこから村へと至る見晴らしのいい一本道が広がっていて、その道には見覚えのある紋章をつけた馬車が近付いてきていた。
その馬車を見た瞬間、全身に得体の知れない悪寒が走る。
これはキッカで感じた時と同じ感触だ。
俺の中の第六感的な感覚が警鐘を鳴らして、エリノラ姉さんの接近を知らせてくる。
その感覚のお陰でエリノラ姉さんの姿を見なくても、帰ってきたのだという確信を得てしまった。
俺が半ば諦めの気持ちで眺めていると、玄関の扉が開いて続々と家族がやってくる気配がする。
「うちの馬車だね。姉さんが帰ってきたんだ!」
「もう、ようやく帰ってきたのね。まったく、手紙の一つも寄越さないんだから」
「エリノラらしいといえば、らしいけど心配になるからね」
ノルド父さんの言う心配は、身の危険というよりも面倒事を起こしていないとかの心配だろう。道中に存在する魔物程度でエリノラ姉さんを倒せるとは欠片も思えないからな。
俺がそんな事を思っていると、遠くにあった馬車がどんどんこちらへと近付いてくる。
それにつれて御者であるロウさんの姿も見えてきた。その顔色を見ると、少し疲労感が漂っているような。
もしかして、できるだけ速度を上げて帰ってきたのだろうか。エリノラ姉さん自身も体力はあるし、早く帰りたいがためにやらせそうな事だ。
勿論馬の体力も考慮しただろうが、食事や休憩、睡眠を切り詰めれば速度を上げることはできる。俺とかはしんどいから絶対にやらないけど、そう考えれば、想定よりも早く帰ってきたことにも納得だ。
相変わらず体力が有り余っていて、無茶な事をさせる姉だ。
そして、エリノラ姉さんとメルが乗っているであろう馬車が門の前で止まる。
馬車が完全に停止すると、馬車の扉が勢いよく開かれた。
そこから顔を出したのは、赤茶色の髪をポニーテールにした少女。凛とした顔立ちに赤い瞳をしており、服装は白い半袖シャツに紫色の短パン。そこから伸びる手足はスラリと伸びており、その姿はどう見ても我が姉ことエリノラ姉さんである。
馬車と地面には長さの幅があり、普通の淑女であれば使用人に手を借りたり、段差を持ってこさせてから優雅に降りるのであるが、エリノラ姉さんはそれに当てはまらない。
そんなものは必要ないとばかりに、ぴょんと飛び降りた。
そんな淑女らしからぬ動作を見たエルナ母さんが隣で「はぁ」とため息を吐いた。
ノルド父さんとシルヴィオ兄さんもこれには苦笑いをしている。
だが、この女子力の低さこそエリノラ姉さんだなとしみじみと思えた。
着地したエリノラ姉さんが顔を上げてこちらを見る。
それだけで周囲に漂う空気が変わった気がした。
キッカで遭遇した時は直接顔を合わせていなかったからだろうか。カグラ出発前に出会っていたエリノラ姉さんとは雰囲気が違う気がする。
その違いを正確に表現することはできないが、雰囲気に鋭さを増しているように思えた。
王都の騎士団の演習に混ざっていたと聞いていたが、騎士団の演習はエリノラ姉さんを進化させるほど厳しかったのだろうか。
どこか張り詰めた空気感に緊張していると、エリノラ姉さんが無言でこちらに歩いてくる。
「お帰り、エリノラ」
「お帰りなさいエリノラ」
「ただいま! 父さん、母さん!」
ノルド父さんとエルナ母さんが、エリノラ姉さんのお帰りの言葉をかける。
手紙を寄越さなかったと言っていたエルナ母さんであるが、今はそれについて小言を言う事はない。今は純粋に娘の帰還を祝うことにしたようだ。
「お帰りなさい、姉さん」
「ええ、ただいまシルヴィオ」
そしてシルヴィオ兄さんとエリノラ姉さんも同じようにやり取りをする。
何だか俺の時と違って、皆純粋にお帰りの言葉をかけているような気がする。俺の時はもっと粗雑な迎え方をされていたような……。
そんなちょっとした疑問を心に抱えながらも、俺はエリノラ姉さんにも言葉をかける。
「お帰り、エリノラ姉さん」
「…………」
シルヴィオ兄さんに続いて、言葉をかけるがエリノラ姉さんが反応してくれない。
まるで珍妙な姿をした魔物を見たかのような表情だ。
あれ? どうしたんだろう? 今日の俺は水球を纏っていないぞ? そんな珍妙な視線を向けられる覚えはないのだが……。
そんな事を思っていると、エリノラ姉さんは腰を曲げて、俺の頬やお腹を不躾につねりだした。
エリノラ姉さんは俺の身体をひとしきり触ると、最後に俺の顔を見て、
「……何これ? 酷いわ……」
「人の顔を見て酷いって言う方が酷いと思うよ」
「どうやったらそんなに醜い姿になれるのよ? ただでさえ、目が細くて死んでいるのに顔に脂肪までつけたら絶望的よ?」
ぐっ! わかってはいるがそこまで直球で言われると心に突き刺さるものがある。
俺が精神的なダメージを受けて参っていると、エリノラ姉さんが呟く。
「……これは痩せる必要があるわね」
その後の台詞は今までの経験からわかっている。
俺は続きの言葉を聞かないように、回れ右をしてダッシュした。
しかし、それを上回る反射速度とスピードでエリノラ姉さんが回り込んできた。
おかしい。遠い位置で俺よりも明らかに遅れて動いたはずなのに!
以前ならば追いかけられた末に襟首を掴まれる程度であっただろう。
しかし、今回は即座に回り込んできて逃げ道を塞いできた。
魔力の流れからして、身体強化による運動能力の向上だろう。それは以前よりもスムーズに発動されており、効率よく魔力を使えていた。それだけでエリノラ姉さんの成長が伺えるものだ。
こ、これが王都の騎士団による演習の成果か……。誰だか知らないがうちの姉に面倒な事を教えてくれたようだ。
俺の正面に立ったエリノラ姉さんは、にっこりと笑顔を浮かべて言う。
「さあ、稽古をするわよ! アル!」
嬉しくないはずの言葉であったが、それを聞いた俺の心はどこか懐かしく、嬉しく感じているように思えた。
ついに200話ですね。そしてエリノラも帰ってきました。




