11月9日……3
それから。
無事に見学を終えた僕と雪柳は、日の暮れかかった空の下を並んで歩いていた。
誘われたのだ。良かったら一緒に帰ろう、と。
「今日は、夏見君とたくさん話せて嬉しかったです。ありがとうございます」
「あ、ううん。僕の方こそ楽しかったよ、ありがとう……」
ペコリと頭を下げる雪柳を横目で見ながら、僕は曖昧に頷く。
実はあの後も、雪柳と一緒に行動していたのだ。どこを見学する時も、雪柳が懇切丁寧に説明してくれるからすごく助かった(その代わり、資料を読めなかったのが心残りと言えば心残りだけど)。
そんなことを考えながら、自分が引いている自転車に目線を落とす。
……椿が、あれからまったく話そうとしないのだ。
雪柳と喋っているついでに、さりげなく声を掛けてもシカト。雪柳に声を掛ける振りをして、堂々と話し掛けてもシカト。
はっきり言って、リコの方が上手に話せていたのではないだろうか。
自転車の主は、リコじゃなくて僕なのに!
「あの……夏見君。どうしたんですか?」
「う、ううん。なんでもないよ!」
しまった! 椿のことばかり考えていたら、雪柳との会話すら覚束なくなっていた!
「そういえば夏見君は、記憶喪失の方はどうなんですか?」
「え? ど、どうって?」
「今日一緒に居た感じだと、日常生活には随分慣れたみたいですけど……何か思い出したことはないんですか?」
その話のおかげで気が付いた。僕が、自分自身の境遇について何も考えていなかったことに。
……そういえば僕、記憶喪失なんだよね。
せめて椿が、事故以前の僕について話してくれれば、記憶を取り戻す手掛かりになるかもしれないのに。
椿以外で、誰か話してくれそうな人は――
「そうだ、雪柳が教えてよ!」
「え?」
「記憶喪失になる前の僕のこと。そうすれば僕も、ちょっとは思い出せるかも」
そう伝えたことで、僕がちっとも記憶を取り戻していないのを把握したらしい。雪柳は申し訳なさそうに項垂れてしまった。
「すみません。実は私、夏見君とはあまり話したことがないんですよ」
「あれ、そうなの?」
「はい。昔の夏見君は、なんていうか……人を寄せ付けない方でしたから」
独り言のようにつぶやくと、雪柳は気を取り直したように顔を上げる。
「でも私、夏見君とはずっと話してみたいと思ってたんですよ。夏見君、黙って座っているだけで絵になる人じゃないですか」
「へぇ……」
分かるかもしれない。自分で言うのもおかしいけど、僕って結構整った顔立ちをしてるもんね。未だに自分の顔を見るとうっとりしちゃう時もあるし。
「だから今、こんなふうに夏見君と仲良くなれて嬉しいです」
「雪柳……」
そのまっすぐな好意が、素直に嬉しかった。思わず口元から笑みが零れ出てしまう。
「僕も、雪柳と友達になれて嬉しいよ」
「ほ、本当ですか?」
「もちろん。だってさ、なんだかんだ言って学校で話してくれる人って雪柳だけだもん」
一旦言葉を切ってから、僕は雪柳の手を握りしめる。
「だからありがとう、雪柳」
「……っ!」
すると雪柳は、何故か頬を真っ赤に染めてしまったではないか。そわそわと、空いている方の手で髪の毛を押さえたりしている。
「どうしたの雪柳? 何かあった?」
「いえ……あの……その……ええと……」
様子を確認するために顔を覗き込むと、ますます雪柳の挙動がおかしくなる。瞬きをしたら零れ落ちてしまうのでは、というくらい目の淵に涙を溜めて、目を伏せて……。
その表情を見た瞬間、さすがの僕でもピンと来た。
「ご、ごめん……もしかして嫌だった?」
慌てて繋がったままだった手を放しながら、僕はつぶやく。
「そうだよね。こんなの、よっぽど仲のいい人じゃないと嫌だよね。本当にごめん……」
「ち……違います! 嫌じゃないです!」
離れたばかりの僕の手を、再度握りながら雪柳が声を上げる。
雪柳がこんなふうに大声を出すの、初めて聞いた気がする。その必死な様子と相まって、僕は呆気にとられて彼女を見つめ返した。
「私はただ、嬉しかったんです。夏見君に優しく接してもらえて……まるで、夏見君の特別になれたようで……」
「まるでも何も、雪柳は僕の特別じゃない。さっきも言ったよね? 僕と普通に話してくれるのは雪柳だけだって」
「でもそれは……友達として、ですよね……」
独り言のような、雪柳のつぶやき。
か細い声だったけど、それは驚くくらいはっきりと僕の耳に届いた。
「何それ、どういう意味?」
「私……いくら特別だとしても、友達としてなんて嫌です。私は夏見君に、もっと違った形で見てもらいたいんです」
会話の流れがまったく見えてこない。僕はただただ、雪柳を見つめることしかできない。
「私、夏見君のことが好きなんです……!」
「……へ?」
何を言われたのか、さっぱり理解できなかった。
ただ分かったのは、握りしめられた手に感じる雪柳の震えと。汗と。
「昨日助けてもらった時からずっと、夏見君のことが頭から離れなくて……! 夏見君のことしか考えられなくて……。こんなふうに人のことを想うの、初めてなんです」
そのまま雪柳は、縋るように僕の身体に身を寄せてくる。
「初めて、なんです……」
雪柳の切ない声が、鼓膜に響く。
……何、これ。
僕は今、女の子に告白されたんだよね。一人の可愛い女の子に好意を伝えられたんだよね。
普通の人だったら、ここで照れを感じたり、幸福感を覚えたりするはずだ。
……それなのに、なんで。
なんで僕は、こんなに冷静なの?
なんでこんなに冷めた目で、雪柳を見ているの? さっきまで、雪柳のことを快く思っていたのに。好意が嬉しいと思っていたのに!
おかしい。おかしい! おかしい!!
「……ダメだよ」
何か返事をしなくちゃと思ったら、口から出たのはあまりにも残酷な一言だった。
「え……?」
「分からない。でも、ダメなんだ。違うんだ。雪柳の気持ちは、どうしても受け入れられない。……許せないんだ」
自分でも、何を言っているのか分からなくなっていた。
けど、この言葉が僕の正直な気持ちだってことだけは本能で理解できて。
なぜだろう。雪柳の告白を聞いた時から、椿の姿が頭から離れない。
……そうだ、椿を守らなくちゃ。
それ以外のことはしたくない。椿以外のものに時間を割きたくない。
そう考え付いた瞬間、混沌としていた感情やら思考が、すとんと落ち付くのを感じた。
ああ、そうだった……これでいいんだ。
「……そう、ですか」
そんな僕の気持ちが伝わったんだろう。消え入りそうな声で頷くと、雪柳はそっと僕の手を放してくれた。
「……ごめん」
「いいんです。受け入れてもらえるとは思ってませんでしたし……唐突なことを言ってすみません」
痛々しい笑顔だった。
それを見て、自分の言葉がどれだけ彼女を傷つけたのか分かってしまった。
何か声を掛けた方がいいんだろうか? でも、ぽっかりと空いた心の中には、彼女に掛けるべき言葉なんて一つも浮かんでこない。
「私の家、すぐそこなんで……ここまで送ってくれてありがとうございました」
「え、でも……」
「それじゃあ……!」
迷っている間に、雪柳は弾けるように踵を返し、一直線に走り去ってしまった。
その後ろ姿を眺めていると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
でも、僕に後悔の念はこれっぽっちも無かった。
これで良かったんだよね。だって僕には、こうすることしかできないんだから。
『貴様、とんだ下衆だな』
淡々とした……でも、強い嫌悪感が浮き出た声。
振り向くとそこには、輝く羽根を羽ばたかせる椿が居た。
ああ……もう、夜なんだ。
『何故振った? 今の貴様を慕ってくれたあの女を』
椿の鋭い眼差しが僕を射抜く。蠢き出した蟲達の気配を周囲に感じながらも、僕は金縛りにあったように彼女から目を離せなかった。
「それは……違うって思ったから」
『違う、だと? あれだけ思わせぶりなことをしておいてか?』
僕の返答に、椿はますます目を細めた。
『貴様はあの女に言ったではないか。仲良くなれて嬉しい、と。昨日なんて、愛おしそうに抱き締めていたではないか。それなのに貴様は、あの女を何とも想っていないと言うのか?』
「うん」
『……なるほど。貴様には常識というものが欠けているようだな』
「え?」
『無知な貴様に教えてやるが、普通の友人関係であのようなスキンシップは取ったりしない。貴様のあの行動は、ただのクソタラシだ。クズだ』
「ク、クズ……!?」
ストレートな罵倒に自分の耳を疑った。
口が悪いと思っていたけど、ここまで露骨に言われるとショックだった。もしかして椿、かなり怒っているのだろうか。自分の行動が非常識だと非難されたことよりも、椿の反応の方が気になって仕方がない。
『そもそも「ダメ」とは、何を差しての言葉だ? あの女を異性として見れない、という意味か? それとも自分と付き合うに値しないという意味か?』
「そんなの……分からないよ」
『分からないとはなんだ? まさか貴様、何の根拠もなくあの女を振ったのか?』
「そうだよ」
椿の追及に、僕は迷うことなく頷いた。
「雪柳に気持ちを伝えられた瞬間に思ったんだ。これを受け入れたらダメだって。僕には今、何よりも優先しなくちゃいけないことがある。だから、雪柳の気持ちに応える余裕なんて無いんだって」
自分の気持ちを整理するように、一言一言を紡ぎだす。すると、驚くほどすらすらと言葉が出てきた。
「……そうだよ。僕は今、椿を守りたいって思ってる。記憶が無いから分からないけど、きっとそれは、僕にとってとても大切な事なんだ。だから、それ以外のことに割いている時間は――」
『ふざけるな!』
吐き捨てるような叫びに、思わず体がびくりと跳ねる。
『何が私を守りたい、だ。そのようなこと、頼んだ覚えはない!』
「た……確かにそうだよね。でも、そうしなきゃいけない気がするんだ。この義務感が、記憶のない僕に残された唯一のものなんだ」
その時僕の中にあったのは、強い祈りだった。
椿には受け入れて欲しい。椿には拒絶されたくない。
……だから、受け入れて。
そう願いながら、恐る恐る顔を上げると――
『……触るな、気色悪い』
そこにあったのは、椿の能面のような顔だった。
椿は瞬きさえも忘れて僕を見下ろしていた。その表情は昨日、雪柳を抱きしめてしまった時と同じ。人を虫ケラとしか思っていないような、あの顔。
『今すぐ、私の前から消えろ』
「な……なんで? どうしてそんな酷いことを言うの……?」
僕はまた、間違ったことをしてしまったのだろうか。
なんとか椿の機嫌を取ろうと、自転車のサドルに手を置くと、
『自転車にも触れるな! それだけで貴様のくだらん思考が流れ込んでくる!』
「そ、そんなこと言われても……! こうしなきゃ、椿を運べないよ!?」
『運ぶ必要などない。この場に置いてゆけば良い』
「それこそ、できないよ! だって、もし手袋が外れたらどうするの!? 椿、蟲に殺されちゃうかもしれないんだよ!? それなのにここに置いて行けっていうの!?」
『さっきからそう言っているだろうが! 早くしろ! 貴様が傍に居ると、吐き気がする……!』
衝撃的な一言だった。
吐き気がするって。気色悪いって……何?
……酷過ぎるよ!
ああ、ムカつく……! お前なんか知るか! って言い捨てて、手袋をはぎ取ってやりたい。僕だって、お前みたいな性悪能面女は嫌いだって言ってやりたい!
なのに、声が出なかった。
本能が拒絶していたんだ。この人を傷つける行為を。
「……分かったよ。椿はここに置いていく」
『ああ、そうしろ』
「異端審問官の仕事は僕一人で行ってくる。それが終わったら、また迎えに来るから」
『来なくて良い』
「絶対に来るから!」
手袋を結びつける紐を震える手で補強しながら、僕はやけになって叫んでいた。
大丈夫。これだけきつく結んでおけば、絶対に解けたりしない。蟲に襲われることはない。万が一手袋が外れてしまっても、椿は防御の術が得意だから平気なはずだ。鍵もチェーンもしっかり付けてあるし……。
そこまで確認したところで、僕は椿――自転車から身を離した。
……なんでだろう。
どうして僕は怒っているはずなのに、椿に対してここまで献身的になってしまうんだろう。
なんで椿に拒絶されただけで、指先が震えるほどに傷付いているんだろう。