11月8日……4
ルビーのように透き通った紅眼。細い顎にスッと通った鼻筋。
触れたらポキリと折れてしまいそうな華奢な身体。
街灯の光を浴びて輝く銀の髪は、絹のようにサラサラと靡いている。
芸術家が大理石から丹念に掘り出したような、冷たく、無機質的な美貌の持ち主だ。
だけど、額に生えている黄金色の触覚と、大胆に露出されている背から伸びる、白くふわふわとした羽根。そしてホログラムのように透けている体を見るに……人間じゃないんだろう。
そんな花嫁が、僕の自転車の上で腕を組んで立っていた。
……なんだろう。すごく、懐かしい。
彼女とは昔、どこかで会ったことがあるような……そんな気がする。
『来るぞ』
「えっ?」
言われて振り向くと、また犬が飛び掛かってきていた。
花嫁は面倒くさそうにため息を付くと、僕を庇うように手を振りかざす。
すると、銀色の膜が自転車を覆うように表れた。
この白い閃光――さっき、僕を守ってくれたものだ!
シールドみたいな効果があるのかな? 膜は、突撃してくる犬を見事に弾き飛ばしてくれた。地面に倒れこそしなかったものの、犬はよろよろと後退してしまう。
そこで、ようやく気が付いた。
よくよく見ると、この犬……乗馬に使うような鞍が取り付けられているのだ。
そこには当然、人間の物だと思われる脚が掛かっていて――
「くっ……なんて小賢しい真似を……!」
人間だ! 犬に、男が騎乗している!
そいつは忌々しそうに口元を歪めながら、僕を見下ろしていた。
上品そうなスーツを着た、成人男性――だと思う(「思う」って表現したのは、顔が覆面に覆われているため確認できないからだ)。
ただ、当然の如く鞍に乗り手綱を握っていることから、そいつが犬の飼い主であるのは容易に想像できた。
そうか! こいつが指示してるから、この犬は人間に攻撃を仕掛けることができるんだ!
『貴様、何を呆けている。ここはさっさと逃げるのだ!』
「えっ? で、でも、僕が逃げたら君は――」
「もう一度です、ドロセラ。あの程度の結界、攻撃を重ねれば容易に破れます!」
「アオオオオォーーーンッ!!!」
ああ! あの犬、復活してるし!
『私の肉体はその自転車と共にある! 分かったら早くしろ、ウスノロが!』
「う、うん!」
花嫁の言葉で、僕はようやく我に返った。
――だけど、それは少しばかり遅かったようだ。
「第三刑罰・緩やかな壁!」
ペダルに足を掛けた途端、燃え盛る炎の壁が僕と犬の間に走った。
それは銀色の膜を弾き飛ばし、犬の前足と鼻先を焦がす。
動物の毛が焦げる、不快な匂いが鼻に付いた。
「あっははは! なんだか楽しそうなことしてるじゃ~ん! アタシも混ぜてよ!」
緊張感の抜けきった、軽薄そうな声。
見るとそこには、ニタニタと微笑むリコと黒服の男達が立っていた。
げっ! こいつら、もう追いついて来ちゃったんだ!
「グルルルルル……」
だけど幸運なことに、今の攻撃で犬の怒りの矛先がリコに移ったようだ。
そいつは、今にも飛びかからん勢いでリコを威嚇している。
もしかしてこれは、チャンスじゃない? ここで犬とリコ達が争えば、その隙に逃げられるかも……!
ちらりと花嫁を見やると、彼女も同意見らしく小さく頷いてくれる。
『畜生が奴らに突撃したら、すぐに漕ぎ出すのだぞ。良いな?』
「う、うん……!」
――だが、そう上手くはいかなかった。
「待ちなさいドロセラ。彼らに手を出してはいけません」
覆面の男が興奮する犬を制してしまったからだ。
ご主人様の命令に、犬は大人しく引き下がってしまう。
それを見届けてから、覆面の男はすぐさまこちらを見やった。
「それより夏見君、貴方は……」
その呼びかけにビクリと体が反応してしまう。
な……なんなのこの人。何で僕の名前を知ってるわけ……?
男はじっと僕を凝視してくる。覆面の奥の黒い瞳に、自分の不安げな顔が映っているのが見えた。
「やはり、覚えていないのですね」
「へ……?」
「今日のところは撤退です。行きますよ、ドロセラ」
飼い主にそう言われたら、逆らうことなどできないようだ。
残念そうな唸り声を上げると、犬と男はあっという間に立ち去ってしまった。
「エンリケ、ディエゴ。あの犬どもを追ってきて。潜伏場所だけ調べてくれればいいから」
「はっ!」
リコが淡々と男達に指示しているのを聞きながら、僕はグリップを握る手に力を入れていた。
予定とは違うけど、僕もさっさと逃げ出そう。今ならリコ達も犬に意識が行っているから大丈夫――
と、思ったら。
「さぁて、そこのアンタ。アタシとおしゃべりしよっか? お友達も一緒なんだしさ」
リコの嘲るような声に止められてしまう。
『お友達』という単語に、嫌な予感がして振り向くと――
「な、夏見君……」
なんとそこには、男達に拘束された雪柳が居た。
「ねぇアンタ。アタシを無視できるような状況じゃないってのは、分かってるよねぇ?」
あざとい仕草で小首を傾げながら、リコは雪柳の首筋に槍の切っ先を向ける。
うっ……雪柳が殺される!
「わ、分かった、言うことを聞く。だから雪柳を傷つけないで!」
「あっはははは! 『傷つけないで!』とか超笑えるんですけど! ステキな友情ねー。あっ! っていうか今のアタシ、悪者みたいで格好良くない!?」
「オジョーサマ、真面目にやってくださいっスよ」
部下と思われる男に諭されて、リコはチッと舌うちをする。
「分ーったわよ。じゃあまずは……アンタ、名前は?」
「……夏見柚彦」
「ナツミ?」
僕の返答に、リコはこてんと首を傾げる。
「なぁーんだ。アンタ、夏見柚彦だったのね!」
「……は?」
「言われてみれば、顔とかそのままじゃん。知ってるわよ。ずっと昏睡状態だったんでしょ? 体調は大丈夫?」
リコの言葉に、思わず悲鳴を上げそうになった。
バクバクと暴れ出す心臓を抑えつけながら、緊張で乾ききった唇をなんとか動かす。
「な、なんで僕のことを知ってるの……!?」
「えー。そんなのどうでもいいじゃん」
「ど、どうでも良くなんか……!」
「それよりアンタ、あの男との関係は? なんか狙われてたっぽいけど。あと、そこの自転車の上に居る『蟲』は何?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、僕は何も答えることができなかった。
僕に拒否権なんてないのは分かっている。答えなかったら、雪柳も僕も危ないってことも知ってる。
でも僕には、答えようがなかった。だって僕は……答えなんて知らないんだから。
『ふっ……』
どう説明をしたら信じてもらえるかと頭を抱えていると、後ろから嘲笑が飛んでくる。
――例の花嫁だ。
「そこの蟲。今、鼻で笑ったわね?」
『あまりにも馬鹿らしくてな。そのようなこと、こやつに聞いても無駄だと言うのに』
「なんでよ。こうして人質まで取ってるのよ? 普通だったら即行で答えるっしょ」
『普通ならばな』
花嫁は、相手を小馬鹿にするような口調を強めてつぶやく。
『こやつは、事故の衝撃で目覚める以前の記憶を失っているのだ。よって、貴様の質問には一切答えられぬ』
その一言は、リコの反論を封じ込める力があった。
リコはすぐさま隣の男に振り返ると、またごにょごにょと話し出す。それを見て、花嫁はつまらなそうに肩を竦めていた。
なんでこの花嫁、僕が記憶喪失になっていることを知っているんだろう?
今さっき出会ったばかりだっていうのに……。
訴えかけるように花嫁を見上げてみるけど、彼女は視線すら寄こしてくれない。
そんなふうに花嫁を眺めている内に、リコ達の会議は終わったようだった。
リコは、雪柳に向けていた槍を降ろしながらこちらへと歩み寄ってくる。
「アンタ、本当に記憶がないの? 何も覚えてないの?」
「……うん、全然」
そう質問されるのは、記憶喪失になってから何度目だろう。こんな時に嘘なんて付いても仕方ないので、僕は素直に頷いておいた。
「このタイミングで記憶喪失……ねぇ? さっき変な男に襲われていたことといい、謎の事故に遭っていることといい……アンタ、何かヤバイもんでも見ちゃったんじゃない?」
「え?」
「事故の原因が分かってないんでしょ? 身体に異常もないんでしょ? だったらその記憶喪失、ただの偶然じゃなくて人為的なものなのかもしれないじゃん」
「ははっ。まさか、そんなことある訳が……」
普通だったら百人中百人が笑い飛ばしてしまいそうな、その言葉。
だけど……なぜかそれを否定しきれない自分が居た。
だって今の皿久米市では、巨大生物なんてものが生息しているんだ。異常なんだ。だから、記憶喪失を故意に引き起こせないとは言い切れない……。
引きつった笑みを浮かべたまま固まる僕を見て、リコはふっと微笑んだ。
「なるほどね、気が変わったわ。この女はアンタに返すわ」
「きゃっ……!」
僕の困惑をよそに、リコは乱暴に雪柳を突き飛ばしてくる。
「ほら、アンタ達。武装解除しなさい」
「はっ!」
リコの号令を受け、男達は一斉に武器を降ろした。同時にそれは、しゅるしゅると音を立てながら木の枝へと戻っていく。
なるほど。確かにこれなら、すぐに危害を加えられることはないね。
とりあえず僕は、茫然と突っ立っている雪柳の腕を取った。
今は彼女の安全が第一だから。
「あ……あの、私……」
雪柳はまだ不安そうな表情をしていた。見ればその小柄な身体は、小刻みにかたかたと震えている。
無理もない。あんな至近距離で槍を突きつけられたんだ。化け物がたくさんいる中、一人で隠れていたんだ。普通の人間だったらトラウマになっていてもおかしくない。
「雪柳……もう、大丈夫だよ」
僕はそっと手を引くと、そのまま雪柳を抱き締めた。
華奢な体に腕を回して、子供をなだめるように背中を優しく撫でる。
「怖い思いをさせてごめんね」
「な、夏見君……」
そんなふうに雪柳を抱き締めていると、どこかから強い視線を感じた。
気になって顔を上げてみると――自転車の上の花嫁と目が合う。
なんでだろう。花嫁はものすごく不愉快そうな顔をしていた。
まるで、道路の真ん中で轢死した猫でも見るかのような……そんな表情。
……なんで? どうしてそんな顔をしているの? 何が気に食わないの?
「さぁて、そろそろいい?」
ぼおっと花嫁を見つめていると、呆れた顔をしたリコが声を掛けてくる。
あ、そうか。そういえばこの人達が居たんだっけ。
僕はそっと雪柳から腕を放すと、再度リコと向き直った。もちろん、警戒は解かないままで。
するとリコは、くすりと小さく微笑んだ。
「そんなにビビらなくてもいいって。アタシ達、この異変を解決するために雇われた正義の味方なんだからさー」
「せ、正義の味方……!? あれだけ酷いことをしておいて!?」
「それは仕方ないじゃん。だってアンタ達、超怪しかったんだもん」
僕の咎めなど物ともせず、リコはさらっと言い切る。
「シロウトのアンタ達に簡単に説明してあげるとー……実はこの皿久米市の異変って、誰かが故意に引き起こしたものなのよね。ミステリー風に言うと『犯人』が居るの。アタシ達の仕事は、この近辺に潜伏している犯人――異端者を捕まえること」
そこで一旦言葉を切ると、リコは目を細めて僕と雪柳を見やる。
「柚彦もその女も、退魔の手袋を付けているアタシ達の姿が余裕で見えていた。ってことは、異端への耐性があるみたいだし……。しかも女の方は、夜間外出禁止令を破って、夜な夜な外出していたみたいだしぃ?」
リコの責めるような視線に、雪柳が気まずそうに顔を伏せる。
「そんな奴らがいたら、異端者じゃないかと疑いたくもなるっしょ? ちょっと尋問でもしてみようかと思うじゃん?」
「それで、雪柳を誘拐したの?」
「そうそう、そういうこと!」
僕の問いかけに、リコはにやりと微笑む。
「でも安心しなさいよ。容疑は晴れたわ。そこの女も、アンタもね」
「え……? どうして?」
「だってアンタ達、あまりにもシロウトすぎるんだもん。もし異端者だとしたら、もっと対策をしているだろうし。例えば……さっきの犬に乗っていた奴みたいにね」
つまり……より疑わしい人物が出てきたから、疑いが晴れたってことでいいの? そうだとしても、腑に落ちない点がいくつかある気がするんだけど……。
そんなことを考えていると、リコが黒い手袋を片方こちらに差し出してくる。
「とりあえず、そこのアンタ。これを貸してあげるわ。その自転車に付けなさいよ」
「え? 何なの、コレ」
「これは、退魔の術が施してある特殊な手袋よ。あらゆる術への抵抗力を高められる上、魔力の低い者から知覚されなくなる優れモノなの。凡夫にも分かりやすく説明すると、ドラ●もんのヒラリマント&石ころぼうしの弱体版って感じね」
「はぁ……?」
「つまりこの手袋を付ければ、一般人だけじゃなくて巨大生物からも知覚されなくなるのよ。分かる?」
リコの説明を聞いても、僕にはピンと来なかった。
そもそも、なんでこんな貴重なものを僕に渡してくれるんだろう? 別に僕には必要ないし……。
するとリコは小馬鹿にするふうに肩を竦めた。
「もしかしてアンタ、気づいてなかったの? 今アタシ達、巨大生物に囲まれているんだけど?」
「えっ!?」
その指摘に慌てて振り向くと、驚くべき光景が目に入った。
猫。ゴキブリ。蛾。野良犬。カマドウマ。蝿。蚤……ざっと見ただけで、それだけの巨大生物が僕達を包囲していた。どれか一匹が突っ込んできたら、全員飛び掛かってきそうな……そんな緊迫した状態だ。
「どいつもこいつも、そこのクソ蟲におびき寄せられてるみたいじゃん。その『蟲』、よっほど美味しそうに見えるのかな?」
『…………』
そうつぶやくリコの視線の先に居たのは、花嫁だった。
自分に視線が集まっているのが嫌なのか、花嫁は不快そうに眉間に皺を寄せている。
「彼女が『蟲』って……どういうことなの?」
「あれ、ひょっとして知らなかったの? そいつは『蟲』――巨大生物の一種よ?」
「ええ!?」
「見れば分かるじゃん。一応人型をしてはいるけど、額の触覚に背中の羽根。それに、あのシールドのような能力……どう考えても化け物でしょ」
リコの言葉に、僕はひどく衝撃を受けた。
思わず花嫁を仰ぎ見るけど、彼女は表情一つ動かそうとしない。反論すらしないということは、リコが言っていることは事実なのだろうか。
そこまで考えたところで、僕ははっと我に返った。
「リコ! ちょっとそれ貸して!」
「痛っ! 何すんのよ!?」
リコからひったくるように手袋を奪うと、僕はすぐさま自転車に付けた。
途端、緊迫感に満ち満ちていた場の空気が……一気に弾けた。
それまで花嫁というただ一つの獲物を狙っていた巨大生物達。
だけどその獲物が知覚できなくなった途端、自分の周りにいる餌の存在に改めて気が付いたらしい。そこから巨大生物達の食い合いが始まっていた。
そんな悍ましい光景から目を逸らすと、僕は再度花嫁に向き直る。
……良かった。彼女が危険な目に遭わなくて。
守れて、良かった……。
そう安堵のため息を付いてから、僕は、はて? と首を傾げた。
なんで今、「彼女を守れて良かった」なんて思ったんだろう? 普通だったら「彼女の巻き沿いを食らわなくて良かった」って思うところなのに。
「さーて。市民の安全も確保できたことだし……今日はここまでにしておこうかな。アタシ達もお仕事しなくちゃいけないしさ」
一人で首を傾げていると、リコが声を掛けてくる。
「アンタ達、今日はさっさと家に帰りなさいよ。何やってたのかは知らないけど、今、夜間外出は禁止なんだから」
リコの言っていることももっともなので、大人しく頷いておく。
「じゃあ、また明日ね。日が出てる内に会いに行くからさ」
「……え? また明日って……」
「行くわよ、アンタ達!」
「はっ!」
……そうして。
リコとその下僕達は、風のように立ち去ってしまったのだった。