11月8日……3
表に出ると、外の様子は激変していた。
景観自体に変化はない。けど、昼間には見られなかった『アレ』がうじゃうじゃと歩き回っているのだ。
例えばあそこに居るのは、虎ぐらいの大きさの野良猫だ。鋭い爪を武器に、同体格のネズミを仕留めている。その後ろのは……ゴキブリかな。直径三十センチほどの巨大なヤツが、カサコソと動き回っている。あっ、あそこを飛んでいるのは雀かな? 大きさはカラス位あるみたいだけど……。
こんな異常な光景を目の当たりにしたというのに、僕は落ち着いていた。
だって……これは当たり前のことなんだもん。
今の皿久米市にとっては『普通の光景』だって、母さんが言ってたもん!
◆◆◆
「ね、ねぇ母さん……『アレ』は何?」
家に帰った途端、わさわさと発生し出した『アレ』を見て、思わず母さんに縋ってしまった。
そんな僕を本気で心配してくれたらしい。母さんはそっと僕の肩に手を置くと、優しく微笑んでくれる。
「大丈夫、怯える必要はないわ。アレは『巨大生物』っていうの。お偉い学者さんは突然変異体とか呼んでいたかしらね」
「きょだいせいぶつ? とつぜん……へんいたい?」
「そう。この皿久米市ではね、一ヶ月ほど前から巨大化した生物が大量発生するようになったのよ」
「そ、そんな生き物が傍に居るなんて、危なくないの!?」
「それが、全然平気なのよ。巨大生物が出るのは夜中だけだし……それに、アレに襲われた人は今までに一人も居ないそうなのよ。巨大生物同士で殺し合っているのは良く見かけるけど。ほら、今も」
母さんに促されて窓の外を見ると、そこでは壮絶な戦いが繰り広げられていた。
全長五メートルはありそうな蛇とムカデが「キシャーッ!」と威嚇しながら戦っていた。
お互い、相手の急所に噛みつこうと攻防を重ねているけど……実力が均衡しているせいか、なかなか勝負がつかないようだ。
しかし、その刹那。
一瞬の隙を突いて、ムカデが蛇の喉元に喰らい付いた。
そのまま、無数の足で蛇の体を地面に押さえつけると、思いっきり肉も皮も噛み千切って――
……あ。もげた。
放り投げられ、バウンドする蛇の首。どぼどぼと道路に広がる真っ赤な血。
それがあまりにも生々しくて、僕は咄嗟に目を逸らしてしまった。
「大丈夫よ。もう一度見てみなさい」
「ふえぇ!?」
今の時点でも吐きそうなのに、また見ろっていうの!? なんてドSなんだ、この人!
抗議しようと顔を上げると、意外にも母さんは真剣な表情で窓の外を見ていた。その様子に興味を引かれて、僕もついついその視線の先を追ってしまう。
そこに……蛇の姿はなかった。
今まで見ていたのは幻だったのだろうか?
転がっていた首も、血の跡も……全て跡形もなく消えてしまっている。
「ど、どういうこと……?」
「原因は解明されていないのだけど、負けた方は肉体が消滅してしまうみたいなのよね。あと、ムカデに注目して」
母さんに言われるまでもなく、僕はムカデから目を放せなくなっていた。
ムカデが、白い光に包まれている。人工的な光に照らされているとかそういう訳じゃなくて、自身が光を発しているようなのだ。
その光は、すぐに収まった。
だがそこには、先ほどまでのムカデはいなかった。
一回り大きくなって、より鋭い牙や爪を手に入れたムカデの姿があったのだ。
「な、な……何、アレ!?」
「『相手を喰って成長している』って、お偉い学者さんは言ってたわね」
母さんはため息をつくように答える。
「ほら。ゲームでよくあるでしょう? 『敵を倒して、経験値を溜めてレベルアップ』みたいな。そんな感じの現象らしいわよ」
「何それ!? そんなことって、生物学的にあり得るの!?」
「あり得ないでしょうねー」
母さんはもう、思考を放棄しているようだった。
曖昧な笑みを浮かべながら、窓の外の怪獣大決戦を眺めている。
「……こ、この現象って、皿久米市の外でも起こっているの?」
「いいえ、皿久米市だけよ。巨大生物達は、皿久米市から出られないみたいなの。まるで、見えない壁に阻まれてるようで」
「じゃ、じゃあ……僕達だけでも皿久米市から出て行った方がいいんじゃない? 襲われないって分かっていても気味が悪いよ……」
「それがダメなのよ」
当然とも思える僕の提案に、母さんは悲しそうにかぶりを振る。
「原因が解明できない以上、私達はここから出ることを許されないの。市内の人間も、あの生き物たちと同じ『何か』に感染しているかもしれないから」
「それじゃあ僕達、隔離されてるの!?」
「ええ。そういうことになるわね」
言いにくそうに、母さんはつぶやく。
「とりあえず市は、夜間外出さえしなければ普通に生活してていいと言っているわ。けど、みんな内心では不安がっているわね……」
「そっか……だから母さんは、僕が巨大生物に襲われたんじゃないかって思ったの? そのせいで記憶喪失になったって……」
「そうよ。前例がないとはいえ、あり得ないとは言い切れないから……。でも、あなたが目覚めて本当に良かったわ……」
心底愛おしそうに抱き寄せてくれる母さんに、僕は何も言えなくなってしまった。
◆◆◆
そんな異常な生き物達を眺めていたら、昨日した母さんとの会話が脳裏を過ぎった。
っと、こんなところで突っ立っている場合じゃない。早くこの場を離れないと!
雪柳を抱き直すと、僕はまっすぐ自転車の元へと向かった。
……ん、だけど。
「ど、どういうことなの、コレ!?」
数分ぶりに会った自転車には、ダンゴ虫がびっしりとへばり付いていた。
それは全部人の頭ほどの大きさをしていて、節なんてちょっと動くだけでギチギチ言ってて、太い触覚がみょんみょん揺れていて……とにかくキモかった。
っていうかこれじゃあ、自転車に乗ることなんて不可能だろ!
「ゆ、雪柳。ちょっとここに座ってて!」
「ん……」
雪柳を地面に横たえると、僕はすぐさまダンゴ虫を叩き落とした。
意外にもダンゴ虫は無抵抗で、草むらの上に黒い球となってコロコロ転がっていく。
よし! これで後は逃げるだけだ!
と――脚を踏み出した瞬間だった。
「あっ!?」
パキッと、硬いものが足の裏で潰れる感触。
恐る恐る地面を見やると……そこには、ダンゴ虫だったものだと思われる残骸が散らばっていた。割れて粉々になった甲羅に、千切れた足と触覚……。
うへええええぇぇぇぇ! でっかいダンゴ虫、踏んじゃったあああぁぁ!
きょ、巨大生物って、殺しちゃって大丈夫なのかな!? 僕、何かに感染しちゃうんじゃないの!?
テンパっている内にも、ダンゴ虫の残骸は光となって消えてゆく。
僕は顔を青ざめながら、よろけた拍子に掴んだままになっていた自転車から手を離した。
「見つかったか!?」
「いや、まだだ!」
と、その時。入り口の方から、僕を捜しているであろう声が聞こえてきた。
間違いない、あの聖職者達だ。どうやら逃走したことがバレてしまっているらしい。
このまますぐにでも逃亡したいところだけど……問題は雪柳だよね。さすがに意識が覚醒していない人間を担いだまま、自転車に乗るのは不可能だ。かと言って、一緒に徒歩で逃げるのもあり得ない。
――だったら。
「雪柳。ちょっとだけ、ここに隠れててくれる?」
「え……夏見君は……?」
「僕は囮になるよ」
そう。別々に行動した方が、二人共助かる可能性が高いんだ!
僕があいつらを引きつければ雪柳は安心だし、僕は僕で、自転車に乗っていればあいつらから逃げ切ることができるかもしれない。
「で、でも……夏見君、危ないですよ……!」
「大丈夫。逃げ切れたら、もう一度迎えに来るから待ってて」
――そして。
自転車に跨ると、僕は魑魅魍魎蔓延る夜の街へと繰り出したのだった。
◆◆◆
自転車に乗って道路に出た途端、背後で人のざわめきが聞こえてきた。
「居たぞ! 正面入り口だ!」
だ、大丈夫。これも計算通りだ。
ちゃんと目撃されないと囮にならないもん。雪柳のためにも頑張らないと!
後ろを振り返ることなく、僕は全速力で自転車を漕ぎ続ける。
その途端、朝に乗った時とは違う……何か、不思議な感覚が湧きあがってきた。
ペダルが軽い。どれだけ漕いでも疲労なんてまったく感じない。追い風が、僕の背を強く押してくれている……!
この感覚は決して気のせいではないようだった。その証拠に、僕を追って来ているであろう男達の足音がどんどん遠ざかっている。
これなら、無事に逃げ切れそうだ!
……そう、安堵の笑みを浮かべた瞬間だった。
「オオオオォォーーン!!!!」
鼓膜を破らんばかりの雄叫びが、真後ろから突き刺さる。
思わず振り返ってみると――なんとあの巨大な犬が、男達を蹴散らしながらこちらに向かって来ているじゃないか! その獰猛な目はまっすぐ僕へと向いている。
もしかしてあの犬、僕を追ってきているの? 巨大生物じゃない――普通だったら攻撃対象外であるはずの、人間なのに!?
その途端、全神経が研ぎ澄まされるような感覚に陥った。
獣が地を駆けてくる音が。荒い息遣いが。野生の獣独特の臭いが香ってくる。あの犬が、自分に近づいて来るのを全身で察知してしまう……!
「い……いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだ……!」
いつの間にか僕は、恐怖に心が支配されていた。
グリップを握る手が、そしてペダルを漕ぐ足がガタガタと震えている。
そ、そうだ……! 次の角を曲がろう!
あそこの細い道に入れば、図体のでかい犬は入って来られないはず!
視界の端に、獣の太い脚が見えるのに気付かないフリをしながら、僕は一人頷く。
……が!
「ガアアアァァッッ!」
あああああああもう駄目ええええ!
犬が! 犬が、飛びかかってきたあああああああ!
と、僕が諦めかけた――その時。
『――そうはさせぬぞ』
辺り一帯に白い閃光が走った。
同時に、体全体が大きな力に吹き飛ばされて――!
「っつぅ……!?」
転倒するか否かのギリギリのタイミングでブレーキを掛けると、僕はすぐさま、犬が居たであろう方に振り向く。
なんとそこには、僕をパックリ頂く一秒前だったはずの犬がぶっ倒れていた。
……え? なんでコイツはやられてるの? それに、今の声は……?
『情けない奴だな。自分の身くらい自分で守れんのか』
驚くほど冷淡な声が脳内で反響する。まるで、頭の中を犯されるような感覚……。
この声は、どこから掛けられているんだろう?
確かめるように顔を上げると、そこには――
『なんだ、その顔は? この間抜け面め』
純白のドレスを身に纏った花嫁が、自転車の上に立っていた。