11月15日
■十一月十五日
「柚彦……!」
目覚めると、母さんの顔が視界いっぱいに広がっていた。
「……は? 母さん……?」
頭が痛い。ぼんやりする思考を正常に戻すように、私は髪の毛をかき上げた。
それからゆっくりと周囲を見渡す。
そこには人、人、人。大勢の人が敷き詰め合っていた。元々狭い部屋だったようだが、私が寝っ転がっているせいで更に狭苦しくなっているらしい。皆が不満そうにこちらを見ていた。
「……待て、ここはどこだ? 何故人間がこんなに……?」
「ツインタワーの中よ。リコさんが貴方を連れてきてくれたの」
私の疑問に、母さんは間髪入れずに答える。
母さんの視線の先を見やると、そこにはリコリス・トルケマダが憂鬱そうな表情で立っていた。形見のつもりなのだろうか。手にはコルチカムが使用していた司教用の杖が握られている。
それはいい。彼女が無事なのは実に喜ばしいことだ。
だが――肝心の椿は何処に居るのだ?
「おい、貴様。椿はどうした」
「…………」
リコリスは答えない。
杖を弄ぶように握り直しながら、気まずそうに目を逸らす。
「答えろリコリス! 何故私だけを連れてきた!?」
「……その方が、簡単にカタが付くからよ。それくらいアンタも分かるでしょ?」
その一言は、反論のしようもないくらい正しいもので。
「……くそっ!」
だがこんな展開、認めてなどいない!
私はガラス張りの床に拳を落とすと、すぐさま立ち上がった。
「ちょっと! どこに行くつもり!?」
「もちろん、椿の元へだ!」
エレベーターに向かって、私は一直線に歩いていく。前に立ち塞がる人を突き飛ばし、蹴り飛ばす。負傷している右足も腕も、怒りのあまり痛みすら感じなかった。
今は、椿との再会を妨害する全てのものが憎い。
「落ち着きなさいよ!」
あと一歩でエレベーターの呼び出しスイッチを押せるというところで、リコリスが腕を掴んできた。なんという怪力だろうか。たったそれだけのことで、腕の骨がぎしりとしなった。
「悪いけど、行かせないわ。少なくとも蠱毒が終わるまでは!」
「いいから離せ! 私は早く、あいつのところに行かねばなら――」
私がそう言いかけた瞬間であった。
青い光が、街全体を包むように広がった。
この現象……前にも見たことがある。
そう、あれは蠱毒に付属されていた術が解除された時のことだった。あの時も、視界を犯すように青い光がどこからか飛んできたのだ。
と、いうことは――
「見て! 壁が!」
誰かの言葉に、私は慌てて窓際に駆け寄った。
……なんてことだろう。
朝焼けの中、それまで市をドーム状に囲っていたあの壁が、ぽろぽろと崩れているではないか。それはまるで、氷の板が太陽の熱で溶かされるように静かで、そして厳かだった。
「綺麗……」
それまでの戦いなど嘘だったかのように、誰かがうっとりとつぶやく。
その時私の目には、壁の割れ目から蟲達の幻影が飛び出していくのが見えた気がした。
太陽の光に照らされ、黒い外殻を輝かせる巨大ムカデ。ロック鳥の如き大きさを誇るカラス。虹色の鱗を持つヘビに、氷のように鋭く透明な牙をもつワニ。その周りで小刻みに飛んでいるのは、愛らしい蝙蝠の群れだった。そして北欧神話のフェンリルのように猛々しく歩む栗色の犬は、ドロセラだろうか。その横では秋丁字と茉莉が優しい笑みを浮かべて寄り添っている。
どれもこれも、限りある生を全うした……美しいもの達ばかりであった。
――そして。
最後に白い蛾が、ふわりと飛び上がる。
不思議なことに、彼女は何かに迷っているようにフラフラと蛇行していた。
他の者は壁の外を目指して一直線に飛んでいるのに、彼女だけは壁の間際で行ったり来たりを繰り返している。その度に、薄緑色の羽根から銀色の鱗粉がキラキラと舞っていた。
……もしかして彼女は、私を捜しているのではないだろうか。
私を捜して、飛んでいるのではないだろうか。
「椿!」
その瞬間、私は腕を虚空へ伸ばしていた。
この手が届けば、彼女は私の元へ帰って来てくれるかもしれない。私に気付いてくれるかもしれない。
――これからもずっと、私の傍に居てくれるかもしれない!
だが、私の手が彼女に届くその前に――
白い影は、朝日に溶け込むように消えてしまったのだった……。




