11月14日・午後……5
彼女が逆手に持った杖は華奢な体を貫通し、微かな血を白い肌に滑らせる。
どこからどう見ても、それは致命傷だった。
「は……? ちょ……な、何して……?」
コルちゃんの驚愕に見開かれた目から、それが彼女自身の意志で行われたことだとはっきり分かった。
ということは、彼女は自害したのだ。
ただし、コルちゃんが手を触れたままの杖を使って……。
「あなた、お話長いんですよ。すっごく退屈しちゃいました」
「な、何やってるんスか!? こ……こんなこと俺は命令してないっスよ! こ、これじゃあ……!」
「うん、私はあなたに吸収されちゃいますねー」
何でもないことのように、茉莉は頷く。
そんなことを話している間にも、茉莉の体は霞のように消え始めていた。そして同時に、コルちゃんの体は白い輝きに包まれて……。
どうやら茉莉は、「コルちゃんに殺された」と蠱毒の術に認識されてしまったらしい。吸収の儀式が始まっていた。
「さよーなら。頭の悪い、研究者気取りのおじさん」
「はっ……!? ちょ、なっ……!」
コルちゃんが慌てて手を離すも、もう遅い。彼女は完全に、空気の中に溶け込んでしまった。
――となると、コルちゃんの中に『彼女』が移動したということで……。
「なんスか、これ……。俺、こんなつもりじゃないっスよ……。自分も実験体になるつもりなんて、これっぽっちも……!」
途端、コルちゃんは弾けるように振り返る。
「た、助けてください! オジョーサマ! 柚彦サン! 椿チャン、雪柳サン! この際もう、誰でもいいっス! 誰か俺を! 俺を助けて! 嫌だ、嫌っス! こんなところで死にたくない! こんな死に方なんて嫌だ! 俺は……俺は、もっとやりたいことがあるんス! もっと、もっと……!」
先ほどまでの余裕ぶった態度から一変。コルちゃんは発狂せんばかりの勢いで叫んでいた。
「ぐっ……嫌だ、オジョーサマ、助け……て、オジョーサマ、だって俺、あなたの部下じゃないっスか……オジョーサマ、見捨てないで。助けて。救って。オジョーサマ……オジョー……」
リコに子供のように縋りつくコルちゃん。
しかしリコも、どうしていいのか分からないんだろう。細い腕が、コルちゃんに触れるか触れないかというところで静止していた。
「あ……が、は、っ……!」
しかし、効果はすぐに表れ始めた。
うずくまるコルちゃんの背中で、何かがボコボコと動き出したのだ。その反応は背中だけに留まらず、腕、顔、脚、と次々と広がっていく。血管の中を通って、物体が行き来している。
身体の内側に、『何か』が居るんだ……。
「あ、あああ……あ、ああ……!」
コルちゃんの苦しみ方が、次第に大きくなっていく。まるで血液が沸騰してしまったかのように、全身の皮膚という皮膚が泡立っている。
そして――
「お・ま・た・せー……!」
次の瞬間。コルちゃんの背中をミシミシと突き破って、血塗れの少女が出てきた。
まるで、蛹が蝶へと羽化するように。綺麗にぱっくりと皮膚を引き裂いて。血しぶきを周囲にまき散らし。
「か、はっ……」
そしてコルちゃんは、断末魔を上げる暇もなくリコに覆いかぶさってしまう。まだ息があるのだろう。その体はぴくぴくと、冗談のように痙攣していた。
そのあまりにも残酷な光景に、リコはまともに喋ることすらできないようだった。口をパクパクと動かしながら、眼前に立ち塞がる茉莉を見上げている。
「ごめんなさいねー。あなたの大切な人は、私が食べちゃいましたー!」
ぐしゃりとコルちゃんの死体を蹴り飛ばしながら、茉莉はにっこりと微笑む。
「うふふ。こうして見ると、あなた達もとってもおいしそうですねー!」
そう言う茉莉の顔が、ぐにゃりと歪む。
……目が。目が、徐々に触覚のように盛り上がってきているのだ。
黒目がグリグリと動き回りながら、カタツムリの目のように長く長く変形してきている。顔面の皮膚ごと引っ張って、それは太い太い円柱と化していく。その伸び切った部分を、緑色の影が点滅するようにチラチラと動いていた。
まるで、ロイコクロリディウムに犯されたカタツムリのように。
「でも、私の方がもっともっとおいしそうでしょうー?」
と、彼女が満面の笑みを浮かべた時。
リコの腕の中で、コルちゃんが光となって消えてしまった。
元々そこに、誰も居なかったかのように……。
「――殺す!」
途端、リコが覚醒した。
リコは拳を握りしめると、弾けるような動きで茉莉へと突っ込んでいく。
「あっはは! あれあれ? どうして怒ってるんですかぁー?」
間一髪。茉莉は緩い動きでそれをかわす。
渾身の一撃を避けられて、リコは憤怒の表情で振り返った。
「ダメだよリコ! 殺したら寄生されちゃうよ!」
「半殺しなら平気でしょ!?」
慌てて傍に駆けよると、リコは吐き捨てるように言った。
「死なないギリギリまで痛めつけて、物理的に拘束する! 例え全身触手野郎でも、瀕死の重傷を負っていれば手も足も出ない!」
反撃とばかりに飛んできた触手の束を、リコはバックステップで避けた。
「その後はどうするつもりだ!?」
「もちろん、応援を呼ぶのよ!」
柚彦の問いに、リコは乱暴に答える。
「異端審問官の頭数が増えれば、封印の陣を使える! そうしたら、蠱毒も何もかもお仕舞よ!」
「その場合、最後の蟲はどうする!?」
「あのクソ蟲を正式に封印するまでお預けしてやんわよ! アンタ達の命も、何もかも!」
「……そういうことなら、話は早い」
リコの迷いのない言葉に、柚彦はふむと頷いた。
ついでにコルちゃんが残していった杖を拾いながら、
「分かった、協力しよう! 椿! これが最後の戦いだ!」
「うん!」
その瞬間、僕も柚彦も作戦に参加すべく飛び上がった。
しかし、本体を狙ったら一撃で殺してしまうかもしれない。僕達には、伸びてくる触手を切り返すことくらいしかできない。
「死ねえええええええ!」
全身に炎を纏いながら、リコが茉莉の腕をぐっと掴む。
そのままもぎ取ろうと力を入れるが――
「あれあれー? そんなことしたら私、出血多量で死んじゃいますよー?」
「なっ……!?」
その一言を聞いては手を出せない。リコは腹部を強打され、盛大に吹っ飛んで行った。
「ん? ちょっと手が少なくなっちゃいましたねー? ……えい!」
しかも触手は、切っても切っても無尽蔵に生えてくる。
完全に、こちらの消耗戦となっていた。
『……本当に、この作戦で良いのか?』
柚彦の心の声が聞こえてきたのも、そんなタイミングだった。
『例え力は弱くとも、あいつは蟲の半数を吸収しているんだぞ? 手加減をした攻撃なんかで体力を削り切れるとは到底思えん』
銀色の矢で次々と触手を追撃しながら、柚彦は冷静に考えている。
『ヘタをすると、こちらが先に力尽きるかもしれん。そうなったら、この蟲を止められる者なんて誰も居ない。蠱毒は終わり、被害は皿久米市の外にまで広がってしまう……』
僕に心を読まれていると気付いていないのだろうか。こちらの脳内を侵食してしまいそうな勢いで、柚彦は思考している。
『ならば……』
そこで一旦、柚彦の声は途切れる。
何故なら茉莉が、束ねた触手を思いっきり叩き付けてきたからだ。
「くっ……!」
瞬間、僕は全力で銀色の膜を展開した。
シールドを破られこそしなかったが、ビリビリと痺れるような感覚が全身に駆け巡る。確かにこれは、ずっと耐えられるほど弱くはない……!
柚彦は一体、どうするつもりなんだ!?
僕が主導となって自転車を動かしている間に、柚彦はふたたび意識の海へと潜っていく。
『ならば……誰かがあの蟲を殺した上で、自害すれば良いのではないか?』
……は?
『宿主が死ねば、寄生虫は死ぬ』
待って。
一体彼は、何を考えているの?
どうする、つもりなの?
『……そうだ。何故私は、こんな簡単なことに気付かなかったのだろう』
柚彦は笑っていた。心の中で、くすくすと楽しげに。
『これこそ、最高の償い方ではないか!』
「柚彦!」
僕の叫びと柚彦の声が重なった刹那、柚彦は自転車から飛び降りていた。
その手には、さっき拾っていたコルちゃんの杖が握られていて――
あれで、茉莉を串刺しにするつもりなんだ!
「だあああああああああ!!!!!」
柚彦の雄たけびが、随分遠くに聞こえる。
突然のことにリコは、驚愕の表情で固まっていた。
そしてその横で、茉莉は……
「いいですよ、来てください。全部受け入れてあげますから……」
穏やかな笑みを浮かべ、両腕を広げていた。
このままじゃ、さっきみたいに柚彦が茉莉を吸収して……それで……。
それで、死ぬ。
「させない……!」
させてたまるものか! 柚彦に、そんなことをさせちゃいけないんだ!
そう願った瞬間、体が勝手に動いていた。
次に僕の視界に入ったのは、こんな光景だった。
僕が大きく展開したシールドに弾かれて、柚彦が道路に吹っ飛ばされているところ。
そして茉莉が、銀色の巨大な矢に貫かれているところだ。
「……あれ? 今度はおねーちゃんが私を受け入れてくれるんですかー……?」
自分の身に何が起こったのか理解したんだろう。茉莉は不思議そうに小首を傾げていた。
形のいい唇の隙間から、息を付く度に血の塊がごぽりと溢れ出てくる。
「嬉しい、なぁ……。おねーちゃんの中は、どんな感じなんでしょうか? どん、な……」
夢見るような瞳をこちらに向けたまま、茉莉は幻のように掻き消えてしまう。
そしてそれに呼応するように、僕の体が白く光っている。
茉莉の力が、僕の体の中を循環しているんだ……。
「う、ぐぅ……っ!」
認識した途端、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
空を飛んでいることすら維持できないほどの苦痛に、僕はふらふらと地上に降り立つ。
「おい貴様! なんで勝手なことをした!?」
するとそこには、杖を片手に歩み寄る柚彦とリコの姿があって……。
「……ごめんね」
僕は道路にうずくまると、ヘラッと微笑んだ。
「君が死ぬところを、黙って見ていることなんてできなかったよ」
「だからって、なんで……!」
「だって僕、君のことが大好きだから」
そう告げると、柚彦は傷ついたふうに目を見開く。
「……ねぇ。少しだけ話、聞いてくれるかな?」
「なんだ……?」
柚彦は、今にも泣きそうな声で答えた。
「僕ね、あれからずっと考えていたんだ。どうして僕は、君のことが好きなんだろうって……」
涙が溢れ出そうな柚彦の目を見ながら、僕はつぶやく。
「……それはもう、私が言ってやっただろう。貴様は間違いなく私に惚れていると」
「そうじゃなくて。記憶喪失になって全てを忘れた僕は、君のどこを好ましく思ったのかってこと」
僕は胸を抑える。体の中心で、何かが蠢いているような気がして。
「最初はね、君じゃなくて自転車の方が気になっていたんだ。自転車に話しかけちゃうくらい、自転車のことが好きだった」
「……ああ、覚えている。貴様という奴は、白昼堂々、自転車に対しブツブツと声を掛けていたな。あと、自転車を撫でまわす手が妙に艶めかしくて気持ち悪かった」
「やっぱり、あの時から柚彦は僕の声を聞いていたんだね。だったらもっと、早く出てきてくれれば良かったのに」
容赦ない言葉の数々につい笑みがこぼれる。が、それもすぐ苦痛で歪んでしまう。
「でも、そんな自転車から君が現れたでしょう? だから本当は、自転車じゃなくて君のことを気にしていたんだって分かって。けど君、すっごく性格悪かったじゃない。悪口を言うならまだしも、口すら利いてくれなかった」
「貴様を誤解していたんだ。その時のことはすでに謝ったであろう」
当時のことを思い出してくれているのかな。言葉とは裏腹に、柚彦の目が悲しそうに歪む。
「でも、そこからだよね。君が色々な表情を見せてくれるようになったのは。一緒に行動するようになって、少しずつ君のことを知って、理解して……そして、笑ってくれて」
言いながら、柚彦との思い出が脳裏に浮かんでくる。
時間にしてたった一週間の記憶だけど、それは僕にとって大切なものだった。
「そうしたら、自然に愛おしくなったんだ。君に、恋してたんだ」
柚彦は何も言わない。ただ目を伏せているだけだ。
「秋丁字に、昆虫が人間を好きになれるはずがないって言われた時、柚彦は否定してくれたよね。僕が自分の意志で君を好きになったんだって、君自身が認めてくれたから……僕の気持ちが偽物なんかじゃないって言ってくれたから……僕は、すごく嬉しかったんだ」
「……貴様は、馬鹿なのか?」
また柚彦は、くしゃっと顔を歪ませる。
「そんなこと、今さら言って何になる? 貴様はこれから死ぬつもりなのだろう? そんな輩の気持ちを伝えられる、こちらの身にもなってみろ」
「ああ、そっか……ごめんね……」
柚彦はすでに、僕がどうするつもりなのか分かっているんだ。
だからこんなにも、別れを惜しんでくれる。
「しかし貴様は、本当に単純な奴だな。ただ拾ってやっただけで好意を寄せ、ただ一緒に過ごしてやっただけで献身的に守ろうとし、しかも身代わりにまでなろうとする。馬鹿でお手軽で、考えなしのお人好しだ。貴様のような愚かな者を、私は未だかつて見たことがない」
「はは、それは言い過ぎだよ柚彦……」
「……だが私は、そんな貴様が好きだ」
僕の目をまっすぐ見据えながら、柚彦は言い切った。
「好きなんだよ……」
柚彦はそのまま僕を引き寄せると、強く抱きしめてくる。
……温かい。
柚彦の心臓の音がドクドクと聞こえる。柚彦の体の震えが伝わってくる。柚彦の小さな嗚咽が鼓膜に響く。僕の体を包み込む腕が、痛いくらい締め付けてくる。頬に当たる、柚彦の柔らかな髪の感触が気持ちいい。
皮膚の内側を蠢く何かを忘れられるくらい、それはそれは幸福な時間だった。
ずっとずっと、このままで居たい。
――ずっと、柚彦の傍に居たい。
だが、その静寂を破ったのは柚彦本人だった。
「……私も、器の中に残ろう」
「は!? 何言ってんのよ、アンタ!」
柚彦の言葉に、最初に反応を示したのはリコだ。
「椿がなんで庇ったか分からないの!? アンタの身代わりになるためでしょ!? そのアンタが残ったら、意味ないじゃない!」
「そうだな」
何でもないことのように、柚彦は頷く。
「だが私はこやつの主だ。そして半身だ。この器の中、魂を共有して生きてきたんだ。ならば命の共有もするべきであろう?」
柚彦の決意は固いようだった。リコがどれだけ喚こうとも、あっさりと拒否してしまう。
……違う。
確かに僕は、柚彦とずっと一緒に居たいと願った。いつまでも好きな人と一緒にいれたらいいと、夢にまで見た。
でもそれは、こんな悲しい形じゃなくて――
「っ……!?」
気が付いたら僕は、柚彦の側頭部に銀色の閃光を叩きつけていた。
もちろんその閃光自体に、命を奪うような危険性はない。ただ、意識を遠のかせる類のものだ。
「き、貴様……何、を……」
「ごめんね、柚彦。残念ながら僕は、君が思っている以上に自己中なんだ。欲深いんだ」
倒れゆく柚彦から目を離さずに、僕は告げる。
「好きな人には、生きていて欲しいと願うくらいには」
「この……馬鹿、者……が……!」
その恨み言を最後に、柚彦はぱたりと地に付してしまった。
そんな柚彦の腕を、リコが乱暴に引き上げる。
「……後は任せて。すぐに避難するわ」
リコは軽々と柚彦の体を抱えると、僕に振り返った。
いつの間に回収したんだろう。もう片方の腕で気絶した雪柳を支えていた。
「うん、よろしく。多分……あまり長く、持たないと思うから……なるべく早くお願いね……」
「……ええ」
こくりと頷くと、リコはすぐに走り去ってしまう。
車の上に飛び乗り、ビルの壁を駆け上がり。そしてビルの間をピョンピョンと飛んでいく。彼女達がツインタワーへ到着するのは、おそらくすぐのことだろう。
小さくなっていく背中を眺めながら、僕はため息を付いた。
「……ははっ。まさか、こんな終わり方をするなんて思わなかったなぁ……」
暴れ出す皮膚を抑えながら、僕は一人、へらへらと笑っていた。
ちょっと柚彦と喋りすぎたかな。困ったことに眼前が、まるで靄に包まれているかのように霞んできている。
でも……意識はまだ、はっきりとしている。自分が何をするべきなのかも、しっかり理解しているつもりだ。
「やらなきゃ、ね……」
震える腕を持ち上げると、僕は手の内に銀色の刃を作り出した。
それをピタリと首筋に当てると、自然とあの時の記憶が蘇ってくる。
あなたの願いなら、どんなことでも叶えて御覧にみせましょう。
血も肉も、魂さえも、この身の全てをあなたに捧げます。
さぁ、何なりとお命じ下さい。
そうだ。暗い暗い籠の中で、僕は柚彦にそう誓ったんだ。
彼のためなら何でもしようと、心に決めたんだ。
……だったら。
「どんな形でもいい。君の願い、叶えられたらいいな……」
――そうして。
僕は思いっきり、腕を引いたのだった。




