11月13日……3
夜。ついに、皿久米市民の命運を託された作戦が実行に移された。
『異端審問官第一部隊、連絡通路まであと二十階』
耳に付けたイヤホンから、雪柳の淡々とした声が流れてくる。
それを一言も聞き漏らさないように耳をそばだてながら、僕と柚彦はその場にしゃがみ込んでいた。
場所はツインタワー近くの、高層ビル屋上。
連絡通路の裏側に寄生するオオスズメバチの巣を眺めながら、僕はごくりと唾を飲み込んだ。
「いいこと? 女王蜂との戦闘は、アタシ達別働隊が連絡口に辿り着いてから始めるわよ」
頭の中では、先ほどまでしていたリコとの作戦会議が思い出されていた。
「幸い、オオスズメバチは手袋に対する耐性が無い。だからこれを利用して、アタシ達はツインタワーを経由し巣に近づくわ。その間、柚彦と椿は近くのビルの屋上で待機」
『異端審問官第一部隊、連絡通路まであと十階』
一定時間ごとに、雪柳の声で作戦の進行状況が告げられる。
暗闇のせいでまったく見えないが、今まさに、リコ達が非常階段を登っているのだろう。イヤホンの奥の方で微かな足音が響いていた。
「悪いけど今日は、あの高校を囮として使わせてもらうわ。働き蜂の大半を皿久米高校に引き寄せて、その間に手薄になっている本体を叩く……これが一番合理的よね」
『異端審問官第一部隊、連絡通路に侵入……!』
切迫した雪柳の声。それと同時に、僕はゆっくりと立ち上がった。手袋で自転車に触れているのを確認しながら、ペダルに足を掛ける。
「……作戦、開始だね」
『ああ。任せたぞ、椿』
このまま何事も無ければ、僕達の仕事は一つだけだ。
リコが術具を仕掛けて、燻り出してくれた女王蜂に軽ーくトドメを差せばいい。
この作戦は、リコが巣に近づかなければならないという欠点があるけれど、戦いを極力避けれる上に柚彦が確実に成長できるという利点がある。
でも、そこに何者かが邪魔に入れば話は別で――
「ガアアアアアアア!!!!」
それは、その場に居る誰もが予感していたことだった。
本能丸出しの獣の咆哮。
鼓膜を突き破りそうな、鋭い破壊音。
そして、連絡口付近からもくもくと立ち上がる黒い煙。
この三つが意味するのは――
『ドロセラです! 異端審問官第一部隊が攻撃を受けました!』
『来たか……!』
顔を見合わせると、僕達はすぐにビルから飛び立った。ネオンも魔法陣もない暗い空の下、ツインタワーの明かりだけを頼りに進んでいく。
「雪柳、今はどんな状況か分かる!?」
『すみません。黒煙が酷くて、こちらからも何がなんだか……!』
雪柳の現在位置は知らないが、少なくとも攻撃に巻き込まれるような場所には居ないらしい。
『もう少し、近づいてみるか』
「うん……!」
ぐっとグリップを握り締め、スピードを上げる。
するとまず、オオスズメバチが連絡通路にわらわらと集まっているのが見えた。警戒態勢で留まっているところを見ると、リコ達はまだ発見されていないらしい。そいつらに触れないように、ぐるりとタワーを旋回する。
その先に居たのは――
「ぐっ……! は、ぁ、ああ……リコ、お嬢、様……!」
あまりにも衝撃的な光景に、思わずブレーキを掛けてしまった。
確かにそこに居たのはドロセラだった。亜麻色のツヤツヤとした毛並みの、大きな獣。
しかしそんな彼女の口の中に、憐れな異端審問官が一人入っていたのだ。ドロセラは恍惚に目を細めながら、そいつをするすると飲み込んでいく。
「で……でかすぎるだろ……」
そう。人間程度だったら咀嚼する必要もないくらい、ドロセラは成長していた。
一昨日に会った時より一回りも二回りも。下手をしたら、一軒家なんて軽く潰せそうな大きさになっている。
「こそこそ手袋の裏に隠れてるなんて、情けない人達ですね」
その後ろ。ドロセラの首輪に足を挟むように座っているのは、秋丁字琢磨だった。もちろん、手袋を元にした装飾品を付けているせいでオオスズメバチにはスルーされている。
秋丁字は、顔面蒼白になっているリコ達をジロリと見やると、
「ドロセラ、ブレス」
「はいなの!」
瞬間、ドロセラの口から吹雪が噴き出てきた。
「ちょっ……! 全員、防御!」
まさかの飛び道具に、異端審問官は回避する余裕もない。
全員、手袋を付けている方の手を掲げシールドを展開するが――
「げっ……!?」
なんとその手袋は、ブレスに当たった途端パリパリに凍ってしまった。
それはすぐに、空中で砕け散ってしまい――
「えっ……ちょ、え? は!?」
まさかの展開に、リコも挙動不審に声を上げることしかできない。
「黒煙の中に敵影発見。直ちに排除します」
「排除します!」
その途端、オオスズメバチの群れが反応し出した。
それまで手袋のせいで状況が把握できなかったが、今、はっきりと標的が現れたのだ。手を出さないはずがない。
「追撃です、ドロセラ」
「りょうかい!」
しかもそれにプラスして、ドロセラまで猛攻を仕掛けようとしている。
「はああああ!? ざけんじゃないわよおおお!」
……まずい! このまま見守っていたら、全滅する!
『行くぞ、椿!』
「うん!」
瞬間、僕達の心は一つだった。
「やめろ、秋丁字!」
群がっているオオスズメバチを弾き飛ばし、勢いのままにドロセラの背後へと回り込む。
すると――
「やぁ! そう呼んでくれるのは久しぶりですね、夏見君」
ぐりんっと首がもげそうな勢いで、秋丁字が振り返る。
「自分の罪を、思い出したんですか?」
「……ああ、思い出したよ。僕は、柚彦を守るためにここに居るんだってことを!」
ドロセラの噛みつきを前輪で受け流しながら、僕ははっきりと答える。
「あっははは! 錯乱してるのですか、夏見君? 『柚彦』は君の名前でしょう?」
『愉快そうなところ悪いが、本物の夏見柚彦はこの私だ』
秋丁字の質問に割り込むように、柚彦が答える。
『器が変わっていたから、貴様も気付かなかったようだな』
「……なん、ですって?」
さすがにそこまで言われれば理解できたらしい。信じられない、と言いたげに秋丁字は目を見開く。
『秋丁字。貴様が何を喚こうが関係ない。私は私で、自分の罪と向きあうよ』
「…………」
途端、攻撃の手が止まった。
戦闘中だということを忘れてしまいそうなくらい、秋丁字は静かに柚彦を見下ろしている。その後ろでは、働き蜂と異端審問官が凄まじい攻防を繰り広げているにも関わらず。
――だが、それも一瞬。
「はは、はははははは、ははっ!」
何を思ったのか、秋丁字は高笑いを上げ出した。
お腹を押さえ、目の端から涙を流しながら、ゲラゲラゲラゲラ。まるで、狂ってしまったかのように。
「ふふっ……はは、あぁ……そう。自分の罪と向き合う、ですか……そうですよね。異端審問官と共闘している時点で、周囲には許されているんですもんね……あっははははは!」
『……何が言いたい?』
「ははははっ……ねぇ、何故なのでしょうか?」
片手で涙を拭いながら、秋丁字は問いかけてくる。
「何故貴方達だけ、そんなに幸せそうなんです!?」
魂を絞りだすような秋丁字の叫び。
それと同時に、ドロセラも――!
「ガアアアアアア!!!!」
瞬間、咆哮が衝撃破となって襲いかかってくる!
「ぐぅっ……重っ!」
『手を放すんじゃないぞ!』
その威力に、僕も柚彦も――その場に居る全ての者が、宙に投げ出されてしまう。
『いけない! ドロセラがオオスズメバチの巣に向かっています!』
耳元で、雪柳の注意が聞こえた時にはもう遅かった。
ドロセラはオオスズメバチを蹴散らしながら、連絡通路の上を器用に走っていて――!
「まずい! 柚彦、矢を!」
『分かってる!』
慌ててこちらも銀の矢でけん制するが、それも簡単に弾かれてしまう。
オオスズメバチも、退魔の手袋のせいでドロセラの存在に気付けていない。
彼女の行く手を遮るものなんて何もないのだ……!
「くっ……! させない!」
秋丁字の笑い声を追い掛けるように、僕は再度ペダルを漕ぎ始めた。
『早く! ドロセラを巣に近づけないで!』
そんな中、雪柳は必死に僕達にアドバイスしてくれていた。走っているのか、荒い息の後ろでカンカンと足音が鳴り響いている。
『あれだけ巣が大きくなっているのなら、女王蜂は羽根も脚も擦り切れてボロボロのはずです! 巣から飛び立って逃げることなんてできません! だから、ドロセラに巣を潰されたら一巻の終わりですよ!』
「そんなもん、知ってんわよ!」
吐き捨てるような叫び声。
振り向くと、リコが槍を蔓状に変化させながら、ターザンの要領でドロセラとの距離を詰めていた。
――ドロセラが巣に届くまで後、三歩。
「第三刑罰……」
リコが、すでに手袋のない手で印を組み――放つ!
「緩やかな壁!」
その刹那、炎の渦がドロセラの背を目掛けて飛んでいく。
――ドロセラが巣に届くまで後、二歩。
「邪魔をするな!」
しかしそれも、秋丁字が片手で吹き消してしまう。
その手には、焼け焦げた黒い手袋がはめられていて――
「はあぁ!? 退魔の手袋ですって!?」
「首に付けてるのだけじゃなかったのか……!」
――ドロセラが巣に届くまで後、一歩。
「くっ……このままじゃ!」
そう、誰もが諦めかけた――その時だ。
「ギャアアアアアアアア!」
ドロセラが、耳を劈くような悲鳴を上げていた。
何かと思ったら、ドロセラの真正面から誰かがライトを当てているのだ。ツインタワーに設置されている、あの強力なライトを……!
あんなものを至近距離から当てられたらたまったものじゃないだろう。目を潰されて、ドロセラは完全に無防備になっていた。
――狙うなら、今しかない!
ブレーキを掛けようとしていた指を外し――そのまま体当たりをぶちかます!
前輪に圧し掛かる、重い感触。
それでも踏み留まろうとする獣に、今度は柚彦が腕を振りかざす。
『いいから……落ちろ!』
柚彦が繰り出したのは、最大出力で張った銀の膜だった。
その圧力に、ドロセラは容易に押し出されてしまう……!
同時に彼女の身を守っていた退魔の手袋も、銀色の炎で燃え尽きてしまった。
――そうして。
ドロセラは背に秋丁字を乗せたまま、地上へ墜落してしまったのだった。
「はぁ、はぁ……はぁ……や、やったよ柚彦……!」
『ああ……!』
傷こそ負わせられなかったが、これで時間稼ぎにはなる……!
『大丈夫ですか、皆さん!』
そんな時、イヤホンから雪柳の声が流れてきた。
『私も一緒に戦います! だから……諦めないでください!』
なんと、先ほどのライトは雪柳の援護だったらしい。いつの間にか、逆のタワーに侵入していたのか!
「っしゃあ! 行くわよアンタ達!」
そこからはもう、異端審問官達のターンだった。
リコが当初の予定通りオオスズメバチの巣に特攻するのを見て、僕は慌てて手袋を脱いだ。オオスズメバチは全て僕達に引き付ける!
「術具、セット完了よ!」
働き蜂相手に僕達が奮闘していると、リコが声を高らかに上げる。
「よし、発動っス!」
それに合わせて、異端審問官が一斉に槍を振り上げる。
すると、鏡から聖なる光が溢れ出してきて……!
「ギャアアアアア!」
甲高い女の悲鳴が、巣の中心から聞こえてくる。
……女王だ。
巣を突き破り、ついに女王蜂がその姿を現したのだ……!
雪柳の言っていた通り、女王蜂は羽根も手足も擦り切れて半分ほどしか残っていなかった。だがその胴体と顔は、昆虫でありながらも女王の名に相応しく絢爛豪華な魅力に満ち満ちている。
女王はすでに息も絶え絶えのようだった。全身をぴくぴくと痙攣させながら、喘ぐように半分しか無い手を上空へと伸ばしていた。
「……よし!」
僕はすぐさま、手袋を付け直して飛び立った。作戦通り、ここで柚彦がトドメを差さないと意味がない!
そのついでに、ちらりと地面に墜落したままのドロセラを見やる。彼女は今、よろよろと起きあがったところだった。この距離では到底間に合うとは思えない。
……勝ちだ。
ついに僕達は、蠱毒を制することができるんだ!
――そう、勝利を確信した瞬間だった。
女王の頭部が、破裂した。
「……は?」
今まさに女王に弓引こうとしていただけに、その衝撃は大きかった。
異端審問官が、何か言いたげに振り向いてくる。だが僕は、ぶんぶんとかぶりを振ることしかできない。
違う。僕達は何もしていない……!
「諸君、私を忘れてもらっては困りますよ」
嘲笑するような声が飛んでくる。
見れば連絡通路の反対側で、秋丁字がにやにやと腕を組んで立っていた。その骨ばった大きな手には、小石が二つほど握られている。
「私だって、今は『蟲』なのですから」
そう言い捨てると、秋丁字はドロセラの待つ地上へと飛び降りる。
周囲では、女王を失った巣やオオスズメバチ達が灰のように崩れ去っていた……。




