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11月8日……1

■十一月八日


「ここが皿久米市立、皿久米高校かぁ……」


 次の日。僕は、今まで通っていた高校に登校していた。

 不思議なことに、高校までの道のりは記憶に残っていた。周囲の景色を見るだけで、なんとなくどの方向に進めばいいのか分かるのだ。


「ええと、職員室は……」


 この後は、職員室に行って担任の先生に会えばいいんだよね。先生には電話で事情を説明しておいたから、スムーズに会話ができるはず――


 と、思ったら。


「もしかして、夏見君?」


 突然背後から掛けられた声に、心臓が止まりそうになった。

 振り返ってみると、そこには引きつった笑みを浮かべた女子生徒が立っていて。


「やっぱり夏見君だ。もう退院できたんだ?」

「え……あ、その……」


 ど、どうしよう。まさか生徒に話しかけられるなんて思わなかった。

 若干余所余所しいのが気になるけど……この感じ、やっぱり知り合いだよね? クラスメイトかな。それとも同じ部活の子かな? どちらにせよ全然覚えてない!


「うええぇ!? な、夏見が来てるの!?」

「マジだ、柚彦じゃん!」

「やだ、夏見君……!?」


 しかも最初の子の声に釣られて、ワラワラ人が集まってきたし!

 もちろん、誰も彼も見覚えのない人達ばかりだ……!


「夏見君、どうしたの?」

「やっぱり、怪我の具合が良くないの? それとも……」


 黙り込んでいる僕を、生徒達が不安そうに見上げてくる。

 今の話からすると、どうやら僕は怪我で欠席していたことになっているらしい。

 そうだよね。「夏見君は昏睡状態に陥っているので、いつ回復するか分かりません」なんて説明、先生も言い辛かっただろうし。

 でもみんな、僕を気にしてくれていたみたい。じゃあ、お礼の一つでも言わなくちゃ。


「みんな、心配してくれてありがとう。僕はもう大丈夫だよ!」


 これはもう、パーフェクトだよね。昨日の夜、ずっと鏡を見つめ続けて編み出した最上級の笑顔! これでこの人達も、僕のことを快く思ってくれるはず――

 だったんだけど。


「ど、どうしちゃったの夏見くん?」

「柚彦が笑った……お礼まで言ってくれた……!?」

「嘘だろ……ありえねぇ……」


 え……? 何? 何なの、この反応。

 みんなの困惑が、すごく伝わってくる……。


「あ! そ、それより夏見さ、夜間外出をして事故ったんだろ?」

「う、うん……そうだけど……?」

「勇気あるよなー! 俺だったら、『アレ』がウヨウヨいる中出歩けねーもん! マジ尊敬するって!」

「そうそう。しかも巡回してる自衛隊に捕まったら、停学どころじゃないらしいしね」

「まさか夏見君が、そんな大胆なことをするとは思わなかったよ」

「そ、そんな。そこまで言われるほどのことはしてないよ。なんだか恥ずかしいなぁ」


 そう答えた瞬間、また空気が凍りついた。


 ……おかしい。

 できる限り普通で、人として当たり前な回答をしただけなのに。

 この異様な雰囲気の原因が僕であるのは分かっている。だけど、どうしたらそれが解消されるのかはさっぱりだ。


 ――そんな時だった。


「夏見!? 来ていたのか!?」


 前方から、カツカツとヒールの音を立てて歩いてくる、スーツ姿の妙齢の女性。

 あの人は見覚えがある。昨日見た……入学式の時の写真に写っていた――僕の担任の、山吹(ヤマブキ)先生だ!


「せ、先生!? あなた、山吹先生ですよね!?」


 ようやく知っている顔に出会えて、思わず涙が出そうになった。

 一直線に駆け寄ってくれた先生の腕に、僕はついつい縋りついてしまう。


「夏見、私のことが分かるんだな!?」

「はい。先生の顔は、ちゃんと予習して来たんで……!」

「予習、か……じゃあ、覚えているわけじゃないんだね。しかしあんた、よくここまで辿り着けたね。今日くらい親御さんに送ってもらえば良かったのに」

「元の生活に慣れるために、なるべく一人で行動しようと思って……。母さんには猛反対されてしまいましたが」

「そりゃあそうでしょう。記憶がない人間をほっぽり出すなんて、普通はできっこないよ。あんたはもう少し、周りのことも考えな」

「う……す、すみません」

「……でも良かった。あんたのこと、みんな心配してたんだよ」


 山吹先生は顔を綻ばせると、僕の頭をぐりぐりと撫でてきた。その表情と仕草だけで、彼女がとてもいい人なのだと言うことが分かる。

 僕は感極まって、縋りつく腕に更に力を入れた。


「先生、ありがとうございます。僕、先生が担任で良かったです!」

「ちょ、ちょっと夏見。あんまりくっつくな……!」


 先生は頬を真っ赤に染めると、慌てて僕を引き剥がしに掛かる。

 ……なんで? ここはお互いに、しかと抱き合うべきシーンなんじゃないの!?


「ね、ねぇ、先生……。一体、何の話をしているの?」

「あ、ああ……あんた達。驚かせたみたいで悪いね」


 先生は罰が悪そうに頭を掻くと、生徒たちに向き直った。


「実は夏見は、事故のせいで記憶喪失になっているんだ。優しくしてやりな」

「え?」

「初めまして、夏見柚彦です。あ、初めましてじゃないのか……と、とにかく! 色々と迷惑掛けるかもしれないけど、よろしく!」

「えええええ!?」


   ◆◆◆


 そんなわけで山吹先生は、僕の記憶喪失についてみんなに説明してくれた。それを聞いた生徒達は、僕の変貌具合に納得したみたいだった。


 ――昨日、病院から脱走しかねない勢いで帰宅を希望した僕を、お医者さんはなぜか受け入れてくれた。

 それは、僕の身体に何も異常がなかったからだ。

 記憶喪失の件もちゃんと話したんだけど、原因がまったく分からないので病院側としては手の施しようがないらしい。何かがきっかけで戻ることもあるかもしれない……とは言っていたけど。

 だから僕も、今日から普通に生活を送ることになったんだ。

 ……でも。


「ど、どうしよう……」


 三時間目、数学。

 教科書を片手に授業に取り組む僕だが、早くも挫折しそうになっていた。


 全然分からないのだ。

 先生が口にする解説も、黒板や教科書に綴られている公式も、日本語ではない別の言語にしか思えない。

 だけど記憶喪失になる前の僕は、これらの内容を余裕で理解していたようだった。

 だって、教科書やノートの書き込み具合がハンパないもん。

 どう見ても真面目な人のノートでしょ、コレ。


「夏見君、大丈夫ですか?」


 うぐぐぐぐ……と一人で唸っていると、横からか細い声が聞こえてくる。

 振り返ると、隣の席の女子生徒が心配そうにこちらを覗き込んでいた。眼鏡を掛けた、知的そうな子だ。


「あ。そこの計算は、まず代入をするといいんですよ」

「ダイニュウ?」

「えっと……代入っていうのは、このaの部分にこちらの数字を当て嵌めることで……」

「へぇ、なるほど……」

「で、後は式の通りに計算すれば解けるはずです」

「ふ、ふ~ん……式の通り、ね……」


 困ったことに……女子生徒の親切な解説があっても、計算式は謎の暗号のままだった。


 記憶喪失になってからの僕は、何をするにしてもこんな感じだった。

 お医者さんが言うには、人間の記憶の中には陳述記憶と手続き的記憶と言うものがあるらしい。

 陳述記憶っていうのは、「数学をクラスメイトに教えてもらった」とか「母さんと世間話をした」とか……ざっくり言うと『思い出』だ。

 一方、手続き的記憶っていうのは「日本語の話し方」や「自転車の使い方」と言った、体が勝手に覚えている――生きていく上で必要な記憶だ。


 今の僕には、陳述記憶が一つもない。手続き的記憶も「言語」「一般常識」「学校までの道のり」は分かるが「数学の公式の解き方」「箸の使い方」は分からないという偏りっぷり。

 つまり、ほとんど覚えていない状態だと言っても過言じゃない。

 だから公式の解き方を教えてもらったとしても、僕には理解できないのであった。


 眉間に皺をよせながら問題と向き合ってる僕を、女子生徒は興味深そうに見守っている。

 し、しまった。せっかく親切にしてもらったのに、お礼を言ってないじゃないか!


「ありがとう。ええと……雪柳(ユキヤナギ)樹里(ジュリ)さん?」


 先生から貰った座席表を見ながら、呼び掛けてみる。


「呼び捨てでいいですよ。クラスメイトなんですから」

「じゃあ……雪柳?」

「はい、それでお願いします」


 僕に名前を呼ばれただけだと言うのに、雪柳は心底嬉しそうに微笑んだ。

 なんだか、独特な雰囲気をした子だな。僕には「呼び捨てでいい」とか言っておきながら、自分は敬語を使ってるし。


「あの……そういえば、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど……」


 ほんの少し、声のトーンを落として雪柳が聞いてくる。


「夏見君は、夜中に外出して事故に遭ったんですよね?」

「え? あ……そうだけど……?」


 突然の質問に、僕は曖昧に頷くことしかできない。


「実は私、毎日夜中に家を抜け出しているんですよ」


 一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。

 市で禁止されていることを堂々と宣言するなんて、この子は一体……。


「そうしたら昨日、不思議なものを見かけたんです。この話、興味ありません?」

「……なんで、僕にそんなことを言うの?」

「それは貴方が、夜間外出をしたことのある人間だからですよ。まぁ、貴方は記憶喪失ですから、外出した時のことなんて覚えてないかもしれませんが」


 そう言って雪柳は、試すような目で見つめてくる。


「どうですか?」


 いきなりそんな話をしてくる雪柳に、不信感を抱かなかったわけじゃない。

 だけど僕は、好奇心に打ち勝つことができず頷いてしまったのだった。


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