11月11日……3
「させない!」
寸でのところで犬と異端審問官の間に割り込む。
すでに後ろでは、椿が最大出力で矢を展開していた。
「柚彦!」
僕の咄嗟の行動に、リコは嬉しそうに声を上げている。
でも、そんなものに答えている暇は、僕には……ない!
「椿、一気に畳みかけるんだ!」
犬の顔面に叩きつけるように、椿は銀色の矢を何十本も連続で発射する。
これだけ至近距離で放てば、さすがにこの犬も黒焦げに――!
「いったいなぁ……!」
――と、思いきや、犬は爆煙の中から軽やかに躍り出てきた。
多少はダメージを受けているようだが、致命傷ではないらしい。背に乗った男も、ピンピンとした様子で呪を唱え続けていた。
「おまえもいっしょに、つぶれちゃえ!」
そして間髪いれずに、犬の体当たりがこちらに迫りくる。
「椿!」
『分かってる!』
ハンドルを大胆に切ると、椿は犬の突撃を受け止めるようにシールドを張ってくれる。
――だが、それも一瞬。
犬の体当たりを受けとめた瞬間、銀色の膜は弾けてしまった。
『くっ……!』
「かわいそー。ちょうつらそうじゃん」
再びこちらに迫りながら、犬はくすくすと笑っている。もちろん、その大きな口を開きながら――!
『危ない!』
その刹那、椿はまた銀色の膜を全力で張ってくれる。
だが、パワータイプの蟲の攻撃を真正面から受けとめられる程、椿は丈夫にできていないらしい。犬が一歩進むごとに、膜が静電気を発して歪むのが内側からでも分かった。
「おねーちゃん、なんだかほっそいねぇ。もしかして、ねんぴがわるいの? それとも、ちゃんとご主人様にごはんもらえてないの?」
『うる、さい……!』
犬は余裕を見せながら、じりじりとこちらに近寄ってくる。
……まずいな。
このままだと、あの時のように膜を破られてしまうかもしれない。
確かあの時は、膜を破られた直後に連続攻撃を繰り出されてしまったんだよな。そのせいで防御が間に合わなくて、一方的にやられてしまったんだ。
今回は、そうならないようにしないと――
そこまで一気に考えを巡らせてから、僕はある違和感に気付いた。
……『あの時』って、一体いつの話だ?
前に戦った時は、膜だけで十分この犬を圧倒できていたじゃないか。膜を破られたことなんて、一回も――
「アタシ達も居るってこと、忘れんじゃないわよ!」
椿が必死に攻撃を防いでいると、その後ろから異端審問官が躍りかかってきた。
直撃こそ避けたものの、犬と男はバランスを大きく崩してしまう。
「全員、総攻撃よ!」
「はっ!」
鬼神の如く暴れ回る犬を、捕獲せんと異端審問官達が連携を取りながら攻撃している。
……なんだ? 瞼の裏に、変な映像が見える。
瞬きをするたびにチカチカと、今と似た光景が映し出されてる。
◆◆◆
――煌びやかなネオンに照らされた街中を、柚彦は自転車で走っていた。
昼間だったら多くの歩行者で賑わっている大通りだが、今は禍々しい昆虫達がギチギチと顎を鳴らしながらひしめき合っている。中には柚彦の漕ぐ自転車にまで纏わりついてくるものまでいた。
「……邪魔だな」
それらを目の端で一瞥すると、柚彦は躊躇することなくペダルを踏み出した。
途端、人の頭と相違ない大きさの昆虫が、轢かれてぐしゃっとひしゃげてしまう。
その行為に、柚彦は嫌悪感も罪悪感も抱かない。そうするのが当たり前だと言わんばかりに、彼は自転車をこぎ続けていた。
◆◆◆
あ……まずい。
記憶が……記憶喪失になる直前の映像が。引き出しの奥底に仕舞ったはずの思い出が。
勝手に脳内に流れ出てきている……!
◆◆◆
――「どこまで逃げるつもりなんですか?」
突如掛けられた声に柚彦が振り返ると、ビルのベランダに茶色い大きな獣が佇んでいた。
それを見た柚彦は、一瞬獣が話しかけているのかと思ったようだが、違った。正しくはその獣に騎乗している男が話しかけているのだ。
顔半分を覆い隠すマスクを付けた……怪しげな男が。
◆◆◆
……そう、そうだよ。
僕はこの無差別暴行犯である男に襲われて、怪我を負って入院した。そして記憶喪失になった。
ただ、それだけのことなんだ。
だからこの先を、思い出す必要は――
◆◆◆
――「その趣味の悪いマスクはどうした? オペラ座の怪人の真似事か?」
「残念ながらそのような趣味はありません。これは、悪い方から隠れるための魔法みたいなものでして」
その男は柚彦を小馬鹿にするように笑う。
「それより、覚悟はできておりますか? 貴方は、襲われるだけの理由があるんです」
男の静かなつぶやきと同時に、パチンッと指が高らかに鳴る。
刹那、化け物としか言いようのない獣がこちらに向かって飛びかかって来ていた。
柚彦は、逃げ場を求めて視線を泳がせる。
◆◆◆
「夏見君。余所見なんて余裕ですね?」
記憶と現実で、声が重なる。
はっと瞬きをすると、また眼前で白い閃光が走った。
どうやらまた、突進してきた犬を椿が防いでくれたらしい。
『……しっかり、しろ。今は戦闘中だ……!』
「ご、ごめん椿……!」
弱弱しい椿の声が、心に突き刺さる。
そ……そうだ。これ以上椿に負担を掛けちゃいけない……!
自然と、グリップを握る手に力がこもる。
「ははっ。懐かしいですね、この感じ……!」
すぐに方向転換すると、犬が異端審問官を蹴散らしながら、こちらに向かってくるのが見えた。
その犬の上で、男は何故か笑っていた。
もう呪文は必要ないのだろうか? その口は呪を刻んでいないのに、地面では魔法陣が強い光を発している。
「そうでした。確かあの時も、この蟲が突然現れてシールドを張ってきましたね。あの夜の再現ですか……それも楽しそうです」
◆◆◆
――「……え?」
おそらく、柚彦自身には何が起こったのか理解できなかったのだろう。
だって視線を外した瞬間に、自分に飛びかかってきていたはずの獣が弾き飛ばされていて。
そしてそれを成し遂げたのは、自身を覆っている謎の銀色の膜で……。
◆◆◆
男のせいで、記憶が洪水のように流れ出てくる。
なんだよこの映像。今の状況と似ているはずなのに、どこかが違う。
致命的な点が、違う……!
『くっ……! どけっ!』
「だめだめー、そんなのドロセラにはあたらないよっ!」
椿の必死の追撃も、犬は間一髪のところで避けてしまう。
異端審問官のサポートは期待できない。ここまで僕とこの犬が接近していると、攻撃に巻き込んでしまう恐れがあるからだ。
その間も、男はぶつぶつと陰湿につぶやいている。
「あの夜も、貴方は私から逃げようとしていた。自分の犯した罪から逃れようとしていた」
ああ、もう!
うるさい。うるさい。うるさい……!
男も。周りで戦っているみんなも。そして、勝手に浮かんでくる映像も!
全部うるさ――
◆◆◆
――『お待たせしました、我が主』
◆◆◆
瞬間。目の前が真っ白になった。
『……おい?』
椿が訝しげに振り返る。
真っ白な顔で振り返る。
『何をしている、貴様……』
椿の細長い手が、僕に向かって伸びてくる。
あ、駄目だ。
これは違う。
違う。
「柚彦! 一旦離れて! 攻撃ができない!」
「…………違う」
「柚彦!?」
……思い出してしまった。
分かってしまった。
自分が何をしたのか、それが全部理解できてしまった。
ひどい頭痛がする。頭の中がぐるぐるぐるぐると煩雑して止まらない。
僕は、なんて恐ろしいことを……。
ごめんなさい。違うんです。これは……僕は、こんなことをするはずじゃなかった。
「ふふっ……」
目の前では、男が気味の悪い笑みを浮かべていた。
本当だったら、犬に頭から丸飲みにされていてもおかしくない距離で。椿のシールドも簡単に破れそうな余力を残しているというのに。男も犬も、にやにやと僕を観察していた。
『貴様……まさか……』
椿も、僕がどんな状態に陥っているのか理解したんだろう。項垂れている僕を、唇を戦慄かせながら見下ろしている。
「だああああああああ、もう!!!!」
そんな一種の異様な空間に、リコが一人斬り込んできた。
「戦えないなら離れてなさいよ! 邪魔!」
リコはあえて犬ではなく、僕と椿に回し蹴りを喰らわせてくる。その程度の一撃なら、シールドで防げるはずだという算段なのだろう。
案の定。僕と椿はノックバックされて、ビルの端っこまで弾き飛ばされてしまった。
「そんでもって……アンタは死ねええええ!」
そのままリコは、犬に向かって大きく振りかぶる。
「パパになにするの!?」
そのままリコと犬は、戦いを続けているようだった。
でも僕には、それを見守る気力さえなかった。
「冷厳にして空虚なる者よ……」
どこからか、聞こえてくる歌声が耳に心地よい。
力強い声に顔を上げてみれば、そこではコルちゃんが必死の形相で呪文を唱えていた。
「繋げ、今こそ黄昏への扉は開かれん……!」
コルちゃんは、自分の言葉を結ぶようにきゅっと手を握る。
その瞬間、緑色の光がパーッと町中に広がった。
……呪文を、ようやく唱え終わったのか。
「オジョーサマ! 呪文の詠唱、完了っス!」
「よし! 朝には間に合ったわね!」
凄まじい槍捌きで犬の攻撃を受け流しながら、リコは声だけで答える。それを補助する異端審問官達の表情も、その時ばかりは安堵に緩んでいたように見えた。
でも、その喜びは一瞬しか持たなかった。
何故なら、地面に描かれていた魔法陣が……溶けるように消えていってしまったから。
昨日と同じ、青い光を放って。
ほろほろと崩れ落ちて。
「ちょ……な、なんでっスか……? まさか、作った呪文に欠陥が……!?」
魔法陣の崩壊に、さすがのコルちゃんも動揺を隠せないようだ。隣で補佐をしていた異端審問官からノートを奪い取ると、目を皿のようにして呪文を読みとっている。
「朝ですね……」
それに追い打ちを掛けるようにつぶやいたのは、あの男だった。
……本当だ、朝だ。
東の山奥から、太陽が顔を出している。
オレンジの光が、濁った色をした空に混じっている……。
『待て。これは……どういう、ことだ?』
「……え?」
何かがおかしいと気付いたのは、緊張に強張った椿の横顔を見上げた時だった。
それから、リコと組み合っているあの犬が、先ほどと変わらずに猛攻を続けているのを見た時。
そして、遠くでオオスズメバチが獲物を探して旋回しているのを見つけた時。
その時、その場に居る誰もが同じ疑問を抱いたことだろう。
……何故、朝なのに蟲が見えるんだ? と。
「今消えた魔法陣は、夜中限定で蠱毒を発動させるものですからね」
みんなの疑問に答えるように、男が言う。
「その魔法陣が消えた今、蟲が朝でも活動を続けているのは当然のことですよ」
「じゃあなんで、その魔法陣がいきなり消えたのよ……!」
犬の噛みつきを寸でのところで避けながら、リコが吼える。
「あの魔法陣が消えたのは、コルチカムの術が発動したタイミングだった。でも、あの特殊呪文におかしなところはなかったはず! アタシだって何度もチェックしたもの! ってことは、アンタの唱えていた呪のせいなんじゃ……!」
「それは関係ありませんよ。だって私には、異端の術を使う才もなければ知識もないのですから。説明書さえあれば、話は別ですけど」
「は、はぁ!?」
あっさりと告げられた事実に、リコは完全に混乱してしまったようだ。
バックステップで一旦犬との距離を取ると、噛みつくように声を荒げる。
「で……でも! アンタはさっき、確かに呪文を唱えていたじゃん! アンタに異端の才能が無いってんなら、アレはなんだったのよ!?」
「ああ。あれは単に、本の音読をしていただけですよ。ラスボスっぽい雰囲気、出てたでしょう?」
ぽいっと手にしていた本を投げ捨てながら、男は愉快そうに笑う。
「実はね。あの魔法陣は、蠱毒に関係する術を感知すると消去される仕掛けが施されてあったんですよ。元々、そういうふうに作ってもらったんです」
「……え?」
「可哀相に。異端審問官オリジナルの呪だったら、こんなことにはならなかったのに。どうせ、あの本に書かれた知識を組み込んで作ってしまったんでしょう?」
「あの本って……?」
「夏見家の車庫に置いてあった本ですよ。蠱毒の資料としては完璧だったでしょう?」
「あ……」
男の言葉に、コルちゃんは顔を強張らせて僕を見てくる。
「もちろん、その本を持ってきたのは夏見君ですね?」
その視線で全てを悟ったんだろう。男はますます嬉しそうに微笑む。
……なんだ、あの顔。まるで悪魔みたいじゃないか。
「正直言うとね。私個人としては、貴方達の作戦が成功しようがしまいが、どうでも良かったんですよ。だって成功したところで、あんなものでは数日しか持たなかったでしょうし。それに魔法陣が消えなかったとしても、人間からしたら絶望的な状況であるっていうのには代わりない」
「…………」
「でも、夏見君が蠱毒の書を持ってきたおかげで大変なことになってしまいましたね。朝から晩までぶっ通しで市民を守るのは不可能じゃないですか?」
悪魔が笑ってる。
にたにたと、嫌らしく笑ってる。
「良かったですね夏見君。貴方のせいで、みんな死ぬんですよ」
……いや、違った。
悪魔は僕の方か。




