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11月10日……5

 それから数十分後。

 僕達は車庫の中に入ろうとしていた。自宅の前に堂々とそびえ立つ、ぶ厚いコンクリートで作られた――あの車庫にだ。

 どうして、こんな密室に入り込もうとしているのかと言うと……


『おい。貴様、まだ脚が痛むのか?』

「……うん、ごめん……」


 それは、僕の体が限界に来ていたからだ。

 さすがに一般市民である僕じゃ、何時間も自転車をこぎ続けるのは不可能だったのだ。とりあえず、時間稼ぎの場としてここを利用させてもらうことになったんだけど……。


「椿はもう、大丈夫そうなの?」

『何がだ?』

「だって、すごく具合が悪そうだったじゃない。だから気になってて……」

『しつこいな。大丈夫だと言ったであろうに』


 椿の元気そうな返事に、思わず口元が緩んでしまう。

 そうそう。これがいつもの椿だよね。

 憎まれ口を叩く余裕があるのなら、その言葉の通り「大丈夫」なんだろう。


「でも……さ。もし、また調子が悪くなったら言ってね。僕、なんでもするから。自転車の掃除でも、タイヤの空気入れでも、君が望むことならなんでも」

『あのなぁ……貴様、馬鹿なのか? 今は他人の心配などしている場合ではないだろう?』


 そう言いながら、椿は僕の顔を覗き込むように身を乗り出す。


『いいから貴様は、ゆっくり休んでいろ』


 その時の衝撃を、僕は一生忘れることはできないだろう。


 ――椿が、笑ってる。


 呆れるように……でも、優しく微笑んで。

 僕に対して、こんな好意的な椿を見るのは初めてだ……! ど……どうしよう。嬉し過ぎて、理解が追い付かない!


『どうした? 変な顔をして』


 ぎ……ぎゃああああああ! 椿が、もっと近づいてくる! だ、ダメだ! これ以上近くに来られたら、脳みそが沸騰して垂れ流される! 飛び散る! 爆散する!


『おい……? 聞こえているのか?』

「き、聞こえてる! 大丈夫だってば!」


 突然与えられた幸福に、もう耐えられなかった。

 ああ、顔がぽわぽわする。にやにやする。幸せで死にそう……!

 そんな気持ちを誤魔化すように、僕は思いっきり車庫の戸を引いた。


『……待て。何でその戸、鍵が掛かっていないんだ?』

「え?」


 椿のもっともな指摘を理解する前に、戸を全開にしてしまった。真っ暗な車庫の中に、僕の間抜けな声が反響し、月明かりが優しく差し込む。


 その――最奥。


「すみません。鍵は壊してしまいました。どうしても貴方と二人きりで話がしたくて……ね」


 初めに目に入ったのは、血まみれのスーツと革靴だった。

 そいつはくるりと踵を返すと、すぐに僕へと歩み寄ってくる。

 靴の中に血が染み込んでいるのだろうか。一歩一歩、歩みを進める度にぴちゃぴちゃと生々しい水音が響いていた。

 最初は下半身。次に胴体。そして顔……。

 月明かりに照らされて、そいつがどんな形をしているのか少しずつ明らかになってくる。


「ああ、失礼しました。挨拶がまだでしたね」


 ……なんだ? この声、どこかで聞いたことがある。

 妙な既視感に支配されながらも、僕はその場を動くことができない。

 そして――


「こんばんは。夏見柚彦君」


 眼前に、物腰柔らかそうな男性が姿を現した。

 齢は、三十代前半といったところか。埃まみれの分厚い本を手にして、眩しそうに目を細めている。

 表情は……笑っているのだろうか? その顔さえも赤黒い血に濡れているため、はっきりと識別できなかった。


 ……誰だこいつは? まったく見覚えがない……。


「ちょっと。パパがあいさつしてるのよ。おへんじくらいしたら?」


 男の後ろからひょっこり顔を出したのは、十歳くらいの小さな子供だった。

 でも、そのふわふわとした巻き髪の隙間からは獣の耳が飛び出ているし、レースをあしらわれたスカートの下からは、ふさふさの尻尾が揺れている。


 ――蟲、だ!


『下がれ! ここは一旦逃げるぞ!』

「う、うん!」


 同じタイミングで気が付いたらしい。椿が危機迫った様子で声を上げる。

 ……だが。


「待ってください。今日は貴方と、戦うつもりなんてございません」


 状況にそぐわない、酷く穏やかな声がそれを制した。

 男は手にした本を棚の上に置くと、こちらに何かを差し出してくる。


「その証拠に……ほら。これをお使いください」


 それは、黒くて小さな布だった。緑色の十字架が刺繍で刻まれている――異端審問官の、退魔の手袋。


「ちょ……ちょっと待って。どうして……これを、持ってるの……?」


 逃げることも忘れて、僕は口の中で小さくつぶやく。


「決まっているでしょう? 異端審問官からもらったのです」


 マネキンのように固まっている僕に、男は甲斐甲斐しく手袋を付けてくれる。

 異端審問官のことも、手袋の効能も知っている。でも異端審問官じゃない。

 この男は、一体……誰なの?


「……よし。これで貴方もその蟲も、感知されませんね」


 手袋がついている手を自転車に密着させて、男は満足そうに頷く。


「あんしん、あんしんね♪」


 よくよく見れば、男も少女も、黒い布で作られた装飾品をつけていた。男は首元にチョーカーとして。少女は、柔らかそうな髪の毛を結ぶリボンとして。

 もしかして、これ……


「ああ、これですか? 手袋として付けるのも芸がないかと思って、アレンジしたんですよ。肌に接触するように身に付けてさえいれば、効果があると聞きましたから」


 僕の視線に目ざとく気付いたのか、男が上機嫌に語りだす。


「実はね。貴方が付けている手袋は、先ほど手に入れたものなんですよ。運命の巡り合わせか、異端審問官が丁度この家に来訪してくれまして。二つも付けている贅沢さんだったから、つい頂いてしまいました」

「……え?」

「私達が身に付けている手袋は……確か、二日ほど前でしたか。わざわざ、私のところに届けに来てくれたんですよ」

「そーそー。あの日はふたりもおきゃくさんがきてくれたのー!」


 世間話のように軽いノリで告げられる言葉に、頭の整理が追い付かなかった。

 異端審問官が、僕や雪柳以外にも手袋を渡していたってこと? 確かに、リコの気楽なスタンスを見れば考えられなくもない。

 でも、「もらった」ってどういういうことなんだ? ただ受け取っただけなら、何故この男は血まみれなんだ?


「うん? もしかして貴方は、まだ私が誰だか分かっていないのですか?」


 そんな僕の困惑に気が付いたんだろう。男は困ったふうに小首を傾げた。


「うーん。なら、こうすれば分かりますか?」


 ひょいっと取り出したのは、皮で作られた丈夫そうな仮面だった。それが男の顔に重なった瞬間――僕は、ようやく理解した。


 こいつ……覆面の男だ!


 記憶喪失になってから二日目の夜。巨大な犬に乗って、僕を襲ってきた……!

 じゃあ、この子供はあの犬か!? あれが、成長した姿なのか!?


「ああ、ご安心ください。先ほども言ったように戦うつもりはありません。私は、貴方とお話がしたいだけなんです」

「そーよそーよ! パパはふいうちなんてずるいことしないの!」


 男も犬も、両手を大きく広げて戦意がないことをアピールしてくる。

 確かに、まったく武装はしていないけれど……。


『……話してみろ』

「椿……?」


 答えに詰まっていると、椿が後ろから助言してくれた。


『こいつらが何のために来たのか、少し気になる』


 椿は銀の膜こそ張っていないが、警戒に体の全神経を研ぎ澄ましているようだった。

 ……椿が言うなら、話してみよう……かな。


「ほ……本題に入る前に、何個か聞いてもいい?」

「なんでしょうか?」


 緊張から、声がガラガラになっている僕を気にもせず、男は快活に答える。


「手袋を持っていた人達はどうしたの? その人達は、今、どこに?」

「ああ。それなら……食べましたよ?」


 なんでもないことのように、男はあっさりと言う。


「私の可愛い可愛いドロセラが、ぺロリと平らげてしまいました」


 分かっていたことだけど、その言葉に僕はまともに反応できなかった。

 少女はにこにこと微笑みながら、自分のお腹を愛おしそうに撫でている。そこに、彼らの肉片があるわけでもないのに。

 じゃあ、スーツを汚している血糊は……。


「もう一つ……聞きたい、ことがあるんだけど」

「うん? なんでしょうか?」

「君が……術者なの? この蠱毒の術を作り上げた、犯人……なの?」


 そう問いかけた途端、男の顔は何もかもリセットされたかのようにまっさらになってしまった。

 それは、予想外の問いをされた、というよりは諦めに近い表情で。無感動な眼差しに射すくめられ、条件反射で体が震えてしまう。


「ああ、可哀相に。やはり貴方は何も覚えていないんですね」


 そしてそのまま、男は慈しむように僕の頬に指を滑らせる。


「いえ。覚えていないのではなくて、思い出さないようにしているのでしょうか?」


 血に濡れた、指先の感触が気持ち悪い……。

 こんな男に触れられたくない。今すぐ振り払いたい。

 それなのに僕は、金縛りに掛かったかのように動けなくなってしまった。


 ……「覚えていない」だって?

 誰が? 何を……?


『……何故』


 瞬きもせずに立ち尽くしていると、今度は椿が独り言のようにつぶやく。


『何故貴様は、人間も蠱毒の器に入れてしまったんだ? どうして今更、人を巻き込んだ?』


 ……え? 椿、いきなり何を……?


『最初は人間を、術の対象からあえて外していたのに――』

「うるさい蟲ですね……!」


 僕の思考を遮るように、男は言葉を吐き捨てる。


「貴方はいつもそうですね……。前も、その前も! こっちは早く始末したいというのに、邪魔してくる……!」


 ……前も? その前も?

 僕がこいつに命を狙われたのは、椿と初めて出会った日の、一回だけじゃないのか?

 一体この人は、『いつ』の話をしている、の……?


「何故人間を蠱毒の器に入れたか、だって? そんなの決まってるだろう!? 守る必要がなくなったからだ! 人間に守る価値がなくなったからだ! それ以外に何がある!?」


 感情的な男の言葉に、椿は口を閉ざしてしまう。

 ……今の会話は、一体何なんだ? 僕が記憶喪失になる前に、何があったんだ……?


「それより……夏見君。そろそろ、こちらの用件を済ませてもいいでしょうか?」

「は……?」


 もうすでに、僕の頭は正常に動いていなかった。

 壊れた機械みたいに、何度も何度も同じ言葉を脳内で再生している。


 どうして。なんで。分からない。覚えてない。


「何故私が、わざわざ貴方に会いに来たんだと思います? 何を話しにきたんだと思います? 殺すためじゃないのなら、何をするために?」


 段々と感情的になっていく男を、僕はぼんやりと見上げることしかできなかった。頬に添えられたままになっていた手は、するりと首元に落ちて――


「それはね、貴方に全てを思い出させるためですよ! 夏見柚彦!」

「いっ……!?」


 締められる。

 男のしなやかで長い指が、僕の首に絡みつく。

 声が……息が、できない……!


「おかしいでしょう! なぜ貴方は都合良く忘れているのです!? なぜ覚えていないのです!? 許さない……貴方だけ綺麗サッパリ忘れて楽になろうだなんて、私は許さない!」


 その叫び声は、まるで嘆きのようだった。


「ぐっ……!」


 言いたいことだけ言い切ると、男は乱暴に僕の身体を壁に叩きつける。すると、棚に置かれていた工具やら本やらが、ガラガラ音を立てて床に転がった。


「……思い出しなさい。全てを」


 それまでの激しさが嘘だったかのように、男は優しく囁いてくる。


「そうしたら、貴方の全てを許してあげましょう。殺してあげますよ……夏見柚彦君」


 そう言い残すと、男は蟲を引き連れて車庫を去っていった。

 顔を上げる気力もない。僕はその、後ろ姿さえも見送れなかった。


『……大丈夫か』

「うん……」


 床に座り込んだままの僕を、椿が心配そうに覗き込んでくる。膝を抱え直したついでに仰ぎ見ると、やっぱり椿は動揺に瞳を震わせていた。

 色々聞きたいことはあった。問いただしたいことばかりだった。

 でも……椿にそんな顔をされたら、何も言えなくなってしまう自分が居て。


「……ははっ。なんで、車庫に本なんて置いてあるんだろうね……」


 仕方ないので僕は、誤魔化すように盛大に散らばっている本を手に取ってみた。

 これは……最初、この車庫に入った時に男が持っていたやつ、かな……?


「……あれ?」


 日に焼けて茶色くなっているところだけを見ると、ただの古書にしか思えない『それ』。だけど、背表紙に書かれている文字に見覚えがあった。


 ――『蠱毒』。


「……は? なに、これ……」


 自然と額に、汗が滲み出てくる。それを手の甲で拭いながら、僕はその場に落ちている本を全て拾い集めていった。


「『厭魅』。『巫術』。『邪法』……」


 見覚えのある単語の数々を目にしていく内に、頭のてっぺんから冷えていくような感覚に陥った。


 どうしてこんなものが、ここにあるの?

 なんで、隠すように置いてあったの?

 僕はなんで、あの男に憎まれているの?

 僕は何を忘れているの?


 もしかして、僕は――


「いや、そうと決まったわけじゃない、よね」


 一瞬、意識の隅っこに浮かんだ嫌な予感を忘却するように、かぶりを振る。

 そうだよ。この本はきっと、父さんのものだ。昨日探しても見つからなかったものが、ただここにあっただけ。それだけなんだ。

 さっき男が言っていたことだって、本当だとは限らない。なんかあの人、頭がおかしかったみたいだしさ。きっと気が動転して八つ当たりしちゃっただけだよ。

 だから、特別な意味なんて何にも――


『なんで貴様は、何も思い出せないんだろうな』


 脳内で必死に言い訳をしていると、それを遮るように椿が言った。


「……え?」

『説明してやろうか? 貴様が何故記憶喪失になったのか。貴様がこの事件にどう関わっているのか』


 透き通った宝石のような瞳が、まっすぐ僕を見据えている。

 何か重大なことを決意したんだろうか。拳をぎゅっと握りしめながら、椿は唇を引き結んでいた。でもその目の縁には、薄っすらと涙の膜が張っていて……。


 ……椿でも、こんな表情をするのか。

 こんな、弱い顔ができるのか。


『どうした? 聞きたくないのか?』


 椿は一体、何を言おうとしているんだろう。

 どうして、こんなに震えているんだろう?

 何を、そこまで怖がって――?


 ……なんでだろう。

 不安げな椿の顔を見ていたら、その口を塞ぎたくなってきた。

 これを聞いたら全てが終わってしまうような、そんな気がする。


「……ねぇ椿。手袋の予備を受け取ったこと、リコに連絡しなくちゃ」


 そう思ったら、口から勝手に台詞が飛び出ていた。

 サドルの埃を落としながら、宙に浮かんでいる椿に話しかける。


『……待て。貴様、私の話を聞いて――』

「僕達はちゃんと、異端審問官から手袋を受け取った。その異端審問官がその後、どうなったのかは知らない。ただ僕達は今夜、囮として働いた。その途中で母さんを助けただけ。あと報告するなら、空からしか見えない魔法陣を見つけたことくらいかな? それ以外は、何も起こらなかった」


 口を挟む暇を与えないよう、早口で言い切る。


「そうだよね、椿?」


 問いかけてみるけど、椿の返事は帰って来ない。椿は顔を真っ青にして、自分を抱きしめるように腕を回している。

 どうやら、僕の出した結論に絶句してしまっているようだった。


 もしかして僕、選択を間違えた?

 いいや、そんなはずないよね。これで正しい。これが正しいんだ。


『……なぁ、一つだけ聞いていいか?』

「なぁに?」


 普段通りを装って、にっこりと微笑みかける。


『貴様は以前言っていたな。私を守りたいと願うのは本能だ、と』

「うん。そうだけど?」

『私に、守る価値があると本当に思っているのか?』


 独り言のようなつぶやきに、自分の耳を疑った。

 椿が、何の価値もない……だって? 記憶喪失の僕がここまで固執してる、唯一の存在なのに?

 この数日で打ち解けたのが、死ぬほど嬉しくて――致死量にも及びそうな程の幸福を感じさせてくれる存在だっていうのに?


『本当のことを言えぬ私に、守ってもらう価値など……』

「ねぇ椿、聞いて?」


 自転車がちゃんと手袋に触れているのを確認してから、僕は椿の幻影に近づく。


「君が何を迷っているのか、僕は知らない。でも、僕が選んだことで君が悩んでしまっているのならそれは間違いだ」


 実体がない椿の手を握ろうとしながら、僕はつぶやく。

 そうして、どれだけ腕を伸ばしても椿に届かない――触れらないことに今更気付いて、がっかりする自分に気が付いた。

 椿の肌は、どんな触り心地なんだろう。どのくらいの温かさなんだろう。


「安心して。君が何を知っていようが関係ない。僕にとって君は、守るだけの価値がある人なんだから」

『…………』

「僕が絶対に、君を守るよ。今は、心の底からそう思うんだ」

『……この、馬鹿者が』


 弱弱しく囁いて、椿はまた俯いてしまった。

 椿はさっき、何を言いかけたのかな。椿は何を知っているのかな。僕が記憶喪失になった理由とかも、きっと知ってるんだろうな。


 でも……そんなのどうでもいいじゃない。

 とりあえず今は、やれることだけやろう。強くなろう。

 椿のために。


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