11月10日……4
と、引き受けたのはいいものの。
囮を始めて数時間。すでに僕達は疲れきっていた。
なんせ、蟲が昨日に比べてかなり強くなっているのだ。椿のシールドのおかげでほぼ無傷だが、疲労だけはどうにもできない。
「っとぉ……これで、三十体目……」
自転車に倒れ込んできた蟲の死骸を、雑に蹴り飛ばす。
クソ……関節が、きしきし言ってる。自転車の漕ぎすぎで、脚がもう棒みたいだ……。
「はぁ……はぁ……椿は、大丈夫? 疲れてない……?」
『蟲から吸収できているから問題ない』
「そっか……」
そうは言うものの、椿の顔色は戦闘前とまったく変わってなかった。
気分が悪そうなのは、お腹が空いていたからじゃなかったのかな。この囮作戦のおかげで十分蟲の力は吸収できているはずなのに、椿の様子に変化はない。
それに、母さんのことも気になる。
作戦を開始してからすぐに自宅に帰ったけど、母さんの姿は無かったんだよね。無事だといいのだけど……。
なんて思案していたら、
「人間! その力……女王様に捧げてもらうぞ!」
「大人しく……死ね!」
今度はオオスズメバチ型の蟲が二体、陣形を組みながら襲いかかってきたじゃないか。
成長の証なのか何なのか……街の中には、人語を喋る蟲ばかりになっていた。罵声を浴びせられたり、呪いの言葉を投げかけられるくらいならまだいい。嫌なのは「死にたくない」「やめてくれ」と懇願してくる蟲だ。
そんなことを言われると……まるで、僕が人殺しみたいじゃない。
「はな、れてよ!」
愚直に突撃してきたオオスズメバチをハンドル操作で突き飛ばし、間合いを取る。
その隙に椿が、腕を天にかざす。
すると突如、上空に無数の銀の矢が現れて――
『行け!』
それが、オオスズメバチ達を貫く!
体の中心を貫かれて、オオスズメバチは地面へと落下してしまう。
「女王、様……お許し、ください……」
……ああ。こいつも、なんて悲痛な声で泣くんだろう。
でも一々気にしていたら、この蠱毒の器の中では生きていけないよね……。
『……うむ?』
そんなことを考えていると、後ろで椿が不思議そうに首を傾げていた。
「どうしたの、椿?」
『いや。今、蟲を倒したはずなのに力が吸収されなくてな』
「そんなことあるの? 蠱毒の範囲内なのに?」
『知らぬ。だが現に今、そのようなことが起こっているのだ。貴様はどうだ?』
「んー……僕は椿の力で戦ってるせいか、蟲の力なんて一度も吸収したことがないんだよね。だから、なんとも……」
『そうか』
「でも言われてみれば椿、蟲を倒した後なのに光ってないね」
蟲を避けるように青い壁すれすれまで上昇してから、再度椿に振り返る。
だが椿は、僕の話なんて聞いてなかった。それまでの怪訝そうな様子から一転。はっと目を見開いて地上を凝視している。
『あそこ! 人が襲われていないか!?』
「え?」
椿に言われて見やると、そこでは巨大な猫と人間が追い掛けっこをしていた。
本来なら、人間程度なんて一瞬で捕まえられるだろうに……。猫はふざけた笑い声を上げながら走っていた。きっと、遊んでいるんだ。今日、新たに現れた獲物をいたぶって喜んでいる。
だけど、問題はそこじゃなかった。
逃げている人物――それが、僕にとって大切な人だったのだから。
「か、母さん……?」
そうだ。あの顔。あの服。あの髪型……!
間違いない。あれは母さんだ。
……母さんなんだ!
「っざけるな!!」
ぷつり、と意識の奥底で何かが切れる音がする。
その瞬間、僕の身体は自転車ごと急降下していた。
狙いはもちろん――猫の後頭部だ!
『ふっ。貴様は本当に無茶をする……!』
耳元で囁かれた椿の声は、言葉とは裏腹に嬉しそうだった。
ボッと音を立てて、銀色の炎が自転車全体を覆う。椿のサポートだ!
「いっけええええええええぇ!」
体全体を引き裂かれるような感覚。そんなスピードの中、前輪が猫の頭蓋骨に食い込んだ。
「にぎゃっ……!?」
ぐしゃりと真っ二つに割れる頭。
――よし、致命傷だ!
脳髄が飛び散る中、僕は、椿の発する光に照らされながら地面に降り立った。
「母さん……大丈夫?」
「……え?」
荒れ果てた道路に座り込みながら、母さんはぽかんと僕達を見上げていた。
……良かった。煤や埃にまみれてはいるけど、その体には傷一つないみたい。
「ゆ……柚彦? これは、夢……じゃないのよね? 貴方、柚彦なの……?」
「うん、そうだよ。それ以外の誰かに見える?」
手を差し出すと、母さんはそのまま縋りついてきた。
「ああ……もう、二度と会えないかと思った……。外出禁止時間になっても、貴方ったら全然帰って来なくて……」
「母さん……」
「良かった……貴方に怪我が無くて、本当に……」
泣いて、僕の手に頬ずりをする母さん。
……この光景、見覚えがある。
数日前。病院で目覚めた時も、母さんはこうして僕の手を握ってくれたよね。あの時はただ困惑しかできなかったけど……今は、その喜びが分かる気がした。
「心配を掛けてごめんね? ありがとう、母さん」
「柚彦……」
手を握り返すと、母さんはますます目に涙を溜める。が、
『感動の再会を味わう前に、安全を確保するのが優先ではないか?』
椿の冷めた声がそれを妨げる。
『手袋があっただろう。それを彼女に渡してやればどうだ?』
「えっ……手袋、を?」
今これを手放したら、椿に危険が迫った時に対応できなくなるんだけど……。
『彼女は、貴様の母親なのだろう? 何を迷う必要がある?』
「そ……それも、そうだね」
椿の言う通りだ。こんなことで戸惑うなんて、最低すぎるだろ……。
慌てて鞄の中にある手袋を取ると、僕はすぐさまそれを、母さんに被せてあげた。
「これは……?」
「良く聞いて、母さん。これから、この手袋を付けて皿久米高校まで行くんだ。そこに、この街の住民が集まっているはずだから保護してもらって?」
「え……え、ええ。分かったわ。でも、貴方は……」
「僕はやることがあるから、すぐには行けない」
そう告げた瞬間、握られている手に更に力がこもる。
「……どう、して?」
「僕にしかできないことだから。詳しいことは、後で話すね」
こうして立ち話をしている時間も惜しい。手袋を母さんが持っている今、椿に引き寄せられていつ蟲が来るかも分からない。
「いい? 手袋は絶対に手放しちゃ駄目だよ。それさえ付けていれば、巨大生物に襲われることはないんだから」
「でも、私に渡したら貴方が――」
「僕には椿が付いているから大丈夫だよ。彼女、強いんだよ?」
そこで母さんは、初めて椿に気が付いたようだった。僕の後ろで光輝く花嫁を、感慨深げに見上げる。
「そう、なの……? 貴方が、椿さん……なの?」
『……ああ』
「柚彦のこと、よろしくお願いしますね」
『……当然だ。こやつのことは、私が必ず』
「ありがとうございます」
椿の言葉に安心したんだろう。母さんはほっと安堵のため息をついていた。
「さ、母さん。早く学校に行って。ここに居たら危ないよ」
「分かったわ」
急かす僕に、母さんは振り返る。
「……学校で待ってるから。絶対に……絶対に帰ってくるのよ。そしたら、ちゃんと説明しなさい。貴方が今、何をしているのか……」
「うん。約束する」
そう言い残すと、母さんは小走りで駆けていく。
その華奢な後ろ姿を見送っていると、ポケットに入れたままになっていたスマホが、ぶるぶると震えだした。
――リコからの連絡だ!
「はい、もしもし!?」
『作戦終了よ。全住民の誘導が終わったから、もう休んでいいわよ』
リコは手短に、用件だけを伝えてくる。
「じゃあ僕も、学校に合流していい!?」
『いいけど、ちゃんと手袋は付けて来なさいよ。ぞろぞろ蟲を引き連れられても困るし』
その言葉で、僕ははっと思い出す。
「あ、あのー……リコ? 怒らないで聞いてくれるかな?」
『なによ?』
「手袋……母さんに貸しちゃったから無いんだけど……。その場合はどうしたらいいのかな、なんて……」
『はぁ!? アンタ、バカなの? バカなんでしょ!? 手袋を一般人に貸すとか、マジありえないし!』
「う……ご、ごめん……」
リコの叱咤が、鼓膜に直接響いて痛い。
でも彼女の言いたいことも良く分かるので、僕は黙って受け止めるしかないのだ。
『仕方ないわね。アンタは自宅で待機してなさい。学校に来るのは明日の朝でいいわ』
「え!? それって僕達に死ねってこと!?」
手袋も無しに一夜を明かすとか、不可能でしょ! 無理でしょ!
『だーかーらー。今すぐ、部下に予備の手袋を持って行かせるっつってんのよ! それでいいでしょ?』
「い……いいの?」
『だって、そうするしかないでしょ!? いいから、それまで自宅で待ってなさいよ!』
「う、うん……! ありがと、リコ!」
良かった。これでようやく休める……! 後は手袋を届けてもらうまで、僕が頑張ればいいだけの話だ!
でも、一つ問題があるとするなら――
「……そっちは、大丈夫なの?」
『は? 何が?』
「ほら……今って、たくさんの人が一カ所に集まってるでしょ? さっきの様子だと、人間も蠱毒の器に入れられちゃってるみたいだし……」
『だから?』
「その……蟲と同じように、人間達の間でも……争いとか起こってないかなって……」
口にするのもおぞましい、その質問。
だって、蠱毒の器に入るって……そういうことでしょ? 人間も蟲になるわけだから、蟲に搾取されるだけじゃない。自分自身が蟲を殺すこともできる。
――人を殺すこともできるんだ。
と、思ったら。
『起こるわけないっしょ、そんなもん』
僕を小馬鹿にするように、リコは笑う。
『最初から人間も蠱毒に組み込まれていたのなら、そういうこともあったかもしれない。でも、今は蠱毒も最終段階に来ているのよ。他の蟲にとって、人間なんて虫けらも同然。羽虫みたいなもんよ』
「……はむし?」
『そう。クソみたいな蟲。ゴミも同然。羽虫なんて、蟲から逃げるのにいっぱいいっぱいで、同族を殺すことなんか考えもしないわよ。ま、住人の中にシリアルキラーでも居るっつーなら話は別だけど』
「そう、なんだ……」
『じゃ、明日の朝になったら学校に来なさい。いいわね?』
言いたいことだけ言うと、リコはぶつんっと通話を切る。
……とにかく、みんなが大丈夫ならそれでいいか。
安堵のため息を付きながら、僕は後ろに振り返った。
「今の、聞いてた?」
『概ねな』
銀の膜を維持しながら、椿は小さく頷く。
『自宅に帰るんだろう? 早く漕げ。また新手がやってきた』
椿の視線の先を追うと、飛行系の蟲がこちらを目指して飛んでくるのが見えた。
あれはオオスズメバチかな。あいつら、集団で襲ってくるから苦手なんだよなぁ……。
「……ん?」
蟲から視線を離さないままに飛び立つと、地面に変な模様が描かれているのが目に入った。
空から見なければ、決して気付かなかったであろう大きな大きな模様。それはナスカの地上絵やミステリーサークルを彷彿とさせる、不思議な形をしていた。
「ねぇ椿。昨日まであんなものなかったよね?」
『ああ……』
僕のつぶやきに、椿はそう答えたきり黙りこんでしまった。
ただただ、驚きに目を見開きながら魔法陣を見つめている。その様子からすると、椿もそんなものがあるのを初めて知ったらしい。
『……とにかく話は後だ。今は戦うぞ』
「え……あ、うん!」
だけど、椿はすぐに考えることを放棄してしまったようだった。
能面のような顔に戻って、またぎゅるぎゅると銀の矢を展開していた。




