11月10日……2
楽しい時間というものは、あっという間に過ぎてしまうもので。
「さーて。今日も元気にクソ蟲を惨殺しまくるわよー!」
いつもの調子を取り戻したリコが、意気揚々と槍を掲げる。
その周囲に集っているのは、真っ黒なマントを羽織った男達だ。彼らはリコに頭を垂れて、いつものように敬礼をしていた。初参加の雪柳も、見よう見まねで同じポーズをしているのが微笑ましい。
だけど僕は、そんなことよりも――
「椿、大丈夫?」
椿のことが、気になって気になって仕方が無かった。
ようやく姿を現した椿は、自転車のサドルに腰を下ろしていた。気だるげに、腹部を抑えながら……。
『……ああ? なんだ?』
「さっきから様子が変だけど、どうしたの?」
『別に、なんでもない……』
その態度は、僕に対して怒ってる訳ではなさそうだった。むしろ体調が悪そうっていうか、上の空っていうか……そんな印象。
「それじゃあ昼間話した通り、ぼちぼち行かせてもらうわ――」
と、リコが説明を始めた時だった。
「はぁ……っ、はぁ……」
最初に聞こえてきたのは、喘ぐようなか細い声。
「っ……く、ぁ……うぅ……」
これは泣き声だろうか? 聞いていると、こちらまで涙がこみ上げてきそうな悲痛な声だった。
……人間が、出歩いているのか?
だが、街灯もない開発地区の道路では、暗い道の先など見通せるわけもない。僕達はただ、声の主が現れるのを待つことしかできなかった。
「そこに居るのは誰? 今が外出禁止時間だって、分かって出歩いてるワケ?」
相手と話すためだろう。手袋を取り、木の枝に引っ掛けながら、リコは強気に声を上げる。
相手がどこに居るのが分かっているらしい。リコはまっすぐ声のする方を向いていた。
すると次第に、声の主が暗闇から現れてきて――
「誰か……はぁっ……、助け、ぁ……ぅ、ぅう……」
齢は十七くらいだろうか。長い髪の毛を靡かせながら、一人の少女が夢遊病患者のようにふらふらと歩いていた。
……少女は裸足だった。そして、パジャマを着ていた。
だが、一番に目に入ったのはそんなところじゃない。
パジャマをぐっしょりと染め上げている、真っ赤な血だった。
「がはっ……けほっ、げほっ……!」
咳をすると同時に、少女の口から夥しい量の血が飛び出る。彼女が歩みを進めるたびに、血がぽたぽたと道路に染みを作っていた。
「あ、ぁあ……たす、け……」
少女は、縋るようにリコへと手を伸ばしてくる。ぬめぬめとした血に濡れた、真っ赤な手を。
だが、救いを求める手がリコに届く寸前。少女は力尽きて、地べたに倒れ込んでしまった。
じわじわと広がる真っ赤な水溜まり。ぴくぴくと震える華奢な体。
まるで映画の一シーンのような光景に、僕は指一本動かすことができない。
「……なぁに? どうしたの、アンタ?」
そんな中、リコは臆するそぶりも見せず、槍の先で少女の身体をひっくり返していた。
「うわ、酷い傷。蟲にやられた痕かしら?」
「そうとしか思えねぇっスね……」
その隣でコルちゃんも、まじまじと少女の身体を観察していた。その他の異端審問官も、能面のような顔のまま見守っているだけで……。
仕事で慣れているんだろうと予想がつくものの、少女を物としか思ってなさそうな態度に驚きを隠せなかった。
「ちょ……ちょっと待ってよ。おかしいって」
渇ききってパサパサしている唇を動かしながら、僕はなんとか声を発する。
「ん? 何が?」
「何がって……決まってるじゃん! は、早く治療しないと! 死んじゃうよ!」
「ああ、そういえばそうだったわね。……コルチカム!」
「はっ!」
リコに促されて、コルちゃんは流れるような動きで携帯電話に番号を打ち込む。
……え? で、電話?
「あっ! すんません、今すぐ皿久米市第一交差点まで来てもらえねぇっスか? 女の子が巨大生物にやられちまって! ええと、内臓を喰われているみたいっス。もう瀕死で……え? どんな子かって? えっと……ピンクのパジャマを着た、茶髪の女の子っス。身元が分かりそうなのは……あ、ありやした! えーっと……」
どうやらコルちゃんは、救急センターに連絡しているようだ。
まさかの対応に目が点になる。
「な、なんでよ! リコ達が治してあげればいいじゃん! 異端審問官なら、神のご加護とかで回復魔法も使えるんじゃないの!? こう、パァーッとさ!」
「んなことできるわけないじゃん。つーかアタシ達、厳密に言うと聖職者じゃないし」
「そ……そんな……」
思っていたより異端審問官が万能な存在でないと知り、身勝手にも失望している自分が居た。
じゃあ、一撃でも致命傷を負ったら……僕達も……。
「そ……それより、気になることがあるんですけど……!」
「ん、なぁに? 雪柳」
電話をするコルちゃんを眺めながら、リコはのんびりと答える。
「先ほど、その方が蟲にやられたと言っていましたけど……。蟲は蟲しか攻撃しないのではなかったのですか? その方はたまたま、蟲との戦いに巻き込まれただけなのでは?」
「んー……言いたいことは分かるけど、偶然蟲同士の戦いに巻き込まれただけなら、喰われたりしないっしょ」
「で、でも……それだと今までのルールと相違してませんか?」
「あー、メンド。じゃあ、自分で確認してみなさいよ」
リコが一歩後ろに下がると、少女の姿がもろに視界に入った。
遠目ではただ血まみれなだけに見えたが、その体は深く深く抉れていた。ずたずたに引き裂かれた皮膚と肉。飛び出た肋骨。そして赤黒い内臓。
傷口からはみ出た白い筋のようなものが、少女の受けた傷の深さを物語っていた。
濃厚な血の香りが、気持ち悪い。
「……っ!」
あまりにも凄惨な光景に、雪柳は顔を真っ青にして口を噤んでしまった。
そんな彼女の代わりに、僕はリコに振り向く。
「ってことは、本当にただの人間が……蟲に襲われたの……?」
「そうね」
「なんでよ? リコは昨日……人間は、絶対に蟲から狙われないって言ってたじゃない。それが、なんで……なんで……」
僕の問いかけに、リコは黙り込んでしまった。それは、答えに窮しているというよりは、僕の反応に驚いているような感じで。
アクアマリンのような双眸に射すくめられ、思わず僕まで言葉を失ってしまう。
『……で、どうするつもりだ』
そんな中、椿が仕切り直すように聞いてくる。
『このまま、放っておくつもりはないのであろう?』
「決まってんじゃん。今日は、この女に手を出した蟲を一刻も早く探し出すわ」
椿の言葉に、我に返ったようにリコが言う。
「一番怪しいのは、前に出会ったあの犬よね」
『あの……覆面男に使役されていた奴か?』
「そう。あの犬なら、主人に命令されれば人を殺すことも可能よ。あいつが何かたくらんでいるんだとしたら――」
と、リコが言い掛けた……その刹那。
青い閃光が、視界いっぱいに広がった。
でもそれは、ほんの一瞬のことで。
立ちくらみかと思って目を擦ってみるけど、そこには何ら変わらない、いつもの風景が広がっていた。
「い、今のはなんでしょうか?」
隣で雪柳が、キョロキョロと周囲を見渡している。
「雪柳も見えたの? あの、青い光が?」
「はい。なんか、街全体に広がっていきましたよね?」
雪柳も見たってことは、今のは幻覚なんかじゃないんだ。
じゃあ、あれは一体……?
「キャアアアアアアアアア!!!!」
思考をかき消すように聞こえてきたのは、悲鳴だった。
それから周囲を見渡して……僕は、愕然とした。
……なんなの、これ。
それまで、ごく普通の夜だったんだ。
蟲が食い合ってはいたけど、いつも通りの夜だったはずなんだ。
……それなのに。
蟲が住宅に侵入し、壁を倒し、窓を割り、家の奥の奥に居る住民を喰っている。手袋を付けている僕達を無視して、何の罪もない一般市民を襲っている。遠くでは、毎日儀式のように灯されていたネオンが次々と消えていた。
蟲が、街を襲撃しているのだ。
「総員、すぐに定位置に移動! 少しでも多く蟲を討伐しなさい!」
「はっ!」
リコの号令を受けて、異端審問官達は走り去ってゆく。この場に残ったのは、僕と椿と雪柳とコルちゃんと……。
「柚彦、何ぼーっとしてんの!? アタシ達も行くわよ! 早く蟲をぶっ殺さないと、大変なことになる!」
「う、うん。でも、今の光は?」
「異端の術が発動した時のものよ! 内容はまだ分からないけど、蟲に異変が起こっているのは間違いない!」
早口で喚きながら、リコは勢いよく振り返る。
「コルチカム! 上への連絡と、その女は任せたわよ!」
「はっ!」
「雪柳はそのサポート!」
「はいっ!」
手袋を付け直すと、リコは全速力で公道を突っ走っていく。僕も慌ててその後を追った。
「死ね、死ね! クソ蟲は死ねえええぇぇ!」
走りながらも、リコは槍と炎で見事に蟲を潰していた。出会った蟲が次から次へと爆散している。その無双っぷりは、見ていてドン引きするくらいだった。
それにしても、速い。
こちらが自転車に乗っているというのに、リコはまったく引けを取らないスピードで駆け続けていた。むしろ、こちらが遅れているような……。
これ以上、遅れは取りたくない。
もっと、速く! 速く、速く、速く!
そう念じながら、思いっきりペダルを踏み込むと――
「……へ?」
気付けば僕は、自転車ごと宙に浮いていた。
「つ、つつつつ椿!? なんで!? 僕、宙に浮いてるよ!?」
住宅の屋根を見下ろしながら、僕はあたふたと後ろを振り返る。
『ああ……浮いてるなぁ』
「浮いてるなぁ……じゃないよ! なんでこんなことになってるの!? これも椿の力なの!?」
『私は蛾の蟲だからな。蟲を殺した分、空を飛べるように成長したのであろう。すごいな……ははっ、蠱毒サマサマだ』
真正面を飛んでいた雀を銀色の弾丸で撃ち落としながら、椿は自嘲気味に笑う。
だが僕にまじまじと見つめられていることに気付くと、すぐに視線をツインタワーの向こう側へ動かす。
『あれは……壁、だな』
「え?」
椿の言葉につられて振り向くと、確かにそこには『壁』としか形容のしようがないものがあった。
青く、ガラスような素材で作られた輝く壁。覗き込む角度を変えると、藍色になったり群青色になったりするところから、シャボン玉のようにも見えなくもない。
それが、街全体をドーム状に覆っていたのだ。
だがツインタワーだけは全高が高すぎて入りきらなかったのか、壁はそこだけ突き破るようになっている。
『あの壁、ちょうど市の境目から出ているようだな』
「なんですって!?」
いつの間にこんな近くに居たのだろうか。忍者のように屋根の上をぴょんぴょんと移動しながら、リコが会話に加わってきた。
「さっき発動したのは、あれを出現させる術だったってーの……!?」
ぎりぎりと歯ぎしりをしつつ、リコは傍を飛んでいた鳩を紅蓮の炎で蒸発させる。
「柚彦! 空から何か見えないの!?」
「え、ええと……」
リコに促されて、壁の辺りをじっくりと観察してみる。
「……あ! 大勢の人が壁の付近に集まっているよ! あのままだと、蟲をおびき寄せちゃうかも……!」
「よし! そんじゃあ柚彦、椿! アンタ達は斥候として先に行ってなさい!」
「うん……任せて!」




