11月7日
お待たせしました、我が主。
あなたの願いなら、どんなことでも叶えて御覧にみせましょう。
血も肉も、魂さえも、この身の全てをあなたに捧げます。
さぁ、何なりとお命じ下さい。
……ならば、今すぐ死ね。
承知しました。
にっこり微笑むと、少女は躊躇することなく自身の首を切り落とした。
■十一月七日
「助けてよ……頭が割れそうなの、痛いの……」
ぶつぶつぶつぶつと、絶え間なく聞こえてくる唸り声で目が覚めた。
なんて切実で悲しそうな声なんだろう。
しょぼつく目を擦りながら、僕はすぐに声のする方へ振り向いた。
するとそこには、視界を遮るように衝立がそびえ立っていて。その不自然なくらい真っ白な布に、二つの薄い影が写っていた。
「……だけ、我慢……ない……」
「やだ……! 助けて、助けてよ……!」
どうやら衝立を挟んだ向こう側で、誰かが言い争っているらしい。
なーんだ、僕に呼びかけていたんじゃないのか。
途端に興味を失くした僕は、ベッドの中でモゾモゾと寝がえりを打った。
それにしても頭がぼーっとするなぁ。とりあえず一回起きて顔でも洗おうかな? そうすればきっと、目も覚めるよね?
そう思い立ち、起き上がろうとすると――
「痛っ!」
何かに腕を引っ張られた。
視線を下げてみると、なんと手の甲に点滴が刺さっているじゃないか。
……どうして僕、こんなものを付けているの?
慌てて周囲を見渡すと、視界に見慣れないものが次々と入り込んでくる。
清潔感溢れる白いシーツ。染み一つない天井。カーテン。テレビ。ベッド。そして身に纏っている入院着。それらを確認していく内に、僕にもようやく状況が把握できた。
もしかしてここ、病院なの? しかも入院着を着てるってことは、入院しているんだよね?
でもおかしいな。僕、パッと見怪我なんてしていないし、体もすっごく調子がいいもん。だから、病気の可能性なんて低そうなんだけど……。
「……柚彦?」
「へ?」
聞こえてきた声に向き直ると、入り口に見知らぬ女性が突っ立っていた。
年齢は四十代半ばかな。控えめな化粧をした上品そうな人だった。そんな人が、瞬きもしないでこっちを凝視している。
「柚彦!」
声を掛けようと口を開いた途端、女性が物凄い勢いで距離を詰めてくる。
そのまま僕の手を握り締めると、
「目を覚ましたのね、柚彦! 良かった……本当に良かった!」
女性は、縋るように僕の手に頬ずりをしてきた。その仕草と表情は、慈愛に満ち満ちていて……。
って、何なのコレ!?
この人は誰なの!? 僕、こんな人知らないんだけど! それに『ユズヒコ』って名前にも心当たりはないし!
ここは、はっきり指摘してあげた方がいいよね!?
「あ、あの……人違いじゃないですか?」
「……え?」
「僕、ユズヒコなんかじゃないですよ。それに、あなたのことも知りませんし……」
しどろもどろになりながら伝えると、女性は不思議そうに首を傾げる。
「何を言ってるの? 知らないなんて、そんな馬鹿なことあるはずないじゃない。そもそも柚彦じゃないって言うのなら、貴方は誰だっていうのよ?」
『あなたは誰?』
訝しげな女性の問い掛け。
それを聞いた瞬間、全身から冷汗がぶわっと吹き出すのが分かった。
……なんでだろう、分からない。
名前も、年齢も、性別も、生い立ちも。
一所懸命頭を捻っても、何も浮かんでこない。
無い。記憶という記憶が、僕の中には無い……?
「……柚彦? 聞いているの?」
手をそっと離すと、女性は僕の顔を覗き込んできた。
心底僕を心配しているであろう、その顔を見ると妙にやるせない気持ちになる。
「わ……分かりません」
「え?」
「僕は、どこの誰なんでしょうか? 僕はなぜ、こんな所にいるのでしょうか? ……何も思い出せない……」
「や、やめてよ。ふざけているの?」
「……いいえ」
「私をからかっているんでしょう?」
「いいえ」
「じゃあなんで、そんなことを言うのよ? 貴方の名前は夏見柚彦。今年、高校二年生になった、私の――夏見菫の息子でしょう!?」
そんなことを言われても、僕には答えられない。
黙ったまま目を逸らすと、女性――母さんが、力強く肩を掴んでくる。
「こっちを見なさい、柚彦! 貴方、本当に何も覚えてないの!? 分からないの!?」
「はい」
「……記憶喪失、ってこと?」
「そう……なのかもしれません」
僕の返答に、母さんは黙り込んでしまった。
そりゃあそうだよね。この状況から察するに、母さんは僕を見舞いに来てくれたんだ。その息子が「記憶喪失になりました」なんて言い出したら、普通は困惑するに決まってる。
「……貴方は間違いなく、私の息子よ。この私が思い出させてみせるわ」
決意を持って頷くと、母さんはポーチから鏡と手帳のようなものを取り出した。
それをずずいとこちらに差し出してくる。
「ほら、これで確かめなさい。貴方自身の……『夏見柚彦』の顔を」
有無を言わさぬ母さんの迫力に押されて、まずは渡された鏡を覗き込む。
すると、
「ひっ!?」
思わず、口の中で悲鳴を上げてしまった。
な……なんて、イケメンなんだ!
薄茶色のふわふわとした髪の毛に、黒目がちな大きな瞳。顔のパーツは全て黄金比に近い所にあり、しかも小顔!
か、完璧じゃないか! 僕ってば超絶美少年じゃないか!
ただ、肌の色が白くて不健康そうな印象があるけど……まぁ、賢そうに見えて悪くはない。
そこまで確かめてから、鏡と一緒に渡された手帳を開いてみる。
それは学生証だった。名前欄のところに『夏見柚彦』と記されていて、その横には彼のものだと思われる証明写真が印刷されている。
まったく一緒だった。
『夏見柚彦』の顔は、今しがた鏡の中で対面した僕そのものだ。
「僕は本当に『夏見柚彦』なんですね……」
確かめるように顔の輪郭を撫でる僕を、母さんは不安そうに見守っていた。
「どう? 自分の顔を見て、何か思い出した?」
「いえ。全然」
「そう……」
明らかに落胆した様子で、母さんはため息を付く。
「一体、何が原因なのかしら。事故の後遺症? 『アレ』の影響も無いとは言いきれないわよね……」
「『アレ』?」
「あら、もしかして『アレ』のことも分からないの? この皿久米市で起こっている異変も?」
母さんの問いかけに、僕はぽかんと口を開く。
「分かったわ、全部教えてあげる。『アレ』のことも、あなたの事故のことも」
複雑そうな表情で頷くと、母さんはまっすぐ僕の目を見つめてくる。
「でもその前に、一つ約束して欲しいことがあるの」
「はい、なんでしょうか?」
「その話し方だけは止めてくれる? 実の息子に敬語を使われると気持ちが悪いわ」
◆◆◆
母さんが言うには、こういうことだった。
十一月四日――今から三日前の朝。僕は道路のど真ん中で倒れているところを発見されて、病院に搬送されたという。それからずっと、意識不明のまま眠り続けていたようだ。
だけど僕自身には目立った外傷もなく、どれだけ検査を重ねても異常は発見されなかったと言う。
様子を見るために入院していた僕を、母さんはたった一人で世話していたらしい|(ちなみに父さんは、仕事で出張中なのだとか)。
そんな中、ようやく目覚めたと思ったら……コレである。
「なんで僕、道路の真ん中で倒れていたの? 車に轢かれたとか?」
「それが分からないのよ。交通事故にしては痕跡が無さすぎると警察の人も言っていたわ。傍に貴方の自転車が倒れていたことから、外出中に何かあったのは間違いないみたいだけど」
「そうなんだ……」
「そもそも、こんな時に外出するっていうのがおかしいのよ。市でも夜間外出を禁止してるのに、貴方はどこに行こうとしていたのかしらね」
「え? 夜中に出かけたらいけないの?」
「そうよ。夜中は、『アレ』が活動する時間だから」
僕が興味を惹かれているのが分かったんだろう。母さんは悪戯っぽく微笑むと、窓の外へと視線を移す。
「あと数時間もすれば、『アレ』の時間よ」
「『アレ』の時間……?」
「ええ。多分、ここで説明をしても貴方には理解できないと思う。だから『アレ』が出てきたら――『アレ』の姿が確認できる時間が来たら、教えてあげるわ」
見れば、外ではもう日が傾きかけていた。
まだ辛うじて空の色は青いままだったけど……あれが徐々に黄昏色に染まり、闇に包まれるのは時間の問題だと思われる。
そんな景色を眺めている内に、漠然とした不安が込み上げてきた。
……僕、こんなところに居ていいのかな。
何か……何か、大切なことを忘れている気がする。
僕にはもっと、行くべきところがあるんじゃ――
「……そうだ、帰らなくちゃ」
「え?」
「家に、帰らなくちゃ……こんなところにいる場合じゃないんだ」
「柚彦!?」
腕から点滴を抜いて立ち上がると、母さんが慌てて引き留めてくる。
「ちょっと! どこに行くつもり!?」
「家! もう帰る!」
そのまま廊下に出ようとすると、白衣を着た看護師さんとすれ違う。
「あら? 夏見さん……もしかして、息子さんが目を覚ましたんですか!?」
「そうなんです! すみません、そいつを止めてください!」
大声で騒ぐ僕達の背後で、病院特有の静けさが広がっていた。