きゅー
「ただいまー」
メイド姿のタイガが家に帰ってくると、ローラはリュックに物を詰めながらため息をついているところだった。憂鬱な色をした顔。
「あぁ、おかえりタイガ」
けれど、その顔はタイガの帰りで微笑に変わる。
強くも優しい、母親の笑みだ。
「きちんと買えた?」
「うんっ」
タイガは頷いてカバンを見せる。その中のものを一つ一つ確認して、それがきちんと全部そろっているのを確認してから、ローラはタイガの頭を撫でた。
「よくできたわね」
くすぐったそうに、幸せそうにタイガが笑う。
愛おしそうにローラがタイガを見つめて、
「ねぇタイガ。両親を――探しに行くのよね?」
その言葉に、タイガはこくりと頷いた。
寂しそうな顔をして…それでも確かに頷いた。
今日タイガが買ってきたのは、その準備の品――例えば服であったり、例えば塩漬けした保存の利く肉であったり。
そして、今日出航する船のチケットだ。遠い遠い、異国へ旅立つ船のチケット。
ローラとアルが貯金を使って買ってくれた、大事なチケット。
タイガが虎の姿になって、警察は本格的に"密航者の少年"の調査を始めたらしい。
突然街中に現れた虎と、虎の尻尾を持つ少年。どちらも不可思議で、不可思議だから結び付けられた。
アルはしばらく隠れればほとぼりも収まると言ったけれど。
ローラはいつまでもいてもいいのよ、と言ったけれど。
それでも――タイガは旅に出ることにした。
この家が暖かすぎて。
忘れかけていた、旅へ。
「両親が見つかっても、見つからなくても。ここはあなたの家よ。だから、あなたが帰りたくなったときに、いつでもここに帰ってきなさい」
そう言って、ローラがタイガを抱きしめた。
例え血がつながっていなくても。出会って一月しかたっていなくても。
ここはあなたの家だから。
そう言ったローラの言葉が嬉しくて。
優しすぎて。
タイガはぽろぽろ涙をこぼして、おかあさん、とそう言った。
涙が溢れて止まらなかった。
そうして二人は泣きながら、しばらく抱き合った後で離れた。
鼻や頬が赤くなっているのを互いに笑って、
「さぁ、着替えてきなさい。いくら警察の目をごまかすためでも、旅立ちにそんな服じゃいけないわ」
手首の辺りで涙を拭いながらローラが言う。こっくり頷いてタイガは着替えをしにいった。
はぁ、とひとつ息をついて、ローラはタイガのカバンを引き寄せた。そうして、タイガのカバンにお守りを括り付けておく。
馬のひづめに留まったてんとう虫の、かわいらしいお守りだ。
フェルトを縫って綿をつめた、タイガが虎の姿になったあの日、無事を祈って作ったもの。
例の一張羅に着替えてきたタイガが、お守りをみて不思議そうな顔をする。
おいで、とローラはタイガを手招きして、隣に座らせる。そうして二人でお守りを手に持って、ローラはまずてんとう虫を指差した。
「てんとう虫はね、マリア様の 慈愛の象徴なのよ」
「じあい?」
「ええ。そうね…愛よ。私はタイガを愛してる。わかりにくいかもしれないけれど、アルもそう。誰かを大切に思う心よ」
「じあい、じあい、慈愛…」
「そうよ、タイガは言葉を覚えるのが上手ね」
「これは?」
そう言って、タイガは馬のひづめを指差した。
「これは、馬のひづめ…爪ね。馬の力強さで、病気や怪我からタイガを守ってくれるのよ」
タイガはじっとそれを見つめた。
やわらかく膨らんだお守りを手に持って、じっと。
「さ、タイガ。もう行かないと」
ローラがタイガの背中をぽん、と叩いて促して、ようやくタイガはお守りから手を放す。
ローラはタイガの背中を見て、尻尾が出ていないかを確認してから立ち上がり、そうして二人はゆっくりと歩き出した。
手を繋いで、ゆっくり、ゆっくり。
別れを惜しむようにして。
一緒にすごす時間を思い出に焼き付けるようにして。
けれど、そうしてゆっくり歩いても――歩き続ける限り、やがて港へ辿り着いてしまう。
ボォォ――
汽笛が鳴る。船へ乗り込む人々が、周囲で別れを告げている。
それは激励であったり、或いは涙で濡れた別れであったり。
大きな船だ。黒と白とで色塗られた、立派な船。欄干は階段状で、その脇で船員が乗客の流れを整備している。
その中で二人は、ただお互いの手を握って、船を眺めていた。
乗客が少なくなって、出発の時刻ギリギリになっても。
「出港しますよ?」
そうして、船員が言って、タイガはしょんぼりとした顔で船に乗り込もうとした時に。
バタバタと、不恰好に走る音が聞こえて。
二人は同時にそちらを向いた。
仕事中なのに。
それでも、きっと来ると思っていた相手。
はっ、はっ、と荒い息で、スーツも髪もくちゃくちゃにしてネクタイもかなり緩めた、情けない姿で走ってくる――夫であり、父親だった。
アルは二人の前まで走ると、がくがくと震える膝に手を置いて何度か大きく呼吸をした後。
「――行くのか」
「うん」
アルが言葉を選んだ一言は、想いを込めた一言は、そんな軽い一言で返された。
と、と、と。
とタイガは軽やかに船の欄干を上っていく。
光が差して。
その眩しさに、思わずアルは目を細めた。
まるで――その光に飲まれるようにして。
タイガは階段を駆け上っていく。
アルは自分でも気づかないうちに手を伸ばそうとして――。
大人なのに、ごめん。
見本になれなくてごめん。
何も教えて上げられなくてごめん。
父親らしくなれない僕で、ごめん。
でも。
それでもお前と一緒にいて、楽しかったんだ。
ローラが幸せそうな顔をするのが、嬉しかったんだ。
だから、行くな。
――行くな、タイガ。
いくつもいくつも言葉が沸いて、喉から溢れそうになる。
けれどそれらを全て飲み込んで――
伸ばしかけた手を、ゆっくり下ろした。
下ろした手を、ローラが握る。アルもその手に指を絡めて。
「行って来い、タイガ!!」
「行ってきます!!」
大きな声で送り出す。
いってらっしゃい、とローラが言った。ほんの少し、涙の混じった声だった。
アルはローラの肩を右手で抱き寄せて、そうしてタイガを見送った。
左手をあげて。
ぶんぶんと元気よく振る、タイガの手に応えて。
ズボンに隠していたトラの尻尾がぽろりとこぼれた。黄金瞳が光に輝く。
空が青かった。
その青さがあんまり眩しくて。
アルの視界が、ぼやけて、滲んだ。
――行って来い、タイガ。
いつか、両親を見つけるために。
いつか帰ってくるために。