はち
「これください」
「はいよ」
メイドの少女がメモとお金を一緒に差し出して、肉屋の店主はメモを見ながら品物を用意する。
それをニックはカウンターを兼ねたショーケースに片肘を乗せてみていた。
ニックの傍らにはヤツェンコがびしっ!と背筋を伸ばして直立している。いかつくて客を遠ざける見た目。肉屋の主人はちらりと見るだけだったが、そこに不満そうな色があるのをニックは見た。
「なんにせよ、俺ぁ知らねぇよそんな虎の尻尾の生えた少年なんぞ」
「タイガ」
メイドの少女が言った。
「あぁタイガーテイルだ。そんなもん一目見りゃわかるってのによ」
肉屋はおどけるように肩をすくめてそういった。
「まぁそれはそうだ。ただ近くで虎が出たなんて騒ぎがあったからな、関係があるかと思って」
ニックは意識的に口調をやわらかくして言った。そんなのが不思議じゃないのはサーカスの中くらいの話で、いやそのサーカスにいたってそんな不可思議な少年の事、知名度があがって目立ちそうだ。
ちらりと隣のメイドの少女に視線を向けるが少女はまっすぐ肉屋を見ていたのでそれ以上見続けるのはやめておく。
だってヤツェンコがじっと熱い視線を向けている。最近少女趣味について上司がうるさいのに、ニックまで巻き添えを食うつもりはない。
一応、ヤツェンコの名誉のために言っておくと、彼は決して少女趣味じゃない。年上の妻をもっているし。
「で、そのガキは何したんだ?」
「密入国だよ。何故かその乗り込まれた船の船員は乗組員だの一点張りでいまいち要領を得ないんだが」
「乗組員なら密入国じゃないだろう」
肉屋がしかめっ面で言った。
最近捜査にあまり協力的でない市民が増えていて、警察署内で問題になっているのだが――肉屋の主人がヤツェンコの方を見て言うものだから、この時ばかりはむしろ申し訳なく思った。
営業妨害といわれる前に早めに用件を済ませよう。ニックは別れの言葉を言って立ち去ろうとしたのだが。
「それが船を下りて迷子だそうだ」
突然ヤツェンコが会話に混ざる。切り上げるには早いと判断したのだろうか。
それとも、彼も協力的でない市民が増えている事に腹立たしく思っているのかもしれない。
「それは密入国じゃなくて迷子じゃないのか?」
「でも船はもう出港しちまったし、この国にいるらしいからやっぱり密入国なんだ」
「行方不明者じゃないのか?」
「あぁそうかも…巡査長、どうなんでしょうかッ!!」
大きな声でヤツェンコが言った。軍隊じゃあるまいし。
「とりあえず捕まえてから話を聞こうと思ってるよ、子供らしいしな」
なんて刑事二人は話し合ったが、ふーん、と肉屋はあんまり興味がなさそうな様子。
肉屋の主人がチーン、とレジの音を鳴らしておつりを取り出しメイドに渡すと、メイドはそれを背伸びして両手で受け取って、大事そうに小銭入れらしき袋にしまった。そうして、それを買った肉と一緒に編みバッグの中に入れる。
ニックの隣でヤツェンコがいまだにメイドを見つめていたので、
「何見てるんだ」
と肘で小突いて警告しておく。
「いやかわいいなと思いまして」
「おいお前娘がいるのに洒落にならんぞ」
ニックが驚いた顔をすると、ヤツェンコは顔を真っ赤にして慌て、
「違う!!いえッ、違います!!俺の娘も育つんならこんなかわいい子になってほしいと…」
恥ずかしそうに幸せそうにそう言った。
そんな風に言うものだから、ニックも思わず毒気を抜かれて、
「あぁそう」
とだけ言って肩をすくめた。
そんな風に2人がこそこそ――途中なんどかヤツェンコが大声を出したものの――話している間に、メイドの少女は買い物を追えて、「ありがとーございました」とぺこりと礼儀正しくお辞儀して店を出て行った。
「いい子だな」
「えぇ、俺の娘みたいです!!」
ニックはヤツェンコの妻がよくやんちゃすぎる娘についてニックの娘に相談している事を言おうか悩んだがやっぱりやめておいた。
わざわざ知らせてやったって信じやしないだろうとおもって。
尚もヤツェンコが聞き込みをしようとしたのでそれを遮って店を出る。これ以上は相手を怒らせるだけだ。
そうして二人は歩き出したのだが――そういえば、とニックは思い出しぐるりと周囲を見渡した。
「あのメイド、子供だったな」
メイドは市場のほうへ向かっているらしい。
後姿はだいぶ小さくなっていたが、人ごみの中に編みバッグをもったメイドを見つけた。
「それがどうかしましたか?」
「何、あのメイドの遊び相手とかだったかもしれないだろう?」
「あぁ…メイドって働いてて遊ぶ時間あるのでしょうか?」
まともな意見が帰ってきてニックは失礼だが少し驚いた。
「それもそうか」
メイドの少女が人の波に呑まれて行くのを見送って、そうして二人は歩き出す。メイド服をきたタイガとは逆の方向に。
「どこへいくんですか?」
「偏屈ばあさんのところへな。アレは酷い偏屈だから、嘘を言わないし誰かのための隠し事もしない」
お茶目に笑ってニックが答えた。そういうものだろうか?とヤツェンコは内心で首を傾げたが、表情には出さない。
ニックの…そう、この仲間からの信頼の厚い老警官の言うことだ。恐らく間違いはないのだ。
そうでなくても、ヤツェンコは基本的に上司というものを信じて疑問を持たないタイプなので――だからこそ、ニックの表情にほんのわずか、憂いの色があったことに気がつかなかった。
そう。あの偏屈は誰かのための隠し事はしない。昔からそうだった。
たった一人を除いて。
そしてその相手はもういない。
もういないのだ。
「あら、ニック。何か浮かない事でもあった?」
声が上から降ってきた。二人が声がしたほうへ顔を向けると、ベランダで花の手入れ中らしき婦人が、霧吹きを手にひらひらと手を振っている。
「やぁロマーナ。教会が少し遠く感じるくらいだよ」
「よく言うわ、あなた家の父より元気じゃない」
二人で笑いあう。
ヤツェンコはニックの顔に広さにびっくりしながら、いつものようにビシッ!と背筋を伸ばして"きをつけ"をして待機する。
「そうだ、あれから"その子"らの調子はどうだ?」
「あぁ、そう!あなたの紹介してくれたお花屋さんがとても素敵で。…じゃない、丁寧に教えてくれたわ。湿度が原因だったんですって、ありがとう」
そう言って、ロマーナはバラの咲く小さな鉢植えを掲げて見せる。
去年までは病気で枯らせてしまい、彼女のバラが咲いているのを見たことがなかったが、紅色の薔薇の花が、ニックの位置からも美しく咲いているのが見えた。
「それはよかった。綺麗に咲いてる…あぁそう、ここらで虎が出たらしいけど無事だったか?」
ニックが本題を聞くと、ロマーナは笑って、
「あぁ、あの噂。小さな虎ね?大丈夫よ、本当に走り去って行っただけみたいだから、噂に尾ひれがつけられないってうちの旦那が文句いってた位だもの」
「はっは。あのマシューがそう言うならホントに何事もなさそうだ」
「旦那は残念がっていたけれど。そうだ、今度食事会するからニックも来てね。招待状送るわ」
「ありがとう、必ず行くよ」
「身内の、堅苦しくない会だから。それじゃあ」
それじゃ。
二人で言い合い、ニックは歩き出し、ヤツェンコもキビキビ彼に従った。
そうしてしばらく歩いてから、ニックは徐に喋りだす。
「ロマーナは夢中になると周りが見えなくなるんだがな、友人を大事にするいい子だよ」
「はぁ…?」
「そしてマシューは噂好きで、どんな噂も大事にしようとする困ったやつだ」
ヤツェンコのよくわからなさそうな顔を見て、にやっと笑う。
「聞き込みって言うのはこういうもんさ。見ず知らずの他人に話を聞いたって、価値のある情報は中々もらえない。だが仲がいい相手にだったら、ちょっとした秘密や本当に価値のある情報ってもんを教えてもらえる」
ヤツェンコがぽかん、とした顔で驚くのを見て、ニックはしたり顔で微笑んだ。
「市民が非協力的じゃないのさ、聞き込みをするときは相手の立場と、性格くらいは最低でもわからないとな」
それが、ニックの長年警察をやってきて得た教訓だ。
ニックも新人の頃は警察に従うのは当たり前だと思っていた頃があったものだが、自らの立場で考えて、何年も経ってようやく気づいた。
警察に従うよりも、法律に従うよりも、大切なものはたくさんある。
そして誰しも大なり小なり形は違えど、脛に傷があるものだ。
大切なものは守るものであり、誰もが自分の傷なんて晒したくはない。
それを喋るなら、顔も知らない警察官などではなくて、いつだって親愛なる家族であり、恋人であり、そして友人に喋るものなのだ。
「相手の嘘を見抜くほうがよほど簡単だ。だがそんな人間は同時に信用を失い嫌われる。嘘は悪ではなく、善でもあり、皆隠したいからこそ嘘をつくからだ、忘れるな」
「ですが、長年勤めていると嘘が見抜けるようになるのでは?」
ヤツェンコが珍しく上司に意見を述べたのは、"俺達に見抜けない嘘はない"と刑事達――つまりはニック以上の上司が自慢げに言っていたからだ。
そしてそれは犯罪者と関わるうちにそうなっていくものなのだと。
その理論でいうのなら、ニックもまた嘘が見抜けるのではないのか、と。
「確かにな。私も嘘かどうかは大体わかる。だがそういう事じゃないんだ、ヤツェンコ」
納得いかない。そんな表情をするヤツェンコにニックは苦笑して、お節介だと自覚しながらもう少しだけ言葉を続けた。
「嘘をつこうとする人間が俺達にわかるように、相手の嘘を見抜こうとする人間も多くの人間に分かるんだ。だから、普段から嘘を見抜こうとしていると、大切な友人ってのがいなくなる」
そして困ったことに、仕事とプライベートというのは別物のようで隣り合っている。
仕事で相手の嘘を見抜こうとして生きていると、プライベートでもそういう面が顔を現すようになる。
プライベートでそういう面が出てしまったら、つまり警官というのはそういう人間達なのだ、と今度は仕事に不信感を抱かれ嫌われる。
人生というものの難しい所だ。
「了解ですッ」
ビシッと敬礼するヤツェンコに、ちゃんと伝わっただろうか、とニックは疑問に思ったが…これ以上言ったところで意味はない。
もしかしたら、老人のよく言う長くつまらない説教だと思われ、まともに聞かれてもいないのかもしれない。
そう思うと、とても寂しいが――自分が老人である限り、これはどうしようもないのだろう。
だからせめて、ちゃんと伝っているか、或いはいつか自分で気づいてくれることを祈りつつ、やがて二人はあるアパートの前へとついた。
ニックは迷わず、ある一室の前に行く。一階の、一番奥。
インターフォンを押す。
ジー、という呼び出し音の後、しばらく待つと、ガチャン、と重々しく扉が開き、しかめっ面の老婆が顔を出した。
「懐かしい顔が来たもんだ」
「元気でやってるか、義姉さん」
「はン。こんな老いぼれが元気なわけないだろう」
そう言いながら、老婆は部屋の中へと戻っていった。
ニックも部屋の中に入る。ヤツェンコは入るべきかどうか少し悩んだ後で、後に続いて扉を閉めた。
身内の家だ。多分入られたくないなら老婆かニックのどっちかが言うだろうとおもって。
にゃあにゃあと猫達が鳴いてニックとヤツェンコを取り囲む。ニックはその中を進み、ヤツェンコはその場で立って待つことにした。
老婆はゆっくりと安楽椅子に腰掛けて、深く息をつく。そうして手の届く位置にあるパイプをつかむと、そこにタバコを入れて火を灯した。
「で、なんだい。どうせなんかの捜査なんだろ」
「あぁ、そうだ。まぁ言いたい事は他にもあるがね」
ニックは部屋のソファーの背にもたれて言う。老婆が暮らすこの家から、向かい合う椅子がなくなって久しい。
「虎の事だ」
「虎ァ?」
眉間に皺を寄せて、いかにも険悪に老婆が言う。
ニックは肩をすくめて、
「まぁ信じがたい事ではあるがね。それでもそういう話が広がっている」
「知らないよ。知ってたらそりゃ痴呆だろう」
老婆はふん、と鼻息一つ。パイプをぷかぷかと吹かす。
言うと思ったよ、と俯きながら、内心でニックは呟いて。
「じゃぁ虎の尻尾を持つ少年は?」
間が。
あった。確かに、間が。
「…お前、頭大丈夫かい?」
そして老婆はそう言った。
偏屈な老婆がそう言った。
酷い偏屈だから、嘘を言わないし誰かのための隠し事もしないその人が。
俯いたまま、ニックは笑って。
「あぁ、全く。ファンタジーじゃあるまいし、俺もおかしいと思ってた」
晴れやかに笑ってニックが言った。
ふん、と老婆は鼻息を一つ漏らす。
「ヤツェンコ、行こう」
刑事を促し、ニックが部屋の扉を開けて――思い出したように振り替えり。
「あぁそうだ、義姉さん。命日はいつも俺の家で集まってるんだ。気が向いたら来るといい」
そんな言葉を残していった。
ふん、と老婆は鼻息をひとつついてから、安楽椅子にゆらゆら揺られながら瞼を閉じた。
唇に、本当にかすかな微笑を浮かべて。