なな
暗い。
夜の闇が、港町をすっぽりと包み込んでいる。
遠く海鳴りの音がする。タイガの耳――獣の耳が、ぴくぴく動いて潮のざわめきを聞き取った。
入り組んだ道の先。建物と建物の隙間にある、光の届かない細い裏路地。
白の町並みは黒に溺れて、月明かりだけが寄り添うように落ちていた。
暗いはずなのに、暗くなかった。
暗闇の中なのに、物の輪郭がはっきりと見える。
そんな特異な視界。
けれどタイガにとって、その感覚はそれほど特異なものではなかった。
虎の尻尾と、虎の瞳に自分の体が変わったときから――右目はいつもこんな視界を映していたから。
ただ、それが。
今は両目とも、同じように映っているだけで。
タイガが自分の手を見つめると、そこに既に人間の手はなく。
肉球のある、虎の手のひら。
まだ二本足で立っているけれど。髪の毛はまだ人のものだけど。
肌からは柔らかな毛が隙間なく生えている。ローラの作ってくれた服の下、お腹の辺りにはふかふかの白い毛も。
その毛のおかげで、寒くはなかった。
人のままならきっと寒かっただろう。海風は夜になると、一層冷たさを帯びて吹き付けるから。
くぅ――とさびしくお腹がなった。
あれから、二日がたっていた。
その間、水以外何も口に入れてない。
タイガが旅を始めたのは、そんなに昔のことではなくて。
獣の姿をしていても、食べられる草は知らないし、狩…どころか釣りさえした事がない。
生まれてから給金というものをもらったこともなく。
タイガは、本当にただの少年でしかなくて。
野宿の経験はあったけど、たったそれだけ。
自分一人では、ご飯にありつくこともできなくて。
それでもいままでだったら、掃除をして、頼まれた事をして、その日のご飯をもらえていた。
そうしてタイガは生きてきた。
けれど、もう。
人前に出るだけで悲鳴を上げられる。
こんな姿じゃ、もう。
物陰にうずくまって、体を丸めた。
立ち寄ってくる足音に気づいて、顔を上げたけれど――その人はまだ遠く。
確かめるように、一歩一歩近づいてくる。
おっかなびっくり、怯えるように。
タイガは逃げようと思ったけれど…逃げようとしていたのだけれど。
動けなかった。
お腹がすいていて。誰かがくるたびに出ていたから、疲れていて。
そして何より――寂しくて。
「お、おーい、タイガ?タイガいるか?」
だから。
アルのそんな、おっかなびっくりとした小さな声に、思わず涙がこぼれ出て。
そうして思わず笑ってしまった。
人を探すのにそんな小さな声で呼びかけたって。
きっと人の耳でなら、聞き取れなかった。
そんな小さな、小さな声。
タイガの出した笑い声に、アルがうひゃわぁっ、と情けない叫び声をあげた。
「な、なんだタイガか。くそ、いるならいるって言えよ!!怖いだろ泣くぞ僕、ホントに泣くからな!?」
なんていいながら、既に半泣きで。
きょろきょろ忙しなく周囲を見回しながら、タイガの前へと歩いてきて。
「言いたいこととか、わかんない事とかたくさんあるけど」
そう言って、アルが手を差し出した。
その手に何かがあるわけでもなく。
ただの手のひらを。
けれど手のひらを。
「お前を家族と思ってるって、どんなになっても家族だって、そう伝えろってローラからの伝言」
ぶっきらぼうにいいながら。
おそるおそる伸ばすタイガの手を取って。
「帰るぞ、タイガ。あと――」
あと、と。
言った後で、アルはしばらく言葉を濁して、ものすごく嫌そうな、恥ずかしそうな顔をして。
きっと暗闇で、タイガからアルの顔は見えないだろうと思ったから…その表情を隠さずに。
「嘘をつけなんて言ってごめん。お前は何にも悪くないのに」
謝った。
ぽろぽろ、ぽろぽろ。
タイガの獣の頬を涙が伝って。
「―――うんっ」
嬉しそうに、頷いた。
それを横目でアルは見て瞬きをした。ほんの一瞬。
その、一瞬で。
「あれ?タイガ、お前」
タイガが不思議そうな顔をする。
ぱたぱたと尻尾を振って。
人間の――そう、アルとはじめてあったあの日と同じ。
"片目"が猫科の不思議な瞳。ズボンからトラの尻尾を覗かせる――"少年"に、なっていた。
「まぁ、いっか」
虎になったのがファンタジーなら、戻るのだってファンタジーだ。
アルはそう結論付けて、タイガと二人、大通りへと向かっていった。
そうして二人で家に帰ると、ローラがリビングで待っていて、両手を広げて二人を抱きしめ迎えてくれた。
「おかえり、タイガ。おかえり」
おかえり。
そう繰り返すローラの言葉が優しくて、暖かくて。
タイガはまた、ぽろぽろ泣いた。
泣きながら、
「ただいま」
ただいま、と。タイガも何度も繰り返した。