ろく
12/11/14 ニックのキャラクター描写加筆修正
頬を真っ赤に腫らしたアルが署にもどると、ぶっ、と噴出して笑う失礼なヤツが一人。
「なんだアル、浮気でもしたのか?」
「してないよ…ちょっとね」
しわがれ声に振り返る。予想通り、ニックだ。
ひりひりと痛む頬を押さえて、アルは自分の机に座った。
「ちょっと?どうした、珍しく機嫌悪そうじゃないか」
言いながら、ニックはアルの前へとやってきた。
全体的に痩せてはいるが、彼のお腹だけはビールの飲みすぎとつまみ食いのしすぎでちょっぴりメタボに膨らんでいる。
老いて白くなった髪に、長い月日陽に焼けて黒ずんだ肌を持つ老警官で、アルより階級的には下の、巡査長。
愛想のいい顔をしておいて口調は少し荒っぽいが、暖かな声が不思議と耳に心地いい。
人当たりがよく、皆に頼りにされている。例えばそう…相談事があれば大抵、ニックが頼りにされるくらいに。
アルはタイガが出て行った話をしようとして、口を開いて。
「…通りがかった女性が転んでね。手を差し伸べたら平手打ちだよ」
「あっははははは!!」
嘘をついた。
ニックがお腹を抱えて明るく笑い、釣られたように近くの婦警までぷっと噴出して笑った。
アルがぶすっとした顔になるのを見、ニックはやれやれ、とでも言うような顔で
「でも、嘘だろう?」
アルにだけ聞こえるように小さな声でニックが言って、苦々しい顔でアルは頷いた。しわだらけの顔を歪めてニックが笑う。
嘘をついた理由はいくつかある。
例えば仕事中に家に帰っていたなんて言い出しづらかった、とか。
ついでにその理由…つまり警部補が子供に財布をスられたなんてとてもアルには言い出せなかったから、とか。
タイガが獣の姿になったなんて、言った所で信じてもらえないだろうから――とか。
「そういえばアル、知っているか?今日お前の家の近くで虎がでたんだそうだ」
ズダァン!!とアルが椅子から落ちた。
「お前はへたれだ、へたれだと思ってきたが…聞いただけでそこまで驚く事ぁないだろう」
呆れ顔でニックが言う。
「いや、びびるよ。そりゃビビるよ!!なんだよ虎って…動物園じゃあるまいし」
そうしてまたアルは嘘をつく。
そういえば彼にはタイガの事を…というか、"最近孤児の面倒を見ることになったんだ"というような話はした気がするのを思い出し、まずいかなぁ、水を向けられたらうっかり話しちゃうかもなぁ、とそんな考えがちらりと脳裏を横切った。
ニックは信心深いので、その話をしたときには「お前はいい心といい奥さんを持った」とすごく喜んで褒めてくれて、飲み代を彼がおごってくれまでした。
思わずタイガへの態度も軟化したものだったけれど…なんて思いながら、それでもとにかく、ガタガタと椅子を鳴らしてアルは座りなおして、めんどくさそうに書類を眺めた。
既にその報告は書類となってアルの机の書類の山の、一番上に乗っていた。
小型の虎縞の二足歩行の動物が、いくつかの場所で発見され――逃げた方向の予測までもされているらしい。
「うわ、最悪。スラムのほうじゃん」
「というよりも、俺は街中に突然虎が現れたほうが驚きだがね」
肩をすくめてニックが言う。
アルは家から持ってきた安っぽいシャープペンを――アルが拾った高級ペンは家用のペンにすることにした。警視総監の物かもしれないペンを職場使うほどアルの神経は図太くない――くるくると指で弄びながら、椅子に背中を預けて考え込む。
ローラにビンタされて、タイガを連れ戻すから家でまっていてくれとどうにかこうにか頼み込んだまではいい。
そうでなければ、きっとローラは自分ひとりでスラムとか、危ないところまで出かけて行っただろうから。
それはいやだ。
アルは確かにダメ警部補で、仕事であっても裏路地なんかには足を踏み入れたりはしない人間だけれど――いや、むしろだからこそ、そこに怖いものがある事を知っている。
そこにローラに足を踏み入れて欲しくなかった。
例えタイガの為であっても。
書類をじっくりと眺める。被害にあった人間は…驚いて腰を抜かしたお爺さんが腰痛の治療費を請求しているくらい。
小型の獣はただ街中を駆け抜けて、人気のないほうへ走り去っただけ。
アル自身は気づかないけれど。
タイガが誰かに危害を与えたりしていないことに、ほっ、と安堵のため息をついて、アルはその書類を脇に除けた。
「なんだ、てっきりスラムの方へ行くかと思ったが」
おや?という顔をして、ニックが言う。
「まさか。僕を誰だと思ってるんだい?alwaysのアル、スラムなんかお断りだよ」
そう言うとニックはにっこり笑って、
「まぁそうだな。だが俺は何かを気にしているように思えただけさ」
「…僕の家の近くに出たって言うからね。被害者とかが出ていないかなとおもったんだよ」
なるほど、愚問だったかとニックは笑って言って、同僚に呼ばれてそちらへ歩いていった。
歩いていく、まるでそのついでのようにして、
「もし自分が行くべきと思ったなら、その時は躊躇わないほうがいい。後悔というのは後に引くし、そういう時は神様が行けと言っている時だ」
そんな言葉を残していった。
「神様、ね」
ニックと違ってアルは信心深くなどない。
教会にだって、日曜礼拝さえ行かない時があるくらい――というよりも、あれでローラが以外に信心深い人なので、その付き合いでしかない。
アルは書類に視線を戻し、一枚一枚処理をしていく。
その書類の中に、とある事件を見つけて思わずアルは動きを止めた。
密入国。
黒っぽい、茶色の髪の少年が、船に密航しこの国へとやってきたのだという。
「お前は…こんな。言葉も分からない国に、何をしに来たんだよ」
呟いた言葉は署の喧騒に紛れて誰にも届く事はなく。
結局アルは、そうして黙々と自分の仕事をこなしていった。