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アルが署から飛び出した少し後。
タイガが日課のアパートの掃除と、偏屈と名高いあのおばあさんの家の掃除を終えた頃。
「タイガ、ちょっと買い物お願いしていい?」
お昼ごはんを食べ終えたタイガに、ローラが頼み事をした。今日のタイガはローラが手作りしてくれた服に、あの黄色い猫帽子姿。
ローラから頼まれるのは珍しいことで、だからタイガはすぐに頷いた。
頼りにされて嬉しいのか、虎の尻尾がゆらゆら揺れる。
ローラがタイガにお金とメモと、手製らしい編みバッグを渡して、
「お肉屋さんと、市場ね。お肉は鶏肉。いい?鶏肉と、卵よ。卵は割れやすいから気をつけて」
「とりにく、と、たまご。たまごは割れやすいから後で買う!!」
「そうね、タイガ、よろしくお願いできるかしら?」
優しく笑ってローラが聞いて。
「うん!!」
タイガが元気に頷いた。そのままタイガは外へ出かけようとして、
「あ、タイガ。ちょっと待って」
ローラに呼び止められて、不思議そうな顔をして振り返る。
ローラはかがんでタイガと視線を合わせてから、人差し指をぴん、と立てて言う。
「でかけるときは、"行ってきます"よ」
「いってきます?」
タイガが首をかしげる。
やっぱり知らなかったのね、とローラは一人納得しながら。
「そう。ちゃんと家に帰ってくるために、"行ってきます"ってそういうの。そうして帰ってきたときに"ただいま"って言うためにね」
こくこく、タイガは頷いて、
「行ってきます!!」
と元気に言った。
「行ってらっしゃい」
ローラが笑顔で送り出す。
タイガ一人でおつかいをさせるのはローラは――実際には何度も他の住民から頼まれているらしいけれど――はじめてなので、扉が閉まってから少しだけ不安そうな顔をした。
「いってきます、いってきます、行ってきます…」
そうして何度か"行ってきます"と"ただいま"を繰り返しながら、タイガはアパートの外へ出る。
太陽が頭上でキラキラと輝いていた。降り注ぐ暖かな日差しに、タイガは嬉しそうな顔をして、石畳で舗装された道を歩いていく。
白い家々のベランダに花壇が置かれ、薔薇やベルフラワーの花が美しく咲いていた。
真っ白なちょうちょがひらひら舞うのを追いかけたくなる衝動に駆られながらも、ローラと一緒に買い物をして覚えた道を、正確に行く。
途中ですれ違う人々と挨拶しながら、そうしてまずはお肉屋さんにやってきた。
目を閉じて、思い出す。
とりにく、と、たまご…たまごは割れやすいから後で買う。
そうしてぱっちり目を開けて、よし、とひとつ頷きお肉屋さんの前に立つ。
店内のスペースがほぼなくて、通りにそのままお肉のショーケースが構えている、小さなお店。
「とりにく、ください」
「おー。いらっしゃい、今日はどんくらいだい?」
ショーケースの向こう側で、ふとっちょの、ひげの生えた肉屋の主人がにっこり笑った。
割といかつい顔立ちなのだが、そうして笑うと愛嬌がある。アルとローラの住むアパートの住人は、大抵がここでお肉を買うので、おつかいを頼まれるタイガもすっかり顔なじみの常連客。
「えっと」
ポッケにいれたメモを取り出して、睨むことしばし。
「これだけ」
そう言って、メモとお金を差し出した。タイガはまだこの国の文字が読めない。
笑って肉屋の主人が二つを受け取って、慣れた手つきでお肉を包んだ。
お肉と一緒にお釣りも返す。タイガはそれをきちんと編みバッグの中にしまってから、ぺこり。
「ありがとうございました」
言いながらタイガがお辞儀をして、
「こちらこそ、まいどどうも」
また来いよー、という肉屋の主人の明るい声に送られて、タイガは肉屋を出て市場に向かう。
潮の香りが、やがて魚や果実、食べ物屋など色々なものが交じり合う、市場独特のにおいに変わっていく。
鼻をすんすんとさせながら、タイガはわくわく市場に向かった。
が、何やら市場のほうが騒がしい。何か珍しいものでもあるのか、野次馬ができている。
ちょっと気にはなったものの、それよりもローラに頼まれたおつかいのほうが大事。
そう思って、タイガは市場でたまごを売っている場所に行こうとして――立ち止まる。
呼び込みの声じゃなく、なんだか、そう、聞きなれた声がして、野次馬の中に入っていった。
ぎゅうぎゅうに押しつぶされながら――卵を買う前でよかったとタイガは思った――帽子を押さえて進んでいくと、あるところですぽん、と人波が途切れてタイガは中心に転がり出た。
帽子の位置を直しながら、視線を前に向けると、予想通りというか。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「アルー」
アルがいた。半泣きで額を地面にくっつけて、腕を組む大柄な店主に謝っている。
スーツのあちこちが汚れていた。ローラにまた怒られちゃうのに、どうして汚すんだろう?とタイガはちょっぴり不思議に思った。
「――タイガ?」
タイガを見つけたアルの顔が、それはもう一瞬で喜びの表情に変わって、
「タイガお金もってないかお金!」
「…おかね?」
どうして?とタイガは首を傾げるが、アルはばたばたと駆け寄ってタイガの持ってる編み袋をひっつかみ、そこからお金を取り出すと、
「いやっほうついてる!セーフ!助かった!!こ、このお金で、お釣りはチップで!!ね?」
タイガが止める間もなくそのお金をひっつかみ、腕を組む店主に差し出した。
「――まぁ、俺は金さえ払ってもらえるなら構わねぇがな」
冷たい視線で店主は言って、店に戻った。
ふー、と緩んだ笑顔でアルはため息をつく。タイガはぷくーっ、と頬を膨らませ、
「おかね!!」
と手を差し出した。
「はぁ?今はないよ…あったらこんな目にあってないっての」
「たまご、買えない!!」
タイガは腰に手を当てて――ローラの真似だ――怒って言った。
周囲の野次馬は一旦は周囲に散り始めたが、タイガの言葉に足を止め、"おつかいする子供からお金をとった大人"にじろりとさっきより強い視線を向ける。
「あー…いや、ほら、家に帰ったら渡すからとりあえずこっち!!」
アルは周囲の視線にごまかすような笑みを浮かべて、タイガの手を引っ張った。
薄暗い路地裏なんて仕事でなければ絶対に避けて行くのがアルの人生で、性格だが、こんなときだけは別なのか、薄暗い路地にタイガをひっぱりガリガリと頭をかいたり首を左右にきょろきょろとしきりに振りながら、
「サイフをスられちゃったんだよ!!お昼を食べ終えるまで気づかなかったんだ、しょうがないだろう」
情けない声でそう言った。
「すられ…?」
「盗まれたの!!」
タイガはよくわからなさそうに首をかしげて、
「たまご、買えない」
メモを突き出して、困ったようにそう言った。
そこには彼の妻の字で、お肉の注文と、たまごの注文。それにきっと店主に手渡されるだろうこのメモへの配慮なのか、言葉がまだうまく使えない子です、とか、ありがとうございます、とか丁寧な字で書いてある。
「あー…それにはほら、ぼくも謝るから。あ、それとぼくがサイフをすられたなんていうなよ!!」
タイガは言われて首をかしげる。
「あーなんていえばいいんだめんどくさいなァ。ぼくのせいじゃないの。いい?僕の所為じゃ、ない」
アルがよく口にする言葉だったので、"僕の所為じゃない"という言葉はタイガにもわかった。
「でも、たまご買えないの、アルのせい!」
「だーかーらーァ。確かにそうだけどそうじゃないんだって…そんな顔したって、僕だって困ってるのに」
ぶつぶつ言って、アルはタイガの手を引っ張った。
「どこいくの?」
「家だよ。無一文じゃいられないんだよ大人は」
はーぁー、と情けないため息をついてアルはタイガの手を引っ張っていく。
納得のいかない顔をしながら、それでもタイガはアルについていき、そうして二人、家の前へと辿り着いた。
「僕の所為じゃないからな。頼むから余計なことは言うなよ」
アルがタイガの顔を見て言った。ぷぅー、とタイガがふくれっ面をしているのを見て、
「しょうがないだろ…これ以上ローラを怒らせたくないんだよ!!」
アルはそう言って、鍵を開けて扉を開く。
タイガが驚いたようにアルの顔を見たのに気づかずに。
「おかえりタイガ。買い物はできた?」
にっこり笑ってローラが出迎えた。けれどアルがいるのを見て、汚れたスーツを見、タイガの表情を見て訝しそうな顔をした。
「タイガ?」
「やー、参ったよタイガが転んで小銭を落としたんだって。それを拾おうとしたんだけどさ――」
ローラの声を遮るようにアルが言った。
けれど、ローラはそれを最後まで聞かずに、
「タイガ、本当?怪我はない?」
そっと優しくタイガの頬に手を当てて聞く。
ぽろ、と。
タイガの片目…人の瞳から、涙が。
零れて。
「ほ――」
ごくん、と喉を鳴らして。
まるで何かを飲み込むように。
「本当、だよ」
笑っていった。
「タイガ?」
泣き出しそうなその笑顔に、アルとローラは不思議そうにタイガの顔を見て。
ぴょこん。
変化はその時現れた。
「あっ」
と声を上げて、タイガが帽子を押さえつける。
けれど確かに、二人は見た。帽子を一瞬押しのけた、虎の耳。
「ほ、ほんとだから、本当だから――!!」
タイガがローラの手を振り払い、外へと飛び出す。
「タイガ!!」
ローラが叫ぶような声を上げて追いかけようとして、扉を出た所でびくりと体を震わせ思わず動きを止めてしまった。
走っていくタイガの手が――獣のようなソレになっていて。
腕から毛皮が生えていて。二足歩行ではあるけれど――足の骨格が違っている。
そんな、まるで小さな獣のような姿が視界に入った瞬間、思わず足が止まってしまった。
「なん、だよそれ…」
遅れて顔を出したアルも、呆然と見送るばかり。
それでもローラは気持ちを奮い立たせて、「あ、ローラ!?」と叫ぶアルを置いてエレベーターに乗り込んだ。
一階のボタンを押して、中々閉じない扉に苛立ち、閉じるボタンを連打する。
柵のような扉がキシキシ鳴ってゆっくり閉じて、ガタガタと揺れながら下に降りる。
そうしてローラが一階に辿り着いたとき、小さな獣は周囲に見当たらず。
ただ――獣の足では履けなくなった靴と、タイガの猫帽子。それから肉の入った編みバッグが、忘れられたように落ちていた。
ローラはぼんやりとそれを拾って、視線を上げた。
道で落し主を探すように。
けれど――タイガは帰ってこない。
遠く、誰かの悲鳴が聞こえる。
ローラはふらふらとそちらにむかって歩き出そうとして――肩をつかむ手があった。
「ローラ」
アルだ。
そうわかって。
涙が一筋ローラの頬を伝って、
ぱん!!
手が頬を打つ、乾いた音の後。
周囲にローラの罵声が響いた。