よん
署についた。
僅かずつではあるものの、確実に気温は夏に近づいていて、走って休み走っては休みしてよろよろと職場に辿り着いたアルのシャツは汗でびっしょりと湿っていた。
ちなみに、自宅から署まで走り続ける体力なんてアルにはない。
あぁシャワー浴びたい。アルは思うが、そういうわけにはいかない。なぜって警部補ってそんなに偉くないから。
また遅刻ぎりぎりだよあの人。という冷たい視線を向けられながら、こそこそと自分のデスクに向かう。
椅子にすわって一息。首の汗をハンカチで拭いて、
「えー、と。今日の仕事はっと」
意気込んでみる。意気込んでみるフリだけでも。
今日のお仕事は探すまでもなく書類が机の上にどっさり乗っていた。勿論そんなの椅子に座る前からわかっていたけどちょっとそんなことを言って現実逃避したくなっただけ。
最近署内で拾った高そうなペン――神様からのプレゼントだとアルは供述――を胸ポケットから取り出して、少しでもやる気を出そうとしつつ書類に目を通し始めた。
一番上の書類には、"署長のお気に入りのウィスキーを飲んだ犯人について"という大きなタイトル。
あぁ、これはしってる。
だって僕一緒に飲みませんか、って誘われたからね。嫌な予感がして断ってよかった、と思わずアルは笑顔になった。
あれだ、えーと。ロシアじゃなくて…どこ出身?とにかく、こうヤツェンスとかいう。
犯人はYa…まで書いて少し考える。
よく考えたらスペルがわからない。むしろ名前があってるか自信がない。違う課だし、あたりを見渡しても本人いないし。
「ねね、最近新入りの…ヤツェン…ヤツィン?ロシアっぽい名前のヤツいたじゃん。彼のスペルってわかる?」
分からなかったので通りがかった婦警を捕まえて聞いてみた。
婦警は露骨に迷惑そうな顔をしながらも、それでも律儀に答えてくれる。上司だし。
「ヤツェンコですか?ヤツェンコフスキーですか?」
まじかよ。と思わずアルが固まった。
勿論そんなのアルが覚えてるはずもなく、顎のそり残したひげをなでながら必死に思い出す。どんな顔だっけ。
「あー…えーと。ゴツイほう」
「四角とゴリラのどっちです?」
両方ゴツいのね…それと四角もゴリラも大して変わらないようにおもうなぁ僕、と思わずアルは苦笑を浮かべた。
それは婦警も同感なのか、苦笑して…ふと、入り口あたりに視線を向けた。
「あ、あそこにヤツェンコがいますよ。ヤツェンコ」
「待って!!」
ひらひら手を振ってヤツェンコフを呼ぶ婦警をアルが慌てて止めようとするが遅かった。
のしのしと巨漢が歩いてくる。制服がすごくぴっちぴちの。男が制服をぴっちぴちにしてたってちっとも嬉しくないのに。
とても強面なので、思わずひ弱なアルはカチカチの笑顔になる。とりあえず気にいらねぇ!!とか言われないように。いじめられっこだったのだ、昔。
「ところであれはゴリラか四角のどっちなの?けむくじゃらの四角い顔をしてるんだけど」
歩いてくるまでの間に、早口で小さく婦警に聞いた。これから間違わないように。
「四角です。ゴリラは眉毛がつながってます」
婦警もひそひそ早口で返し、それをさきにいってくれよ!とアルは内心で悲鳴を上げた。
だって、そのヤツェンコフが犯人で今手元の資料に名前を書こうとしてたんだから!!
どう思い返したってアルの記憶に犯人の眉毛がつながってたような記憶はない。
「どうしました?」
しかし時は既に遅く、四角が目の前に来ていた。アルが座っている所為もあるがかなりデカくみえる。
どうにか左腕で"署長のお気に入りのウィスキーを飲んだ犯人"の部分を隠して、右手でペンをくるくるまわした。
「警部補が名前のスペルを知りたいんだって」
「いやこうほら、何かあったときのために知っておこうと思って」
ん?とヤツェンコ怪訝そうに首をかしげたが、
「アイ、エー、ティー、エス、イー、エヌ、ケイ、オゥです!!」
大きな声でいった。
まじかよ。Iとか予想外だぞ。思わずアルは固まって、右手で回したペンがぽーん、と飛んでゴミ箱の中におっこちた。
あぁ僕のペン。
思わず婦警もヤツェンコも無言になって、そうなるとアルにつらい沈黙が舞い降りる。
「ところでその書類は?」
「あーいや、なんでもないさ。えー、犯人はヤスっと…」
適当に思いついた名前を書こうとして、ペンがないことを思い出す。
立ち上がり、ペンを取りに行こうとしてヤツェンコが気をつけの姿勢のままなのを見て、
「あー、ありがとう。今度…どっかに飲みにいこうね、うん」とごまかしの言葉をひねり出した。
「イエッサー、ありがたく!!」
ビシ、とヤツェンコが敬礼し、アルは苦笑いしながらゴミ箱からペンを取り出した。
あとありがたくって別に奢ったりするつもりはないんだけど…とアルが思ったが、それでは失礼します!!と大声で言って既に四角はどこかへいった。
「ヤスって誰です?」
「…きっと誰かの同僚さ。珍しい名前じゃないよ」
そうかしら?と婦警は首を傾げて、アルの机を覗き込み、
「あ」
アルの机の書きかけの書類をみて、あーそっかー、みたいに頷いて、乾いた笑いをして逃げてった。
くそう逃げたな。今度あったら…今度あったら――飲みに誘って奢ってもらおう。
うんうん、一人でアルは頷いて、椅子にどっかり、座りなおす。
"署長のお気に入りのウィスキーを飲んだ犯人について"。
書類を丸めてゴミ箱にいれる。これで犯人があがったりしたら、どう考えても僕が検挙人扱いされてお先真っ暗だ。
薄暗い路地裏なんて仕事でなければ絶対に避けて行くのがアルの人生で、性格だ。
仕事であってもいかないときはいかないのだ。
さて、次々、と次の書類を手元に持ってきて、
「えー何々」
"視察に訪れた警視総監が紛失した、愛人にプレゼントしようとしていた高級ペンの行方"
「あー。あー、いやー、いい天気だからちょっと僕見回りいってきマース」
バタバタと彼は飛び出した。こうして今日も、アルの机に書類は積み重なっていく。