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それからおおよそ一ヶ月。
タイガはせっせとアパートの廊下を箒で掃いていた。
最初はローラに言葉を教わりながら、家の中を掃除したり、洗濯物を畳んだりしていたのだけど、それでも時間は余ったので、ローラとアルへの恩返しにと、アパート全体を掃除している。
別に二人がアパートの管理人というわけではないけれど、家を掃除したから、次は家の周りを掃除する。そんなタイガの当たり前。
今日の服は例の、タイガがもっている一張羅。
ローラに洗濯してもらったおかげで、今はお日様のにおいがする。
がちゃ、と扉が開いてアパートから住人が出てきた。ぴく、とその音を聞き分けてタイガは顔を上げ、
「おはようございます」
ぺこり。タイガが箒を両手に持ったまま頭を下げた。
「あぁ、おはよう」
ひげ面のおじさんがにこにこと返す。
ゆったりとした足取りで出勤するおじさんを見送って、タイガも箒で掃きながら、階段をゆっくり下りていく。
数週間前、突然掃除をしているタイガを見つけたときは驚いたものの、今ではアパートに住む誰もがタイガを知っていて、今や馴染みの風景となっていた。
ぴく、とタイガがまた足音に気づいて、
「おはようございます」
ぺこり。
「おはよう。今日もありがとね」
「いってきまぁーす」
母親が会釈をし、子供が元気に手を振って、タイガも彼女らに手を振り見送った。
掃除をするいい子ちゃん。
ズボンから伸びる尻尾がなんなのかは分からないけれど、メモとお金を渡せばお使いとかもしてくれる。
タイガに対する評価はだいたいそんな感じ。
それについてあんまり、ローラはいい顔をしなかったけれど、社会になれるためにもなるし、とアルが言ったのでとりあえずは黙認している。
ともすればつまみやお酒をパシらせようとするので、アルの言うことは聞かないように、と言い聞かされているけれど。
「やばいヤバイやばいヤバイ!遅刻する!!」
バタン!!と大きな音を立て、
「いってらっしゃい」
と呆れたローラの声に送られてアルが自宅を飛び出した。
「がんばってー」
「気楽でいいよなぁ!!」
タイガがひらひら手を振って、アルは半泣きでばたばた駆け出し仕事に向かった。
きらくってなんだろう。タイガは首をかしげて、どうせわからないのでせっせと掃き掃除に戻る。
ただ、あとでローラに聞いてみよう、と心の中にメモはしておいて。
そうして一階まで掃除を終えたら、タイガは一階、一番奥の部屋のインターフォンを押す。
ジー、という呼び出し音の後、しばらくそのまま待っていると、扉がガチャリと音を立てて開いた。
「なんだいまたきたのかい?」
「きた!」
箒を両手で大事そうに抱えたまま、タイガは元気に言う。
ふん、と鼻息を鳴らすのは一人の老婆。しわだらけのやせた体で、ドアノブを杖代わりに、腰をくの字にしながら立っていた。
老婆の奥に見える部屋は少し薄暗く、いくつもの目が部屋で光っている。
「ま、いいさ。ただし小遣い何ざやらないよ」
「うん」
こっくり、タイガはうなづいて、老婆と一緒に部屋に入る。
持っていた箒を、玄関に立てかけていると、にゃーにゃー、部屋の中にいたたくさんの猫が鳴き、タイガの足に擦り寄った。
「まったくあたしにはちっとも懐きやがらないくせに」
老婆が渋い顔をする。タイガは猫たちと部屋のものを踏まないように慎重に進んで、そうしてやっぱり掃除を始めた。
いつ来ても猫達の毛ですぐに汚れる老婆の部屋。
老婆は嫌な顔一つせず掃除を始めるタイガに、口をへの字に曲げてふん、と鼻息一つ。
よっこらせ、と億劫そうに安楽椅子に腰掛けた。
タイガが老婆にひざ掛け毛布を手渡すと、
「一応礼はいっとくよ」
不機嫌そうにそう言った。タイガはこっくり頷き、掃除に戻る。
タイガのゆらゆら揺れる尻尾に、猫達が果敢に飛び掛る。時折ぶら下がられて、タイガはにゃっ!!と小さく跳ねるが、それでも意外に猫達に怒ったり追い掛け回したりはしない。
散らばったものを片付けて、洗い物を終えるとタイガは座って猫達にブラシをかけていく。
タイガの周りに猫がわらわらと集まって、順番にタイガの下にブラシをかけてもらいにいき、順番待ちの間はタイガの尻尾に飛びついてみたり、猫同士でじゃれあったりしているのを見ると、なんだかタイガは猫達の親のようにも見えた。
「あんたこのアパートの全員の部屋を掃除してんのかい」
老婆がしわがれた、不機嫌そうな声で言う。
タイガは、ん?と不思議そうな顔をして、
「ちがうよ」
答えた。老婆はますます不機嫌そうな顔をして、
「じゃぁなんであたしの家を掃除しに来る?いっとくが金目のものなんざないよ」
「だって、おばあちゃんが掃除してっていったから」
あん?と老婆はしかめっつらで記憶をたどる。
言われてみれば確かに、アパートの廊下を掃除するタイガに、「ご苦労なこったね。何が楽しいやら、どうせならあたしの部屋の掃除もしてくれりゃいいもんを」とか言った覚えがある気がする、が。
「じゃぁなんだ、あんたは頼まれれば誰の家の掃除もするってのかい?」
「うん?」
不思議そうに頷くタイガに、けっ、と口汚く老婆は吐き捨てた。
パイプの先に刻みタバコを入れて、マッチで火を点ける。紫煙をふぅー、と長く吐き出しながら、タイガの動きに不審な――例えば盗みを働いたりとか――動きがないか見張る。
タイガの善意を信じるにも、タイガの言葉を信じるのにも、老婆は長く生き過ぎた。
それでもタイガはめげる様子などちっとも見せず、猫のブラッシングを終えて、今度は床を掃除し始める。
ブラシをかけて落ちた猫の毛を集めて捨てて――ふと。タイガは机の上の写真立てに視線を向けた。
色褪せた写真。一組の男女が映っている。
「これだあれ?」
「あたしの連れさ。もう何年も前に逝っちまったがね」
つまらなさそうに老婆が答えた。彼女の咥えるパイプから、ぷかぷか煙が宙を舞う。
「逝った…?」
「死んだんだよ。70年も生きたんだ。死ぬのなんて珍しくもない、当たり前の出来事さ」
そう――当たり前。当たり前だよ。
老婆はそう、言い聞かせるように繰り返した。
安楽椅子に揺られながら、つまらなさそうな顔をして。
ただ、
「似てるね、この人」
タイガの言葉に、驚いたように目を開く。
ぱちくり、不思議なものでも見るようにタイガを見て、
「はっ、どこがだよ。初めて言われたよそんなセリフ」
けれどもやっぱり吐き捨てるようにそう言った。
「でも、笑顔がおんなじだよ」
タイガが優しい声で言う。子供の甘い表情で。
老婆は片眉を上げ、しばらくタイガを見つめていたが、やがていつものように、ふん、と鼻息一つ鳴らして。
「ふん――どうだかね。それよりあんた、そろそろ昼飯時だろう」
「おなかへった!!」
言ってやると、元気一杯にタイガが言った。両手を挙げて、子供っぽく。子供だけど。
だから、うんざりしたように老婆は言う。
「あぁあぁそうだろうさ。だからってあたしゃあんたの飯なんざ作らないからね。さっさと自分の家に戻りな」
「おばあちゃん、またね」
「またね、ね。まぁあたしは別に拒まないさ。あんたが悪事をしない限りね」
そんな老婆の態度にも、タイガは結局嫌な顔ひとつ見せないまま、ばいばい、と手を振りタイガは部屋を出て行って。
がちゃん、と閉まった扉の音を聞く。よっこいせ、と安楽椅子から体を剥がし、机や壁に手をつきながら、老婆は扉に鍵をかけにいく。
たったこれだけの動作にも億劫さを感じてきた。苦々しさを感じながら、今来た道を逆戻り。よっこらせ、と安楽椅子にまた腰掛けて、パイプを吹かす。
「似てる、ね。長く暮らせばそりゃ似るもんさ」
ふぅー、と。
吐き出した紫煙は長く部屋の中を漂った。
色褪せた写真に写っているのは、まだ若かった――そう、老婆と彼女の夫が、まだ互いに30代だった頃の写真。
ピクニックに行ったときの写真だ。お気に入りのワンピースを着て、真っ白な幅広帽子を手で押さえて。
そう、お気に入りだった幅広帽子が飛んでいきそうになって、思わずいつものしかめっ面をしてしまった。
その直前まで、笑えていたのに。
だから、白と黒の色褪せた写真に写っているのは、優しそうに笑う彼女の夫と、しかめっ面の彼女の顔。
それを見て似ているだなんて。
「変な子だよ」
にゃー、と猫達が扉にむかって鳴き声をあげ。
老婆はただ、安楽椅子が揺れるに任せて目を閉じた。
瞼の裏の、彼女の夫を見つめながら。