1-5
その日、私は異変を感じていた。
だいぶ慣れたローズハウスへ向かう道は、迷路のように相変わらず入り組んでいて、まだぼーと歩いているだけでは迷いうと思う。
その道を白いカッターシャツに膝丈のズボンという、初春らしい涼やかな服装に身を包み、私は気分よく歩いていた。
(雨…降りそうだな)
時刻は正午少し前、いつもならば燦々と太陽の光が降り注いで眩しいくらいだけれど、雲によって太陽は遮られ細い路地は薄暗い。
急に天気が悪くなったため、傘を持ってくるのを忘れたことに凹んで、暗い空を見上げて歩きながら大きくため息をついていると、どんと結構強い勢いで誰かとぶつかった。
「うわ!」
転びはしなかったけれど、よろめく視線の先にピカピカの革靴が目に入り、そこから視線を上げると厳つい顔をした大男が仁王立ちしている。
(軍人?)
私は一目見てその男を軍人と断じる。
それはこの男が知り合いという訳ではなく、彼が着てる軍服を一般常識に疎い女学生の私でも知っていたから。
目に眩しいシミ一つない白い生地に、黒と金色の刺繍は贅沢にあしらわれ、その腕には<神を信仰しない陣営>の象徴とされる薔薇の花と歯車が絡み合った紋章が刻まれている。
「ごめんなさい。」
ぶつかったのは私がよそ見をしてたせいなのは明らかなので、すぐに謝ったのだけれど、軍人は無言でじろりと頭から足までじろりと見た後、さっさと歩いて行ってしまう。
それを呆然と見送って、その後に急速に苛立ちが沸いた。
(何よアレ!感じ悪い)
ぶつかったのは悪かったが、謝ったのだからもう少し反応のしようがあるのではないかと憤慨する。
まったく気分が悪いと、その時はただそれだけしか思わなかった。
だけど、その後、また違う軍人とすれ違い、今度はぶつからなかったのにもかかわらず、顔をまじまじと見られる。
「失礼しました」
その軍人はこちらが訝しげな顔をしていると、慌てて謝って足早に去って行ったが、軍人がこんな人気のない路地を何人もパトロールしているとは考えられない。
人の顔をじろじろと見るのも、普通に考えてあり得ないだろう。
(誰か探している?)
近くで事件でもあったのだろうかと不思議に思いつつも、軍人たちが私の顔を見てもスルーしていくことから自分に関係ある事とも思えなかった。
よって、さっさと頭の隅にその事を追いやろうとしていた矢先、ローズハウスに入った途端、異様な雰囲気が施設内を覆っていることに戸惑う。
いつもはのんびりした中にも子供と大人の笑い声が絶えないリビングに、今は何人かのスタッフしかおらず、そのスタッフたちも一様に暗い表情を浮かべている。
「こんにち…わ?」
挨拶も語尾に疑問が滲み、何かを相談しあっている彼女たちに私の声は気付かれなかったようだ。
話しかけられる雰囲気でもなく、立ち尽くしていると、やっとレイチェルさんが私に気が付く。
彼女はその顔に笑顔を浮かべたが、それはいつもの溌剌とした明るいものではなく、すこし苦しそうに歪んでしまう。
「あの…何かあったんですか?」
「うん…実は一人ローズハウスから出ていってしまった人がいて帰ってこないのよ。」
「え!?」
重苦しい空気に包まれていた中で驚きの声は大きく響き、私は思わず口を押さえた。
どくどくと不自然に心臓が鳴りだす。
「ご、ごめんなさい。」
まさか、私がすれ違った軍人たちはその人を探していた?と思い当たる一方で、こう言っては何だがここで暮らしている一般市民が行方不明になったくらいで軍が動くということに違和感を感じた。
軍は普通、一般市民が関わるような事件では出動することはない。普通は憲兵の類がそれにあたるはずだ。
「えっと、それで誰が?大丈夫なんですか?」
感じた違和感はとりあえず置いておいて、私は誰かがいなくなったという事実に若干パニックに陥っていた。
『じゃあ、いってくるわね』
声と共に遠ざかっていく背中が脳裏をよぎり、私は大きく首を横に振った。
「アイルフィーダ?落ちついて?」
レイチェルさんが明らかに様子のおかしい私を心配するように覗きこむ。
自分でもこんなに落ちつかないのは変だと分かっていても止められない。
「それで誰なんですか?私、探しに行きます。」
「そ、れは」
ともかく落ちついていられなくて、問い詰めるように聞くけど、不思議とレイチェルさんもいい淀む。
そうだ。軍が出張っているくらいなのに、ここのスタッフは誰ひとりその人の捜索に出ている気配がない。
やっぱり何かが変だと思うけれど、それよりもともかく私はその人を探しに行かなくてはと、自分で自分を追い詰めていた。
「早く教えて―――」
「私の家族だ。」
迫る私に気圧されていたレイチェルさんに代わって、背後から静かな声がかかりはっと振り返る。
そこには相変わらず愛らしい容貌に、鋭い眼光を宿した美少女が立っている。・
「ニーア…貴方の家族が!?じゃあ、早く探しに…」
塔の中に閉じこもっている人間がどうして急にローズハウスを出て行ってしまったのか、そんな事を冷静に考える理性はこの時の私には全くない。
ニーアが急に現れた事にも驚かず、ただ、与えられた情報に飛びついて私はレイチェルさんから身を翻すと玄関に駆けだす。
だが、それに立ちはだかる様にニーアが前に立った。
「何!?」
止められたことに思わず苛立って声を上げた。
どうも様子がおかしいと、リビングで相談事をしていたらしいスタッフたちが私たちの周りに集まり出す。
「お前が探しに行く必要はない。既に軍に行方を探させている。」
「だからって数が増えて困ることはないでしょ!?」
言いながらニーアの横を通ろうとすると、彼女はまた私の進路を遮る。
「あの人は最近はなかったが、少し前まではこういうことが良くあった。大体、少し歩くだけで足が覚束なくなるような人だ。いつもすぐに見つか―――」
「だから、心配して探すこともしないの?そんなのおかしい!!」
ニーアの首を突っ込む事を許さない強い口調の拒否にも、今日の私は負けなかった。
彼女より強く声を上げて、ニーアが僅かに眉を顰めるのを見ても彼女に対する憤りしか感じなかった。
「いつも見つかるからって、それが今回もだとは限らないじゃない!!誰かがいなくなるって、貴方が思うよりずっと簡単で、あっという間なのよ?!」
自分で何を言っているか良く分からなくなっていた。
そして、再び過る誰かの背中が遠ざかっていくイメージがちらつく。
(駄目!思い出したら駄目!!)
この時の私の頭を占めていたのはニーアの家族ではなく、消えることがない焦げ付いた私の絶望と不安。
「何を言っている?ともかく、落ちつけ…お前が何のことをいっているのか分からないけど、大体お前はあの人の顔も碌に知らないのにどうやって探すつもりだ?」
「それはっ」
理詰めで言葉を続ける彼女に返す言葉もない。
私を心配して周りに集まってきたレイチェルさんをはじめとしたスタッフたちも、彼女の言葉にうんうんと頷いて私が落ち着くように促してくる。
(落ちついて私…大丈夫、落ちつ…)
私だって落ちつきたい。
だからこそ、彼女たちが促す通り落ちつくべく大きく息を吸おうとした瞬間、声が頭の中に響く。
『落ちつけ。アレの事だ。どうせまた自分を心配してほしいだけに決まっている。探しに行くだけ無駄だ。』
思い出したくない無情な声に吸った息が、ヒュウと変な音になり、吐き出せなくなる。
ヒュヒュと苦しい呼吸に胸を押さえる。
汗が噴き出て、心臓が大きく鳴る。
「おい!しっかりしろ!」
苦しさに蹲った私の背中に添えられたニーアの手を撥ね退けた。
「もういい!!ともかく、私は探しに行く!!」
「なっ!」
「私、じっとしてられない!!」
ニーアの言葉が返ってくる前に気が付けば、私は走り出してローズハウスを飛び出していた。
背後から私の名を呼ぶ声が聞こえても振り返らない。
呼吸が苦しくても、探す宛ても、探す人の顔も知らないのに我武者羅に走った。
私はともかく、誰かがいない事の不安を感じたくなかった。帰ってこないかもしれない人をただ待っていたなくなかった。
『すぐ帰ってくるから、待っていてねアイル。』
かつてそう言って私を置いて行った人がいた。彼女はそのまま今も帰ってこない。
ニーアの家族を捜すというよりは、彼女の幻影から私は逃げ出したのだ。
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その後、どこをどう通って、どのくらい走ったのか定かではない。
「はあはあはあ」
全力疾走のために酸欠の頭では何も考えられず、私が感じるのは繰り返される自分の荒い呼吸だけだ。
それでもローズハウスを飛び出た本当の目的を忘れないでいたから、走りながら視線は歩く人を追った。
ただ、私が走った場所が悪かったのか、はたまた、雨が降りそうな天気が災いしたか、出くわした人は少なく、その全ては男性。
ニーアの家族の数少ない情報によると、その人は女性だったはずだ。
さらにローズハウスに行くまでにすれ違った軍人とも会わない。
もしかしたら、もうニーアの家族は見つかったのかもしれない。
衝動でローズハウスを飛び出たが、次第に理性が戻ってくる感覚を覚えながら、冷静にそんな事を考えたつつ、私はやっと走る足の速さを緩めた。
「あれ…ここ何処?」
ただ我武者羅に走ったのがいけなかったのだと思うけど、全然見覚えのない町並みしかなくて途方に暮れた。
しかも、ぽつりと頬に落ちる冷たい感触。
「え、嘘?」
数滴ポツリポツリと落ちてきた後、堰を切ったかのように大雨が滝のように降ってきた。
それで完全に頭が冷えたのか、情けないかな私はオロオロと急にうろたえだす。
(ともかく、どこかで雨宿りしないと!)
傘も持たずに飛び出たため、着衣は薄着だったこともありすぐに水を吸ってべったりと張り付く。
きょろきょろと辺りを見回して、ふと民家だけれど屋根が張り出していて雨宿りするのに良さそうな場所を見つけて私はそこに再び駆けだそうとした。
「馬鹿野郎!」
と、いきなり怒鳴られて、誰かに強く手を取られ引っ張られた。
「え?えええ?ニーア!?」
後ろを見上げるようにするとそこには私と同じく濡れ鼠になったニーアが、怒った顔をしていた。