11-9
「―――ちょっと、待って」
それはイクシズによる報告が、シャンドラとの連絡が途切れる直前にさしかかった下りだった。
報告自体は私が取り立てて可笑しいと思う部分はなかった。だけど、その人物の名前が出たことに、私は驚きながらストップをかけた。
「何だ?今の何が引っかかった?」
身を乗り出すイクシズ。
「あ、いや…オルロック・ファシズにとっては何の関係もない事だと思うんだけど、その【カイン・アベル】って名前をついさっき聞いたばかりだったから」
「レディール・ファシズで?」
あからさまにイクシズは眉を顰めた。
その反応に敵対している陣営相手にレディール・ファシズの情報を流すのはどうかと悩むところだけど、【カイン・アベル】その正体が分かるというのなら、こちらとしても悪くない情報交換になるかもしれない。
数時間の間に立て続けに聞くこととなった名を、はっきりさせないまま通り過ぎてはいけない気がした。
とはいうものの、後々こちらの情報を流したことが問題になったら…なんて小心者の私が顔を出しかけるけど、半ば直観で話すことを決めてしまう。
万が一、これが重要な情報であろうが、相手がイクシズであれば、今回の事も彼に対する貸しの一つになるだろうし、どうにかなるだろう。
「あんたがその人の知りえる情報を全部くれるなら、こっちの情報も流すわ」
「いいだろう。というか、お前がこの男の名前をさも他人のように言うこと自体が俺には不思議なんだが」
「?」
ファイリーンも同じような反応だった。
【カイン・アベル】という名前を私が知らないことが、有りえないと言った反応。だけど、実際に私はその名前を知らない…はずだ。
立て続けになる反応に、私も少しだけ自信がなくなる。
「偽王の側近の一人だろう?お前と面識がないはずが無いと思うんだが」
「側近って十将のことよね?」
シャンドラはかなり大きな都市であり、その中で十個の町に分かれている。その頂点に立つのが偽王であるが、それぞれの町の長として将軍が存在した。町の数と合わせて十人の将軍の事を【十将】と呼ぶ。彼らは協力して偽王を支え、シャンドラを守っている。
「ああ。まさか十将の名前を覚えていないのか?」
「え?まさかっ!私は彼らとは付き合いも長いし、全員の顔と名前くらい分かるに決まって―――」
言いかけてギクリと心臓が鳴った。
『まさか、あんたが十将で…しかも<―――>だったなんて』
『悪い。まあ、俺にも色々あるからな、色々と勝手がきく立場があると便利なんだよ』
『えっと、じゃあ、私が知っている名前はあんたにとってどういう名前になるの?』
記憶の中で問い詰めた私に苦笑する青年。そう、私は十将と知らないままに彼と知り合った。
『後、二つほど名前を持っているが、一つはもう永遠に使わない名前だし、もう一つは十将としての名前だ。お前達には名乗ったのは、まあ、本名っていったら本名だから、その名前さえ覚えておいてくれたら大丈夫だ」
『何?その奥歯に物が挟まったような言い方?』
『勘弁しろ。別に十将としての名前は、ここまできたら覚えていなくても問題ないから、いいだろう?』
そうして、そんな会話をして彼が十将としての名前を聞くことがなかった。彼が言うとおり、確かにその名前を覚えなくても問題はなかった……シャンドラの中では彼が二つの顔を持つことが公然だったから。
だけど、シャンドラを出てしまえばそんな公然はなくなって、二つの名前はそれぞれ違う人物として語られる。そして、もう一つの名前を知らなければ私はその名前を聞いても【彼】だと分からない。
ギリっと奥歯を噛みしめながら、己の迂闊さが腹立たしくてならない。どうして、その可能性を考えなかった?
「―――い!おい、アイル?!」
と、自責の念に囚われている私を呼ぶ声にはっとする。目の前の画面で眉を顰めるイクシズに私は、現実に立ち返る。
「あ、ごめん。ちょっと、内に閉じこもってた」
いいながら、まだ、何となく色々と納得できない部分があって気持ち悪い。イクシズに謝りながらも、その正体を模索する。
カイン・アベルという人物が、私の名前の知らない十将だとして、それが【彼】だと仮定しよう。十中八九そうだと思うけど、今はまだ確証はない。
とりあえずそういう過程で考えた時、アルスデン伯爵夫人を攫ったのが【彼】であり、それはすなわち、先日の一件に【彼】が関わっていることに繋がる。
ヒヤリ―――感じた冷気は、現実のものか、はたまた、精神的なものだろうか?
ともかく、早急に事実確認をしなくてはと焦っているはずなのに、推測が現実だった時の事を考えると絶望的で体が動かない。
本当に何が、誰が、どう、何処で繋がっているのか見当もつかず、混乱し振り回される感覚に、泣き出したいような気分になる。
「ああ、そういえばカイン・アベルと言えば、数年前にレディール・ファシズの学者家族を誘拐したとかいう話があったな。ひょっとすると、アイルが聞いたのはその関係か?」
(学者家族…)
瞬間、脳裏を過ったのは学者であるファイリーンの事だ。
彼女がその学者家族の一人なのかは定かではないにしても、少なくともそうであるとしたら姉妹が第三の箱庭と繋がる。
「ねえ、それって―――」
もっと、詳しく事情を聞こうとして、だが、それでも全て不確定要素を含むものでしかないと思い直して口を閉じる。
この場合、イクシズから聞くより、レディール・ファシズにいて、かつその当事者である可能性があるファイリーンに話を聞ける私の方が、はるかに確実で大きな情報を得られるに違いない。
「何だ?」
「ううん。何でもない。カイン・アベルについては、とりあえず分かった。私も情報をあげたいところなんだけど、ごめん。正直、私の持っているものは不確定な部分が多すぎて情報とは言えない。そのあたりをはっきりさせたら話す」
元情報部の矜持として、いい加減な情報を渡す訳にもいかない。
「おい!こっちには時間がないんだっ。何でもいいから―――」
「それは分かっている。だから、別口からの情報をもらえる方法を伝えるわ。多分、そっちの方が確実にイクシズの欲しい情報だと思う。まずはシャンドラ以外の集落と連絡を取るの」
「それは既にやった…さっき俺が言ったじゃないか」
如実にがっかりしたというか、私に対する失望を隠そうともしないイクシズに首を横に振る。
「どうせ、私が申し送った集落だけでしょう?」
「どういう意味だ?」
その言葉から、私の考えが正解であることが分かる。
「私が申し送った連絡先の数はシャンドラを入れて12個。貴方、荒地に大小どれだけの数の集落があると思っているの?私がいなくなったからって、新しい集落の一つも連絡をとれるようにしていないなんて、はっきり言って情報部の怠慢よ」
いいながら、そういえばイクシズは情報部じゃなかったと思ったけど、まあ、いい。勢いのまま私は続けた。
「軍に入ってから連絡取っていないけど、個人的にはもっとたくさん連絡先を私は知ってるわ。とりあえず、そこにあたってみて。まあ、オルロック・ファシズにいい感情は持っていないけど、私の名前を出せば情報位教えてくれるはずだから」
「申し送りを怠っていたのか?」
「軍人にだってプライベートはあるでしょう?個人的な知り合いの連絡先まで申し送る必要はないわ」
言い切る私にイクシズはもどかしげな表情を浮かべるが、ここで論議していても時間の無駄だと理解している彼は話を打ち切って、連絡先を寄越せと切り替える。
「エリーが持っている私の手帳に書いてあるわ。こんな事もあろうかと預けてあったの」
ちなみにエリーというのは私の義姉で、彼女も現在は軍部所属なのでイクシズも顔見知りだ。
「その中のレイファーとキル…後はリッテ辺りから始めてみて。あの辺りならシャンドラと行き来はあるけど、強い繋がりはないから情報を知ってさえいれば教えてくれると思うから」
「了解した」
「私の情報も確定したら伝えられるものは伝えるよう最善は尽くす」
「……そこで絶対に伝えると言わないところが、お前らしい」
「え?」
『らしい』と言われるような事を言った覚えもなく、今の言葉の何処が『らしい』のかも分からず、私が戸惑うと、イクシズは何でもないと首を横に振り、私たちはまた明日の同じ時間に連絡を取り合う事を約束して画面を切った。
だから、私は知らない。
「お前は何処で何者になっても、自分を失わない強さを持っている。その強さに皆、強い憧れを感じる。だが、同時にそれは酷く残酷でもある……アイル、お前はそれを理解しているか?」
私がいない所で問いかけられていたその問いの意味を、私が理解するのは少し先の事になる。