11-7
ゴクリと、唾を飲み込んだ音が妙に大きく聞こえた。
それほどまでに静まりかえった室内。
先ほどまでは高々と胸糞悪い演説を言い放っていたサルマンは、驚きのあまりに息をすることすら忘れているように沈黙し、レディール・ファシズ側にいる私たちもフィリーが支配する空気に完全に飲まれ誰一人口を開けない。
「貴方のその沈黙は、私がニーアではなく世界王であることをご理解いただけたと思っていいのでしょうか?」
気が付けば私の前に立ちサルマンの映る鏡と向き合っているフィリー。
その声は通常の穏やかで優しげな物言いと声音のはずなのに、世界王という絶対的強者の傲慢さと、そして、冷え冷えと怒り狂う感情が入り混じっている。
色々なフィリーと対峙してきたはずだけど、こんなフィリーは見たことが―――いや、八年前に一度見たと思い至る。あれは……
『ねえ、アイル?怒りと憎しみで、俺はどうにかなりそうだ』
淡々と言いながら、彼は今と似た冷気を纏っていた。
「誰に向かってそんな口をきいているのか、理解しているのか?」
それとは対照的な強い怒りの感情が露わになった声。低く、震え、相手を威嚇するための声。衝撃から立ち直ったらしいサルマンは、美しい顔を禍々しく歪めていた。
「え?」
背後でレグナたちが戸惑ったような声を発する。その戸惑いは理解できた。何せ今の声は艶やかで妙齢の女性が出す声じゃないし、表情でもない。
「本性が出てますよ。ドクター?」
「あら、失礼。だけど、今のは貴方が悪いわ。そんな反抗的な態度をとるなんて、自分の立場が分かっていないの?世界王であっても、貴方が私のニーアであることは変わらない。そうでしょう?」
微笑む表情は、先ほどの声を微塵も感じさせない色気を感じさせる女のモノに戻る。
「立場とはなんでしょう?」
「貴方は、いえ、貴方たちが何処で何をしようが、ドクター・サルマンの作品であるというよ。作品は作品らしく、作者のいう事に大人しく従っていればいいの」
反吐が出るほどの自己中心的な考え。サルマンには自分が発明した物に限らず、その研究対象となる全てが自分の作品だった。
自分の作品だから、その相手が人間だろうと物のように扱い、何をしても心が痛まない。知っていたはずだけど、久々に目の当たりにするとやはり気分がいいものではない。
「作品」
むっとして、思わず言い返してやろうとする私だったけど、サルマンの言葉を繰り返すフィリーの声に言葉を飲み込んでしまった。冷たいというより、抑揚のない平坦な声。
「その自己愛甚だしすぎる胸糞悪い性格は相変わらずだ。いい加減、お前が作品だと言い切っている存在が、感情を持つ人間だと理解しろ」
「なっ、何を―――」
世界王としての仮面すら捨てて放たれた苛烈な言葉に、サルマンの表情は驚きで歪んだ後、あっという間に激昂したものへと変わり、そのままフィリーに喰ってかかろうとする。
だけど、フィリーはそんなサルマンの反論すら聞きたくないらしく、それを遮るように畳み掛ける。
「八年前、あれだけ痛い目を見てもまだ理解できていないのか?」
(あ―――)
その言葉に思い出される、様々な事柄。そういえば、八年前と言えば、私にとってはどうしてもフィリーとの別れの部分が記憶として鮮烈だったけど、この二人の因縁も私は目の当たりにしていた。
あの時はフィリーも研究所の被験者とは知らなかったけど、そうだと言われれば色々と納得いく部分も多い。
「あれはお前が!!」
「まあ、引き金を引いたのは俺だな。だが、俺だけか?結局、八年前、お前が失脚したのは自業自得だろう。人を人とも思わぬ研究が許されるはずがない」
「だ、まれっ。だが、私はこうして今も―――」
「自治議長によってオルロック・ファシズでの影響力をかなり削がれて…な」
サルマンとは望んだものではないけど、付き合いが長い。それは勿論、一方的な上に良好な関係のはずもなく、その全貌を知る訳じゃない。
だけど、少なくとも私の知るサルマンはこんな風に動揺を隠せずに焦ることはなかった。これはサルマンが変わったのだろうか?それとも対峙しているのがフィリーだという事が重要なのだろうか?
「まあ、ともかくアイルフィーダの力の事についてはよく分かった」
言いながら私を振り返るフィリー。何となく二人の迫力ある会話に呆然としている私に微笑みかける彼はいつもの彼だ。
「こいつがアイルを呼べというから素直に従ったのが間違いだった。ごめん。嫌な思いをさせた」
「あ、いや。そもそも、私が自分でサルマンに聞けって言ったのが始まりっていうか…この展開を読めなかった私が馬鹿だったっていうか」
意味なく焦ってしどろもどろで答えると、フィリーは少しだけ苦笑してサルマンに再び向き直る。
「良かったな。サルマン。これで彼女がもっと悲しんだり、苦しんだりしている様子でも見せたら、八年前を再現してやってもいいかと思っていたんだが―――」
「ば、馬鹿な!大体、お前は今、レディール・ファシズにいるのにどうやって…」
「それを俺に聞くのか?お前がそれを可能にしてくれたんだろう?」
私に背を向けているフィリーが今どんな顔をしているかは定かじゃない。だけど、その背中から放たれる妙な気配に、放たれた言葉に白い顔を一層深く青くして顔を引きつらせるサルマンに、何故だか私もぞっとしてしまう。
色々とツッコミ所がありそうな発言だけど、今は空気を読んでスルーするに限るだろう。
「ともかく、お前の姿は今はもう目障りだ。他に何か言うべきことがないなら通信を切らせて貰う」
こっちらから通信を呼びかけておいて勝手な言い分だけど、この場の空気を完全に支配しているフィリーの言葉に誰も異を唱える者は―――
「それは少々お待ちいただきたい」
いた。いたよ、空気の読めない堅物マイペースな男が。
「ちょっと、イクシズ。空気読みなさいよ」
戦意喪失した感じで言葉も出ないサルマンを、やんわりと退かして現れたのは、サルマンの前に画面越しに少し話をしたイクシズである。
思わず突っ込んだ私に、イクシズは至極真面目な顔をして言葉を返してくる。
「俺は基本、空気を読める男だが、それは俺にとって利益があるときだけだ。無利益な空気を読むつもりはない」
感情のこもらない声に、ああ、そういえばこういう奴だったと思いだして脱力して、額を手で覆った。
「それで?君にとって利益があると思って呼び止めた理由は何だ?」
「ああ、申し訳ありません。お呼び止めしましたが、世界王陛下ではなく今回は……王妃アイルフィーダ様にお話を伺いたく―――」
「気持ち悪いから、私に対しては今まで通りの話し方でいいわよ」
出会った時から、対等、いや寧ろ上から目線で話しかけられていた身としては、いきなり『様』付けされると非常に気持ち悪い。イクシズの言葉を遮ってまでそう伝えると、奴はこれまたあっさりと言い返す。
「いや、おま―――いえ、貴方様は間違いなく世界王妃になられたのだから、けじめはきちんとつけるべきでしょう。それが道理というものです」
「私が気持ち悪いからやめろ」
「……ふむ。そういうものなのか?ん?何だクレミン―――『アイルの嫌がっている表情も素敵だから、もう少しこのままの調子で喋れ』…か。了解した。この画面の映像はちゃんと録画してやるから、お前は暫くそのまま大人しく床に転がっていろよ」
「ちょっと、待て」
鏡の向こうで下を向いて何やら聞きたくない類の話を独り言のように話しているイクシズに(多分、画面には映っていないけどクレミンと話しているんだろう)、強い口調で待ったをかける。
「あんたもクレミンも変わらないでいてくれるのは嬉しいけど、もう一回言うけど、空気を読め」
「この場合は空気を読む事が有益だな。了解した。黙って録画だけしていよう」
録画はするんかい!というツッコミはもやは声にならなかった。
相変わらずマイペースで我が道を独走し続ける二人に合わせていては疲れる…と、思わず息を吐き出しているとフィリーが鏡と私の間に割って入った。
「それで?結局、アイルに何の用があるんだ?」
声が微妙に固い気がするのは私の勘違いだろうか?
「ええ、実はいくつか彼女の昔の仕事の内容について確認したい事項がありまして……申し訳ありません。軍部の機密事項にあたることもあるので、しばらく人払いをして頂けないでしょうか?」
「……いいだろう」
何となくその『いいだろう』が全然納得してない声音に聞こえるのは、私だけでしょうか?
ほらほら、オーギュスト達が睨んでるよ。何でここでフィリーじゃなくて、私を睨むかな?私にどうしろっていうのよ!
という、心の声はとりあえず胸の中で叫ぶに留める。ここで私がぐだぐだと反論しても、話が進まないのは目に見えていた。何より―――
「私の仕事や、機密事項ってことは『あっち』で何かあったの?」
フィリーとその他大勢が、何となく私に対する含みを残しつつ部屋を退室したのを確認して、私は開口一番そう尋ねた。
イクシズの話したい内容に心当たりはないけど、『あっち』に何かあったというのなら気にならない訳がない。
「こんな場を借りてまで、お前に話すことと言えば当然『第三の箱庭』がらみに決まっているだろう。あの場所について正直、お前以上に事情に精通している人間はオルロック・ファシズにはいない。同時にお前にここまでして聞く価値がある事柄はそれしかない」
そう。それは『第三の箱庭』の事。
自分と浅からぬ関係にある場所の事であると同時に、ファイリーンからも『第三の箱庭』についての話を聞いた直後だという事が何故だか妙な胸騒ぎを私に感じさせていた。