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いや、想像を超えていたというのは、少し大げさな表現かもしれない。だけど、それじゃあ、何かほかに推測していた事でもあったのかと言われても何もない。
ともかく、『攫われた』という事実はインパクトがあった。
「それは教会に?」
「いいえ。私と教会の僧兵の前で姉は攫われたのです」
ますます意味が分からなくて、眉間に皺が寄るのが分かった。
「順を追って説明しますわ。少しお時間を頂けますでしょうか?」
異論があるはずもなく私が一つ頷くと、ファイリーンはどういう心境の変化か私が見たこともない柔らかい笑顔で微笑む。
それに驚きつつも、私の後ろに控えているルッティが小さく悲鳴を上げたのが聞こえて、内心苦笑を禁じ得なかった。
▼▼▼▼▼
ファイリーンの話によると、それは舞踏会の翌日のこと。
教会からの報告はないけど、<神を天に戴く者>の襲撃の事後処理がひと段落した時点で教会はアルスデン伯爵夫人をすでに確保していたらしい。
舞踏会には参加せずにいたファイリーンが襲撃事件の話を聞き、舞踏会に出席しているはずの伯爵夫人を心配して翌早朝に城を訪れると、彼女は教会によって厳しい事情聴取を受けていたというのだ。
「それは本当?」
「はい。間違いありません。姉に会いたいと訴えても教会に断られて、それでも一目だけでも無事な姿を確認したいと申し出た所、姉が取調べを受けている部屋の近くに案内されました。そこで私は姉に大きな声を上げながら捲し立てる男の声を聞いたのです」
ファイリーンはその時の事を思い出して不快だったのか、顔を顰めると言葉を続ける。
「いくら大声と言いましても壁越しでしたので、途切れ途切れにしか声は聞こえてきませんでしたが、姉の名前、<神を天に戴く者>、裏切り者、密告…といった言葉が聞こえてきました。しばらしくて、聴取が一旦休憩になった所で私はようやく姉と面会できたのです」
その時に目にしたアルスデン伯爵夫人の様子は、今までファイリーンが見たことのない姿だったという。
「アイルフィーダ様は姉をご覧になったことがありますか?」
「舞踏会の時、遠目だけど」
真っ赤なルージュが似合う妖艶な美女。たくさんの取り巻きに囲まれた彼女は舞踏会場の中でも一際輝いてみえた。
「でしたらお分かりかと思いますけど、あの人は華やかで、明るくて、自信に満ち溢れていて、いつでも人の中心にいるような人でした。なのに、あの日、私が見た姉はそれとは全く違いました」
「だけど、それは厳しい事情聴取の直後だったからとは考えられないの?」
貴族として生まれ育ってきた女性なら、怒鳴られた経験などあるとは思えない。だけど、私の問いかけにファイリーンはきっぱりと首を横に振った。
「普通の貴族女性ならばそうかもしれません。ですが、姉だったらあの程度の事情聴取くらい何とも思わないはずです。なのに、あんなに怯えた様子の姉を見たのは私も十数年ぶりだと思います」
いいながら僅かに考え込むような表情を浮かべるファイリーン。
「何か気になることでもあるの?」
「……いいえ。今は話を先に進めましょう」
何となく気になる間だったけど、私もとりあえず頷いて話を先に促す。
「お恥ずかしながら私は部屋に入って悄然とした姉の様子に戸惑ってしまい、かける言葉を失いました。すると私に気が付いた姉が、私に掴みかかってこういうのです。『どうしよう。とんでもないことをしてしまったかもしれない』」
『トンデモナイコト』それは果たして何を指す言葉なのだろう?
「私も驚いてしまって、だけど、それ以上に取り乱した姉にとりあえず落ち着くように言って、何があったのか聞き出そうとしたんです。だけど、全て要領をえない言葉ばかりで……」
「それでもいいから、彼女が何を言っていたか教えてもらってもいい?」
「はい。そのほとんどは謝罪を繰り返すばかりでした。だけど、『ごめんなさい』『裏切るつもりはなかった』『あの人のためを思っただけなの』…姉がどうして事情聴取を受けているかは教えてもらっていたので、初めはテロリストに協力したことを謝っているのかとも思ったのですが、何だか違うような気もして」
その言葉に私は一つ頷く。
アルスデン伯爵夫人の謝罪から、やはり彼女が<神を天に戴く者>と関わっていることは可能性が高いことが分かる。
だけど、『あの人のためを思っただけなの』…その言葉のさす『あの人』というのが誰なのかで、彼女が何を謝っているのか様々な可能性を持つような気がしてくる。
少なくとも今のファイリーンの態度からすれば、その『あの人』というのが彼女という事もなさそうだ。
「ファイリーンはアルスデン伯爵夫人が言っている『あの人』というのに心当たりはないの?」
すると彼女の表情が一瞬だけ強張る。
「……」
沈黙。
返ってこない答えを急かすようなことはしない。だけど、同じように沈黙を決め込んだ私にファイリーンは耐えかねたように、僅かに視線を彷徨わせると小さく息を吐いて言葉を紡いだ。
「【カイン・アベル】」
「それが『あの人』?」
「……アイルフィーダ様はこの名前に聞き覚えがおありでしょう?」
「え?その人、有名な人なの???」
聞いても、考えても全然記憶の中にない名前である。
だけど、ファイリーンの表情は知らないなんて信じられないといわんばかりのもので、咄嗟に私はルッティを振り返る。
「私も存じ上げないです。【カイン】といえば、私の大好きな物語の登場人物がいますけど、その方は【カイン・デネル】ですし」
すると返ってきたのは、全く不必要なプチ情報。(まあ、確かに名前の音の感じは似ているけど)
ならば、この名前はレディール・ファシズ的常識ではないという事だ。ちょっとだけ、ほっとする。
「……申し訳ありません。今の私の言葉は忘れてください。そうです。姉が言っている『あの人』というのは恐らく【カイン・アベル】。姉と私の恩人の事だと思うのです。謝りながら、姉は何度も彼の名前を呼んでいました」
忘れて下さいと言われても、簡単に忘れられるはずもない。しかも、意味深なファイリーンの様子に私は【カイン・アベル】の名前を頭の片隅に刻み込む。
「そして、その直後、姉を攫ったのもまた彼なのです」
カインという、その姉妹の恩人である男は、二人がいたのは城内の中層の階だというのに窓を突き破り現れたらしい。
窓が割れる派手な音は、当然近くでアルスデン伯爵夫人の見張りを任されいた僧兵を呼び寄せることとなる。
「カインは部屋に入ってきた僧兵たちを瞬く間に倒してしまうと、私にしがみついた姉を引き剥がしました。姉はそれに抵抗するように暴れ、私も何が何だか分からないままでしたが、姉を連れ去られないように必死で姉の腕をつかみました」
その時の僧兵が何人だったか分からないけど、多数相手に一人であっという間に倒してしまうなんて、中々の手練れである。
それも城内に単独で侵入してくるなんて…ふと、私の中で先日後宮内で襲われた時の事が思い出される。
「ですが、私の力ではカインの力の及ぶはずもなかったのです。私は泣き叫び連れ去られる姉を見ている事しかできなかった。カインは破った窓から姉を連れて逃げ去りました。教会の僧兵たちも必至で追跡をしたようなのですが、手掛かりも掴めていないまま―――」
消息不明という訳か。
途切れさせたファイリーンの言葉の続きを心の中で呟きながら、それでも私は釈然としない気持ちのままだった。
「話は分かったわ。告解の儀で教会が伯爵夫人を出さないのではなく、出せないという事も……だけど、どうして教会はその事実を隠すの?貴方を謹慎にしたの?」
被疑者を攫われたという事実は確かに教会にとって隠したい失態かもしれない。だけど、それは伯爵夫人の存在自体を消し、ただ、それを目撃しただけだのファイリーンを謹慎にするほどのことなのだろうか?
カインという人物が何者なのかは分からないが、この話の流れから彼は<神を天に戴く者>の可能性が高い。仲間がアルスデン伯爵夫人を助けに来た…そう考えるのは特段不自然ではないはずだ。
そして、悪いのは全て伯爵夫人で仲間と一緒に逃げたとした方が、何も知らないかもしれないアイン枢機卿に全てを擦り付けるより、事件の幕引きとしては余程簡単に違いないのだ。
なのに教会はそれをしない。
「その疑問は尤もでしょうね。私もそう思います」
「ファイリーンはその辺りの事情は分からないの?」
「想像はつきます。しかし、確信はありません」
「想像で構わないわ。話を聞かせて」
学者肌らしいファイリーンは何に対しても想像や推測で物を話すことが嫌いらしいが、この場合、彼女の好き嫌いを構っている余裕は私にはない。
引く気のない私に逡巡するように視線を彷徨わせたファイリーンも、一つ息を吐くと彼女の推測を話し出した。