第九章 現9-1
ぬけるような青空、遮るもののないどこまでも続く草原、吹き抜ける風、ひらひらと舞う花弁、そこは天国などというものが本当に存在するなら、これほど相応しい場所はないだろう美しい場所。
そんな何人も侵しがたい空気で満たされている場所を、音を踏み鳴らし荒らす一人の男。白い裾の長い服を身にまとった姿は修道僧のように清潔感はあるが、飾り気は皆無だ。
しかし、その腕に抱えられた色とりどりの花束が、男の色のない姿をパッと明るくさせている。
赤、黄色、白、ピンク、色も大きさも統一感のない花々、その一つ一つは美しいけれど、花束となった時、それらは落ち着かない印象を持たせる。しかし、男は気にした風でもなく、はたまた、その事に気が付いていないのか、花束をただ大事そうに抱えて、鼻歌交じりに草原を歩き続けた。
「ご機嫌ですね、アスプ」
そんな男に声がかけられる。男は声の方向に向き直り破顔した。
「ラハム。ううん、今はヤウって呼んだ方がいいのかな?こんにちは」
佇んでいるのは相も変わらず不健康そうな顔に、似合わなさすぎる酷く派手な服装を身にまとったレディール・ファシズ筆頭魔導師ヤウ。
今日は魔導師のローブではなく、ピンクと紫を基調とした燕尾服のような服装に、毒々しい色の蝶ネクタイをしている。服装こそは正装と呼ぶにふさわしいだろうが、その色によって全てが無駄になり、見ている方が不快になりそうなものと成り果てる。
だが、アスプと呼ばれた男は微塵もそんな事は思っていない様子で、ニコリと笑って挨拶を返した。
それに対してヤウも不健康な笑顔を返し、殊更に恭しくお辞儀をする。その姿はいつもの胡散臭すぎる態度がまるで嘘のような自然さを伴っていた。
「どちらでも構いません。お好きなようにおよび下さい。ご無沙汰していて申し訳ありません」
「うん。久しぶり」
「ご一緒させていただきます。花束をお持ちいたしましょう」
言って手を出しだすヤウに、アスプは首を横に振った。
「いいよ。これは僕が彼女に渡すんだ。それより、ヤウが来てくれるのは久しぶりだから彼女も喜ぶよ」
「恐縮です」
もう一度恭しく頭を下げるヤウ。しかし、アスプはそれを一瞥しただけで、興味をなくしたように再び歩き出し、ヤウもその数歩あとに続く。
「そういえば、この間、エアを久々に見たよ」
「そうですか」
「今はカルラって名乗っているみたいだけど、彼も君もたくさんの名前を持ちすぎじゃないのかい?」
「申し訳ありません。ですが、私も彼も本当の名では今の世は生きにくいのです」
淡々とした口調とテンポでやり取りされる会話の間にも二人は草原を真っ直ぐに進み、石でできた箱の前で止まる。
それは人一人が入るくらいの大きさに、美しい磨かれた黒曜石に様々な彫刻が施された石棺。その蓋はあいており、白い花の敷き詰められた中には一人の女性が横たわっていた。
「ティア、今日はラハムも来てくれたよ」
身を屈め、声を掛けながら、アスプは持っていた花束を棺の中で胸辺りに組まれている女性の腕の近くにそっと置く。
ヤウは数歩後ろで膝をつき、頭を下げる。
「ふふ、ティアも喜んでくれている。ラハムも近くで声をかけてあげてよ」
「はい」
その言葉に従い棺を覗き込むヤウ。だが、棺の中の女性はアスプの『喜んでくれている』という言葉とは裏腹に、表情の一つも動かないままだ。
「あまりこちらに来れず申し訳ありません。お変わりなく美しく、健やかなお姿に安心いたしました」
「そうだろう?最近、特に綺麗になったんだ。ねえ、ティア?」
確かに棺の中の女性は美しい。長い銀髪は緩くウェーブがかかり、透き通るような白磁の肌に艶やかな唇、瞼は閉じられていてその瞳はうかがい知れないが、落ちる睫毛の影は長く繊細だ。
それはまるでただただ美しくあれと、それだけのために造られてた人形のような、この世のものとは思えぬ美しさ。だが、それはあまりに美しいために人形そのもののようにも見える。
現に棺の中の女性は、微塵も動かず生の気配は感じられない。それに話しかける男たちの姿は、滑稽にすら見えた。
「……それは、もうすぐお目覚めになられる兆候ということでしょうか?」
にこにこと棺の中の覗き込み続けるアスプに、ヤウが一瞬だけ躊躇うように聞く。その声に殊更ゆっくりとアスプは振り返った。
元々笑みを形作っていた表情に、更に笑みが深くなる。ヤウにはその笑みが何を意味するものか判断しかね、同時にひやりと心の臓が冷える感覚を覚えた。
「さあ。どうだろうね?お前はどう思う?」
「分かりません。だから、お伺いしました」
「なるほど、確かにそうだね」
アスプは声を出して笑った。だが、やはりその笑いが本来の役割を果たさず、別の何かを突き付けられている気がしてヤウは落ち着かない。
ヤウはアスプを心の底から敬っている。彼にとってはアスプと棺の名にいる女性、二人だけが自分よりも上にある存在だった。だからこそ、その心が分からずに不安になる。
「だけど、実際僕にも彼女がいつ目覚めるかは分からないんだ。そもそも、それを考えたことも無い。どちらでもいいんだよ。ティアがすぐに目覚めようとも、遠い未来に目覚めようとも。いつか目覚めてくれるなら、それでいい。時間が惜しいのは人間たちだけで、僕には何も関係ないからね」
深い笑みは薄らとしたものに戻り、ヤウが感じた不安もまた消えていく。
「人間たちの相手をしているお前は大変かもしれないけど、彼らの事なんて僕にはどうでもいいことなんだよ。僕はどれだけ時間がかかろうとも待つだけ…だからね」
「アスプ」
ヤウは彼の名を呼んだ。彼がどんな表情でそこ言葉を告げたのか知りたくて、振り向いてほしくて名を呼んだ。
だが、アスプは振り向かない。
「ティア、今日の花は気に入ってくれたかい?」
ヤウがいることなど忘れて、棺の中に話しかけ続けるアスプ。ヤウはしばしその場にとどまったが、一つ頭を下げるとその場を去った。
ありがちなプロローグで申し訳ありません。
次回からアイルフィーダ視点の本格的な本編開始となります。少しでも楽しんで頂けたら幸いです。