8-10
意を決し、滝のように流れ落ちる水に手を入れた瞬間、冷たいとか、強い力を感じたとか、そんな感覚的なものより、水の勢いに腕どころか体ごと流されそうになったことに焦った。
体が傾く私をフィリーが咄嗟に支えてくれたので倒れることはなかったけど、そうしてくれなかったら無様に地面に転がっていたのは間違いない。
「ご、ごめん。助かった…もう大丈夫」
水流の中に手を入れたまま態勢を立て直し、体に力を入れれば、何とか勢いに流されることはなさそうだ。それを確認して、背中から抱くように支えてくれているフィリーに礼を言って、手を放してもらう。
「本当か?それで…魔導力の方はどうだ?」
「それも…うん。大丈夫。吸収するのに問題はなさそう」
手から流れ込んでくる魔導力は神から直接齎されているものだというのに、とりたてていつも魔導力を吸収する感覚と変わりない。それは単に私が魔導力を感じられないという理由故かもしれないけど、何となく拍子抜けである。
(これなら、魔導力の嵐の方がよほど特別な感じを受けた…?)
まあ、吸収できるに越したことはないので、その疑問は置いておいて、問題はその規模だなと意識を切り替え、とりあえず、水の中から腕を出し、ひんやりとした手で自分の顎を触る。
実際にどれくらいの量を吸収すれば、扉を閉める事ができるか目算しかできないが、この水の勢いそのものが魔導力だとすると、その量は今まで私が吸収したことがない規模になるだろうなと感覚的に直観する。
そう考えた時、問題になるのは私が吸収できる魔導力の限界だ。私はフィリーとは違い、何の特別な存在でもない普通の人間に過ぎず、吸収できる魔導力は左程多くない。
フィリーはこの水量が延々と注ぎ込まれ続けようとも、広大な神域から水が溢れるまでまだかなりの時間を要するだろう。
だけど、例えば私にもこの神域のようなものがあったとして、同じ状況になったとき、それはフィリーと比べてはるかに短時間で決壊することが想像できる。
それでも、その想像上の私の神域が空に近い状態であったなら、存外簡単に私はこの水の流れを止める事ができたのかもしれない。
だが、必要があったとはいえ既に大量の魔導力を吸収していることが、ここにきて大きな誤算と言わざるを得ない。実のところ、すでに私が吸収できる魔導力の限界は近く、私が吸収できる魔導力は多くない。
その決して多くない限界量まで魔導力を吸収したとして、それで扉を閉められれば問題ない。しかし、吸収量が少なすぎて扉を閉めるに至らなかったとしたら…?
その場合、再び私が魔導力を吸収するためには、限界まで吸収したそれを消費する必要があるだろう。
基本的に魔導というものが使えない私は、それを消費するのに生命力として使う以外には、現状では先程簪を自分の手に刺したように、自傷して傷を治すために魔導力を強制的に使わせる以外に手はない。
四の五の言っている場合ではないけど、フィリーの前で自分を傷つけるのは何となく躊躇われるが、まだそれを強いる状況でもないのに、その事を憂いても仕方ない。
躊躇ったところで結局のところ私は必要ならば、フィリーが何を言おうとも、それを行うだろう。だったら、憂えること自体が全く意味をなさない、私の感傷だ。そして、今は感傷に浸っている場合じゃない。
「フィリー。量が量なだけに、私の力では魔導力の勢いを完全に消すことは難しいと思う。私にできるのはその勢いを弱める程度、それも時間はあまりないと思う。水が減り始めたら、一気に扉を閉じて、鍵を閉めて」
「分かった」
私の緊張した声に、フィリーも固い返事をした後、私から離れて扉のすぐそばに立つ。それを確認して、両足で踏ん張って、再び私は水の中に手を入れると魔導力の吸収を始めた。
吸収を初めた瞬間から、既に気分的にはお腹一杯ならぬ、魔導力一杯な感じたけど、目に見えるほど水の量は減りもしない。勘弁してよと思いながら、私はこれ以上は魔導力を吸収するなと訴える体に鞭打って、更に吸収量を上げる。
魔導力を吸収するのに、その吸収口みたいなものが現実体のどこかにある訳じゃない。
だけど、一度に吸収する量が通常より多いからだろう。増やしたその量に比例して、ぎりりと無理やり拡げられるような不快感と鈍痛がして、顔が歪む。
歯を食いしばってそれに耐え、もうひと頑張りと吸収量をもう一段階上げると、やっと目に見えて水の量が減るのが分かった。
フィリーもそれをすぐに察知して、扉を押しにかかる。だけど、私の力が及ばないためか、水流の強さに扉はあまり大きくは動かない。
ジワリジワリと閉まっていく扉と、フィリーが顔を赤くして必死に扉を押す様子を横目に見て、心の中では早く終わってと叫びつつも、苦痛に耐え忍ぶしかない。
体内に入ってくる魔導力の多さに、体の自己治癒力が格段に上がり、簪を押しやって体が再生していき、ついには簪は体から飛び出し、水に流された。同時にその傷の治癒に費やされていた魔導力が減り、溜まる量が増えた魔導力に体がさらに重くなる。
(もう、無理!)
内心では既に数回、こんな面倒な事を放り出したい気持ちにかられている。同時にそんな甘さを、自分で叱咤しつつ、体中から聞こえてくる何かが切れる音に私は既に自分の限界を超えていることを感じる。
その間に扉は水量が減ったからなのか、フィリーの押す力が強くなったのか、勢いづいて閉まっていく。そして、多分実際には短いのだろうけど、痛みの時間はひたすらに長く感じられても、最後は二人して大きく呻きながら最後の力を振り絞り、一気に水を押し返すように扉は閉じられた。完全に。
―――ガチャン
同時に素早く鍵を回す音が響く。
私は流れ込んでくる魔導力が無くなって体から力が抜け、更には強烈な痛みに襲われて体が崩れるようとするのを何とか踏みとどまる。
「と…止まったのよね?」
途中かなり辛くはあったけど、世界の危機という割にはあっさりとした終わりに、止まったのは嬉しいんだけど何だか不安になって問いかける。
扉からはフィリーが言っていたように隙間から水が流れ続けているようだけど、その量は先ほどに比べればあまりに微々たる量だ。これならば、この神域が水で水没するには何百年とかかるに違いない。
「ああ…アイルのおかげだ。ありが―――」
フィリーも安堵するように言って、私を振り返ろうとした瞬間だった。
「やはり、止めたか。さすが、【この世にあらざる者】だな」
フィリーがはっとして表情を強張らせるのが分かった。確かに安心したこのタイミングで男が、突然現れては驚くだろう。だけど、私は何となくそれを予期していた。
「その意味、説明してもらいましょうか?カルラ」
痛みのあまり、いっそ気絶したいくらいの体に鞭を打って、何処からともなく現れたカルラとフィリーの間に私は割って入る。
【この世にあらざる者】という言葉は、先ほどもこのカルラが私に向かって言った言葉だ。あの時は、それ以上に状況の打開が先決だったため聞き流したけど、<闇の階>が止まった今、力づくでもそれを聞く価値はある。
「アイルと言い、貴様と言い、どうして神域に入れる?貴様が扉を開けたのか?」
フィリーも状況から、この男カルラが<闇の階>を起こしたと考えているようだ。だけど、どうやってカルラがそれを成しえたかは分からない。私やカルラが神域に入れる理由も。
「話すと思うか?」
その答えを聞き終わる前に私は動いていた。
態勢を低くしたままカルラに向かって突進…という言葉がふさわしい勢いでぶつかり、そのまま男を押し倒し抵抗できないように体の動きを抑え込む。
「え、あ、アイル?」
恐らくその私の動きに付いていけなかったフィリーは、戸惑ったように私の名を呼ぶ。
ちょっとばかり本気で動いたから、それも仕方ないと思う一方で、私に完全に体の自由を奪われたというのに、私を見上げる表情一つに動きもないカルラにはどうして、平然と押し倒されたのだろうという疑問が沸き起こった。
押し倒す間の瞬く時間、フィリーには何が起こったか分からないそれを、この男はちゃんと見えていたはずなのだ。一瞬たりとも私から視線を外すこともなく、間違いなく避けられたはずの私の攻撃を男は何もせずに受け、そして、倒されている。
「どうして避けなかった?」
「避けても避けなくても、どちらも結果は同じだからだ」
「?」
意味が分からなくて、訝しむと男は鼻で笑う。
「お前は俺に何もできない。どちらにしても…そういう意味だ」
その言葉に首筋に当てていた手に力を込めた。
「この状況でどうしてそんなことが言えるのかしら?」
勿論、本気でいますぐカルラをどうこうしようなどとは考えていない。状況が私にとって優位な点も、カルラが何を言おうが変わりない。
だけど、感情の揺らがないカルラに私の中に過る不安が語気を強くさせる。
「王妃よ、分かっているだろう?魔導力がなく、それを知るすべもないお前だからこそ働く本能が、俺と戦うなと囁いているだろう?」
不安を見透かされるように囁かれた言葉を、今度は私が鼻で笑う。
「だったら何?例えそうでも、そんなもの捻じ伏せる。何もできないかどうかは、やってみてから考える」
言いながら首元に当てた手と、腹を押さえつけている膝にぐっと力を入れる。しかし、目の前の男には苦悶の表情一つ浮かばない…何故?
「…アイル。無駄だ。それは実体のない幻だ」
その問いに答えたのは、カルラではなくフィリーだった。
「何言っているの?カルラは確かにここに―――」
押し倒している体の感触は幻なんかではなく、確かに現実にあ…そう思った瞬間、それが私の下から消える。
「強い魔導力によって作り出された幻は、現実とほとんど変わらないものだ」
淡々としたカルラの声が突如として背後から聞こえ、勢いよく振り返れば先程まで私が倒していたはずなのに悠然と立っている。
「だが、所詮は魔導で作られた幻だ。感覚はないし、力もない…その体で俺たちをどうこうできると思っている訳じゃないだろうな?」
首を絞めても苦しそうな様子一つなかったわけである。魔導力を察知できない私には分からないが、フィリーはそれを察知したらしい。
「別に<闇の階>がどうなったか確認したいだけだから、何も問題はない。そもそも俺はお前たちを傷つけるつもりはない」
「意味が分からない。先日、アイルを襲ったり、舞踏会を襲撃し、<黒の階>まで起こしておいて、俺たちを傷つけるつもりがない?」
フィリーの言う事はもっともだけど、その一方で私も<神を天に戴く者>の中途半端さに違和感を感じてはいた。
先日、後宮で襲われた件にしても単独犯であっさりと引いたし、舞踏会や今に至っても、この男はいくらでも私もフィリーも殺す機会があった、<闇の階>だってもし、カルラが扉を開ける方法を知っているというのなら、もっと簡単に起こせたはずなのに、全ては中途半端なところで攻勢の緩められているような気がしていた。
「そうだな…ここまでの頑張りを見せてくれてくれた王妃に免じて、一つ教えてやろう」
それは何故か?
全ては私や、騎士たちの実力だ…なんてことは、この散々たる状況に言えるはずもない。今回の一連の事は、それほどまでに全てが後手後手に回っている。
「俺は確かめたかった。王妃、【この世にあらざる者】、お前の実力を。先日の後宮の襲撃も、舞踏会での戦いも、お前の能力を見極めたかった。そして、この神域でも…起こした<闇の階>を止められる力を持つか、それを確認しておきたかった」
ひたりと幻とは思えないカルラが私を指さす。
「それで私が狙われた…と?それで世界を危険に晒してまで、私の能力を確かめてどうだったの?あんたのお眼鏡にかなったのかしら?」
相手が実体のない幻だろうが、正体の知れないカルラがいつ何時こちらに牙をむくかは分かったものではない。私は周囲を警戒しつつ、言葉を返す。
そんな私を嘲笑するように、感情の見えない表情のままカルラは大げさに腕を広げた。
「無論だ!貴様の生い立ち、身体能力、魔導吸収能力、性格、どれをとっても俺の理想通りだ。お前がいてくれるから、俺の復讐は完成する…いや、お前と世界王、二人のおかげか」
「復讐?」
私とフィリーがいる事で、成立する復讐?それは一体、どういう意味?
だが、カルラは私の疑問には答える様子もなく、声を立ててて笑った後、私たちの前から姿を消した。
「しばらくはそのための準備がある。次に会う時こそ復讐の時…それまで頼むから死んでくれるなよ。世界王も、王妃も」
かくして、私がその『復讐』の真実を知るのは、この後だいぶ先になる。だから、その先にある絶望も、悲劇も、今はまだ何も知らない。
それでも、言い知れぬ不安を私は抱え続ける事になる。そして、その『復讐』の時、私はその不安が正しかったことを知る。
その不安からくる焦燥に耐えるように、私は懐に忍ばせたままにしてあった指輪を取り出すと、それを強く握りしめた。
多分、次で第八章終了する予定です。次はもう少し早く更新できたら…と思っています。