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かくして、呆けていた時間はどれくらいだったろうか?
それは恐らく一瞬の事。だけど、愕然とした思いや焦り、混乱、少ない言葉に集約するのが難しい感情に我を失ってしまった私にとって、とても長い時間に感じられた。
それを正気にさせたのは、奇しくも拡大しつつある魔導力の嵐による衝撃だった。
近づいてくるのに気が付かなかったため、逃げ遅れた私は横から薙ぎ倒されるような強烈な風圧に、ゆらり…なんて優しいものじゃなく地面に体を叩きつけられそうになる。
それを咄嗟に後ろに転がることで何とか回避して
(危な…ちょっと、私っ!茫然としている場合じゃないわよ!!)
思わずそんな風に自分自身に喝を入れる。
事態はその流れも終わりも全く見通せないものとなり、起こした行動がどんな結果を招くことになるのかも分からない。
そんな中で闇雲に動けないと理性が訴えても、事態は一刻の猶予も与えてくれない。
躊躇っている余裕はないのだ。ともかく、何かをしなければと思うのに大きくなり続ける魔導力の嵐を前に本能的な怯えと諦めが先行してしまう。
(逃げないって言った以上、諦める選択肢は無しよ!)
そんな自分を奮い立たせるように心の中で叫びながら、それならば自分ができる事は何だろうと考える。
ケルヴィンは私の魔導力吸収の能力が<闇の階>を止めるのに必要だと言っていた。それがどこまでを想定しての言葉かは分からないが、現状で頼みにできるのはやはりこの能力だけなのだろう。
確かに嵐だろうが何だろうが、魔導力によるものなんだったら、吸収さえできればどうにかなるかもしれない。
問題は今の私の状況では、嵐の勢いを緩めるほどの魔導力の吸収は望めないこと。それが望めるなら、既に指輪を外した状態の私が吹っ飛ばされそうになる訳がない。
ならば…と私は懐に忍ばせておいた、髪を結いあげるのに使っていた簪を手に持つ。
剣を受けるのには華奢すぎるそれでも、突き刺すには十分な強度がありそうなだと武器代わりにこっそり持っておいたのだ。
さて、これをどうするかと言えば…膝をつき左手を地面につける。それから、逆の手で簪を大きく振りかざし、私は躊躇いなく地面に置かれた甲に簪を突き刺した。
「っ!?」
自分でやっておいてなんだけど、あまりの痛さに息が詰まる。
勢いよく突き刺した簪は骨のない部分を貫通し、同時に指輪を外しているので、傷ついた部分を回復しようと魔導力が簪の突き刺さった箇所に集まりだし、熱をもちだす。
だけど、貫通している以上、どんなに治癒をしようとも傷が塞がることはない。それでも、傷を治しつづけようと私の中の魔導消費量は増える。
そう、私は決してとち狂って自分で自分を傷つけたわけではなく、それによって強制的に自分が吸収できる魔導量を上げたかったのだ。
手の甲くらいの傷では量も格段に上がる訳ではないが、自分が動けなくなるくらいの傷を負っては本末転倒。後は嵐の中に入ってみないと、この作戦が成功かは不明だけど、とりあえずは準備完了。
私は恐る恐る嵐へと一歩足を踏み出す。
(よし。何とか大丈夫そう)
荒れ狂う嵐は私の周りで勢いを完全に殺した訳ではないが、その威力は半減され態勢を崩すほどのものではなくなった。
それを確認して私は両腕を顔の前に翳し、上半身を前のめりにしたまま進みだす。
しかし、半減されたといってもその一歩一歩はかなり重く、フィリーを飲み込んだ球体までは大した距離もないくせに、全然近づいてこない。
カルラもこの嵐の中に入るのは無理らしく、上空で止まったままこちらを攻撃してくる様子もない。多分、攻撃を仕掛けても、この魔導の嵐が全て弾き返してしまうだろう。
すなわち、この嵐がやまぬ限りは私の行動を邪魔するものはいないという訳だ。
(だけど、問題はあの球体からどうやってフィリーを助け出すか)
徐々に近づいてくるフィリーを覆い隠してしまった黒い球体は、その大きさを一定に保ったままだけど、確実に周囲に発する魔導量を増やしてきている。それは、その発生源となっているフィリーの負担も増えている証拠だ。
(フィリーが無事な状態なのは、あとどれくらいの時間なの?)
こうしている間にも、フィリーの体が溢れる魔導力に引き裂かれるか分からない不安に焦る気持ちがせり上がってくる。
焦りは冷静な思考を鈍らせ、何か手はないかと必死で考えてみても何一ついい考えは思いつかない。
そんな状況のまま、やっとのことで問題の球体に触れられる場所に辿りつく。風圧というか、魔導圧というか、そのせいでたった少しの距離を歩いただけでかなりの疲労感を感じ、更にこれからの行動にフィリーの命がかかってくるという責任感に、更に疲労感が増す。
(ともかく、これも魔導力に違いないんだから、まずは吸収できないか挑戦してみよう)
得体の知れない球体に恐る恐る手を伸ばし、触れるか触れないかの瞬間だった。
―――バチッ
そんな音と共に目の前に火花が散り、電撃のような痛みが走る。咄嗟に手を引こうとするが、見えない力に引っ張られるように体ごと球体に引き寄せられる。
強い力に抵抗することもできず、次の瞬間、私は黒い球体の中に完全に引きずり込まれたのである。
▼▼▼▼▼
「球体の中…じゃない?」
確かに球体の中に入ったはずの私であったが、目の前にあるのは先程と同じ神域と呼ばれていた場所のように思えた。
ただ、荒れ狂う嵐も私を引き摺りこんだはずの球体も姿を消し、穏やかな日の光が降り注ぐ景色のみが存在している。
かくして、何かに化かされているような気持ちになり戸惑いつつも、足を一歩踏み出すと、水音と冷たい感触を足に感じた。
何だろう…と下を確認すると、ちょうど近くを流れていた川が増水し氾濫している。
―――ゴオオオォ
混乱してすぐに気が付かなかったが、先程まではせせらぎが聞こえてくる程度の穏やかだった川の流れは、今、濁流の如く激しいものとなり氾濫している。雨も降っていないのに、明らかにおかしい。
一体何が起きているのかと、流れの上流へと視線を動かして、同じような場所に見えて、この場所は神域とは明らかに違うということに気が付く。
先程までいた場所はどこまでも見渡せる平原だったが、ここは大きな丘陵らしい。私はその途中に立っており、川の流れは丘の頂上からものすごい勢いで下っている。
(頂上に何かあるの?)
幸いに頂上までの距離は近く、異常な水量の原因を探ろうと目を凝らす…と、人影…それも見知った人物がいるではないか。
「フィリー!」
思わず叫んだ私に、ぎょっとして振り向いた顔はやはり間違いなくフィリーだ。私はそれを確信する前に既に走り出していた。
「ア、アイ―――ウワッ!?」
私の出現に驚いた表情を見せたフィリーは、恐らく私の名前を呼ぼうとして、何故かそのまま吹っ飛ばされて地面に倒れた。
「フィリー!?」
盛大な水しぶきが上がった後、すぐにむくりと起き出したので問題なさそうだけど、そこで私はようやくフィリーの背後に異常な物体があることに気が付く。
それはこの異常な川の氾濫の原因。
川なんて荒地ばかりの大地でお目にかかることはないけど、<緑土>や<神の揺り籠>では珍しいものでもない。大抵は湧き出た水の流れが雨水と交じり合い造られるもの。だけど、目の前の川は違うようだ。
―――そこには開け放たれた扉があった
私の身長半分ほどの高さを地面から浮き上がり、重厚感のある鉱物で作られたその扉は、見る限り一般的な用途を果たしているようには思えなかった。
だって、そうでしょう?区切られてもいない、広大な丘陵の頂上に扉だけあったところで何の意味があると思う?
だけど、それは何か特殊な扉なのだろう。
宙に浮いているだけでも驚きなのに、その扉からは何処と繋がっているのか分からないが大量の水が、轟轟と音を立てて放出され続けているのだ。
氾濫する川の原因は、間違えようがなくこの扉からの水だと分かる。
フィリーは開け放たれている扉を閉める事で、その水の流れを止めようとしていたところを、私に呼ばれてしまったために、態勢を崩して水圧で吹っ飛ばされたという訳である。
以上、状況整理終了。
何はともあれ、フィリーの無事を確かめなくてはと、頂上に近くなるにしたがって水流に足を取られて動きにくくなるのを無視して、起き上がったまではいいけど座り込んだままのフィリーに駆け寄った。
「大丈夫!?」
一見すると怪我もないようだし顔色もいいフィリーに、今すぐ彼が<闇の階>によって命を落とすようなことはなさそうだと安堵しつつ、私は起き上がらない彼に手を差し出す。それにはっとしたようにフィリーが叫ぶ。
「どうして、アイルがここにいるんだ?!逃げろって―――」
「言われたけど、逃げる訳ないって返したでしょう?」
言いながら私は手を取ろうとしないフィリーの腕を自分から掴んで引っ張り上げた。
「ア・イル?」
呆然自失といった感じでフィリーが私の名を呼ぶ。
まあ、舞踏会がめちゃくちゃになるまでは従順で大人しかった王妃がいきなり、こんな風になってしまっては彼も混乱するかと自嘲する。
猫を被っているだろうと想像していたとしても、フィリーもまさか私がボロボロのドレスで、髪を振り乱し、血だらけで、言葉遣いもなってなくて、敵とは闘うし、力強く男性すら難なく引っ張り上げてしまうような女だとまでは思っていなかったに違いない。
『少なくとも貴様らが互いを大切に思っているのは、今の相手ではなく、過去の相手だという事は知っている』
不意に先程カルラに言われた言葉が甦る。
私も一瞬その言葉に考えさせられたが、それはフィリーもきっと変わらない。フィリーが見ているのは、八年前の私、そして、大きな猫を被っていてた私。
だからこそ、今の本当の私にこんな表情を…あれ?一瞬だけ思考に意識を逸らしているうちに、フィリーの表情は呆然自失から、酷く苦しげなものに変わっている。
「俺は巻き込みたくなくて、アイルを突き放したのに…どうしてそんな俺のために―――」
どうやら自分を責めているらしく、私の両肩に手を置き項垂れると、フィリーは苦しげな表情を隠してしまう。
責任感が強いというか、色々しょい込んでしまうというか、上っ面だけの会話しかしてこなかったら気が付かなかったけど、そういう部分は昔と変わらないなと思いつつ、私は肩に置かれた手に自分の手を重ねる。
「そんな風に自分を責めなくてもいいよ。私は貴方を助けたい、ただそれだけだし」
言ってやりたいことはヤマほどあるけど、少なくともフィリーが攫われたり、<闇の階>をおこしそうになったりしているのは、フィリーばかりのせいじゃない。<神を天に戴く者>はもちろん、世界王を守れなかった騎士や、私にも責任はある。
だから、ありきたりな言葉しか言えないけど、加えて彼を励ますように重ねた手をポンポンと小さくたたき、笑ってみせる。
大体、今は項垂れている時間も惜しいくらいなんだから切り替えようと言う意味も込めた私のそんな態度に、だけど、返ってきたのは酷く赤面するフィリーという、初めて見るような彼で私は少しだけ戸惑う。
その反応がフィリーのどういう感情を表しているのか分からないし、何となく熱を持ったような視線に晒されて酷く居心地が悪い。
何か言ってくれればいいけど、フィリーは無言なままだし……
(とりあえず、私に罪悪感を感じる必要がない事をもっと明確にしたら、正気に戻るかな?)
そんな風に思いつつ、更に言葉を重ねた。
「それに<闇の階>を止める。これは私の任務でもあるんだから、本当に私を巻き込んだなんて思わなくていいんだからね?」
任務だと告げるとフィリーが大きく目を見開く。
「え?」
今まで言わなかったのは、<闇の階>について探っていることがばれる事で、その兆候を隠されることを防ぐためで、ケルヴィンから口止めされていた訳でもないから、告げる事に躊躇いはなかった。
何はともあれ、フィリーの気を少しでも楽にできればと思っての言葉である。
だけど、どうやらそれはフィリーのお気に召す言葉ではないようだった。
「あ~…そうだよな。うん、すまない」
よく分からない返事を並べた後、もう一度がっくり項垂れて大きく息を吐く様子は、気が楽になったというよりは何だか酷くがっかりしている様子に見えた。
活動報告に後書きがあります。