8-6
立っているのもやっとなほど荒れ狂う魔導力は、穏やかであった神域を一変させた。
何もできないまま、それを呆然と見つめるしかない私の脳裏に、聊かふざけた口調の男の言葉が過る。
『君に与える最後の任務だ。【世界の終り】を阻止せよ……なんちゃって?』
茶化されて告げられた、軍人としてしてではなく個人的に依頼されたあの男からの最後にして、私が王妃となった最大の理由である任務内容。
はっきり言おう、私はそれを信じていなかった。寧ろレディール・ファシズに私を嫁がせるための、建前だろうと重く考えてもいなかった。
いや、違うな。あの男がこういったことで偽りを吐かない事は分かっているのだから、私はそれが真実だと分かっていて敢えてそれを重く受け止めなかった。考えたくなかったというのが正しい。
(だって、だって、だって)
心の中でみっともない言い訳を繰り返して、だけど、消えるはずもない目の前の現実に頭が真っ白になる。
やらなければならないことは理解している。その手段も。だけど、目の前に迫る圧倒的な存在に、委縮する自分を奮い立たせる事ができない。
「は…ははっ、私一人でこれを止めろって言うの…無理よっ」
笑いが混じった独り言が震えた。みっともないと、心の隅で目の前の光景に怯える情けない自分を叱咤する。一方で本能はこの場から逃げろと告げている。
だけど、その本能に従えない理由が私にはある。課せられた任務だけじゃない。
(フィリー…!)
震える体を抑え込むように強く拳を握りしめ、目の前の光景に目を凝らす。
そこにあるのは荒れ狂う草原と、フィリーがいたはずの場所にある黒い球体。
―――ポタリ・ポタリ
青空に浮かぶ一点の黒い染み。それがどんな原理で、どうして現れたかなんて私には分からない。だけど、どう見ても異常だと言わざるを得ないその物体は、空からフィリーに向かって黒い滴を降らせ、あっという間にフィリーを覆い隠し、今や小屋程度の大きさの球体となった。
フィリーを救い出したいと思っても、魔導力の嵐を前にその場に立っているのもやっとの状況で、一歩も近づけない。
やがて、上空の黒い物体からは滴とは別に、黒い鳥たちが無数に飛び立ち、美しい音色を奏でだす。それはまるで鎮魂歌のように物悲しく、胸が締め付けられるような音色。
その歌に力を与えられるように、滴が落ちるスピードは増し、球体は更に大きくなっていく。それから逃れるようにカルラがふわりと浮きあがった。
(間違いない。あの男が何かをした)
そうでなければ、今までなんら不安定な様子すら見せていなかったフィリーが、いきなりこの状況になるなんてありえない。
そう考えてカルラを恨み噛みつくのは容易い事だろう。だけど、始まった事象に対してあの男に何をしたところで、事態が変わらない事も同じくらい容易く想像がついた。
だったら、今はその感情を捨てろ…と、言い聞かせるようにカルラから視線を外して私は震える自分の掌の上にある指輪を見つめた。
恨むことも、怒ることも、絶望することも、生きていれば後でいくらでもできる事。今私がすべきは、この目の前の現状を受け止めて、対処する事。
―――レデイル・ファウスト
それは古い言葉で【闇の階】という意味を持つ。全ての終わりを告げる禍。
▼▼▼▼▼
―――数か月前、オルロック・ファシズ
資料などが雑然と散らばる机ばかりが並んだ部屋。
啜った冷めたコーヒーの薄さに内心で顔を顰め、手元にある書類に不備がないか確認していると扉をノックする音が聞こえた。
通常、人がいる事が稀だと誰しもが知っている場所にも拘らず、鳴らされたノックに眉を顰める。
ここはオルロック・ファシズ軍、情報部の詰所の一つ。
情報部というとデスクワークも多く、詰所に誰かしら詰めていると思われがちだけど、私の部署は現場での諜報活動が主なため詰所に誰かがいるという事はほとんどない。ちなみに私も偶々報告書を出すために、少し立ち寄っただけだ。
なので、この部署の人間に連絡を取ろうと思えば、詰所を訪れるなんて、非効率的すぎる方法だというのは周知の事実なはずなのだ。(ここに勤め出して七年経つけれど、詰所の扉がノックされたのは、これが最初で最後だった)
「………」
正直、居留守を使おうかと息をひそめてみたのだが、もう一度扉がノックされたことで諦める。多分、扉の向こうの人物は私がここにいるのを知っていて、部屋を訪れている。そんな気がしたから。
「はい、開いてますよ」
ため息交じりに返事をすれば、扉から顔を出したのはあんまり会いたくない男の顔。
「やあ、アイル。酷いなぁ、人の顔見た途端にそんな嫌そうな顔しないでよ」
オルロック・ファシズ自治議長、ケルヴィン・ヘインズ。
中年もいい所なのに、あまり年齢を感じさせない美中年ぶりを如何なく発揮する男のへらへらした顔に、思いっきり眉間に皺を寄せた。
「いいおっさんが、しかも議長がそんな軽い口調で話さないでくれる?」
「え~?別にいいじゃん。ここには僕とアイルしかいないんだ。僕だって人前では冷酷で切れ者の議長で通ってるんだよ?」
だったら、私の前でもそうしてくれと言いたいところだが、言った所でそれが改善されるとも思えず、ただ無意味に言葉を重ねるだけになりそうなので口を噤んだ。
態度や口調はともかく、この男が恐ろしく頭が切れることはよく分かっているし、口で敵うとも思わなかった。
「それで何の用なの?」
「用がなくちゃ会いに着ちゃダメ?僕はいつだってアイルに会い―――」
その言葉を最後まで聞くに耐えなくて、近くにあった鋏をケルヴィンの顔めがけて投げつける。
それを『あはは、危ないなぁ』と全く感情の籠らない声で、笑って二本の指で受け止めるケルヴィンに大きく息を吐いた。
「戯言はいいの。さっさと本題に入って、私も暇じゃないのよ。また、すぐにシャンドラに戻らなきゃいけないし」
私は八年前の事件をこの男によってもみ消してもらった代わりに絶対服従を強いられつつも、軍人として中々に多忙な日々を送っていた。…まあ、軍人っていうよりはその他雑用係って感じもしたけど、ともかく、それなりに充実した日々を送っていたし、これからもそのつもりだった。
「それは取りやめだよ、アイル」
この軽薄親父がにっこり笑って告げる新しい任務さえなければ。
「君にはレディール・ファシズに行ってもらう事にしたから」
「あんた、向こうには散々間者を送り込んでるじゃない。今さら、私に何をさせようっていうのよ?」
何となくというか、ひたすらに嫌な予感しかしない。その予感に息が詰まりそうになり、軍部に出所しているときにしか着ない軍服の詰襟の部分をぐっと引っ張って、とりあえず反論してみる。
「勿論、君みたいに隠密行動に向かないような人間を間者として送ったりしないよ。うーん、何ていったらいいのかな?潜入捜査?」
「潜入って…レディール・ファシズに?」
「うん。しかも、世界王のすぐ傍ね」
表情をあからさまに強張らせたつもりはなかったけど、思わず息を飲んだ私にケルヴィンが厭らしく笑みを作った。
「潜入って言っても、隠れる事も、偽ることも無い。誰に憚ることなく、すごく自然に世界王の横にいられるよう手筈は整えてあるから、アイルは心置きなく【嫁いで】ね」
(…トツグ?)
言われている言葉の意味を理解したくなくて、頭が真っ白になって言葉が口から出てこない。
「これは君にしかできない事なんだ、アイル。君だけが世界王を、あの子を救える。世界の終わりを止める事ができるんだ」
だけど、『あの子』…恐らくフィリーのことを言っているのだと思うけど、それを告げた時にだけ普段感情の見えないケルヴィンの表情に悲痛な色が見えた気がした。一瞬で消えてしまったから、それはあくまで気のせいかもしれないけど。
「まあ、色々突然で混乱しているだろうから、とりあえず任務の概要を話しちゃうね?うーん、何から話すのがいいかなぁ?……うん、まずは世界王という存在についてからかな?」
返事も相槌もないものとしてケルヴィンは勝手に話し出した。話は【世界王】を語る前に【神】という存在が何から始まる。
そもそも【神】とは巨大な魔導力の塊のようなものらしい。
かつて世界は大地が緑に覆われるほど生命力に溢れ、それは同時に魔導力に溢れていることと同義だった。だが、現在、大地のほとんどは枯れ果てている、それは何故か?
―――それは果てしないほどに救いようのない人間の傲慢
人間は世界中に溢れる魔導力全てを管理し、それを人間のためだけに使う事を考え実行した。当時の文明ではそれが可能だった。
世界中に溢れる全ての魔導力という魔導力は【神】という存在に集約され、集まった膨大な魔導力を限られた人間と、それが住む場所だけに使った。結果、魔導力を吸収されるだけで与えられない大地の多くが荒れ果て、<不入の大地>となり、人間が住まう場所だけが<神の揺り籠>という名の楽園となった。
【神】、それは確かに人々を救う奇跡を起こし、世界を変える事ができるほど大きな魔導力。
だが、その扱いは現在よりはるかに優れていたと思われる文明においても困難を極めた。大きすぎる魔導力は安定するという事がなく、いつ暴走を起こすともしれぬ不安要素も抱えていたのだ。
―――その打開策として造られたのが【世界王】
【世界王】とは【神】の安定しない魔導力を制御するために、当時の文明の粋を集めて造られた人造人間だったらしい。
ちなみにあくまで『らしい』というだけで、現在の世界王は人間と比較して違うところはなく、どのあたりが【人造】なのかも分からない。ただ、そういう記録が残っている以上そうなのだろうと推測するしかない。
だけど、実際、世界王だけが【神】を制御する力を持ち、【神】の力を自分の意志で行使しえる。それは確かにそのほかの人間とは違う何か。
「【神】を制御するって言っても、別に特に難しく考える事は何もないんだよね。確かにいつも自分と繋がっている、大きな魔導力の存在は感じている。だけど、それはいつも凪いでいて、暴走する気配の一つもない」
そう事も無げに言い放つケルヴィンに、ああそういえばこの男はかつて世界王だった人間なのだと、今更に自覚する。
「だけど、何がきっかけかは分からないけど、【神】が不安定になる時が確かにある。そうなると、【神】から溢れようとする魔導力をギリギリのところで押さえつけるしかないし、体から突き破ろうとする魔導力にたうち回る羽目になる。だけど、だからって世界王がいる限り、【神】を暴走させることはまずない。少なくとも僕はそれを不安に思ったことは一度もないよ」
聞いている話が途方もなさすぎて、微妙に理解できているか自信がない。何しろ【神】だの【世界王】だの、オルロック・ファシズで生きている私にはあまりにも現実感のない話なのだから。
「だけど、ここまでの歴史の中で2回、世界王は【神】を暴走させかけたことがある。教会はそれに【闇の階】っていう大層な名前をつけて、神が与える人間への罰だとか禍だとか御託を並べているが、それは要は【神】の暴走」
「……暴走って、具体的に何が起こる訳?」
色々追いついてはいないが、それでも何とか言葉を発せられるくらい落ち着いてきた私は漸く一つ尋ねた。
「<神の揺り籠>の壊滅。実は世界塔っていう全文明の建物以外、<神の揺り籠>は2回消滅しているんだよ。大きすぎる魔導力の暴走は建物も人もすべてを飲み込んで破壊してしまうんだ。まあ、生き残った人たちでちゃんと復興を遂げたけどね」
「あんたが私に止めろといった【暴走】っていうのは、その【闇の階】の事なのよね?被害が<神の揺り籠>で収まるなら、オルロック・ファシズが動く必要はないんじゃないの?」
一瞬だけ八年前に私を置いていったフィリーの顔が脳裏を横切ったけど、私はそれに気が付かないふりをして言い切る。
「まあ、君の言っている事は最もだ。それで済むんだったら…自治議長としては何をするつもりもない。だけど、過去2回はあくまで途中で【闇の階】が止められたために、その程度の被害で済んだという話なんだ」
「それは世界王が止めたの?」
【神】を制御できるのは世界王だけだというのだから、そうに違いないという質問しつつも確信を持った私の問いかけに、ケルヴィンは首を横に振る。
「いいや、それを止めたのは巫女さ。【神】の制御や力の行使は世界王にしかできないが、それでも暴走の危険が拭い去れなかったため、先人は世界王が【神】の暴走を止められなかった時のために別の抑止力も用意していたんだ。それが巫女だ。過去二回の【闇の階】は巫女の力によって食い止められ、被害は<神の揺り籠>に留められた。だけど、巫女がいなければその被害はどうなっていたか定かじゃない。これはあくまで俺の想像にすぎないけど、多分、世界全部が吹っ飛ぶんじゃないかと思う。【神】が持つ魔導力っていうのはそれだけの規模なんだ」
『それだけの規模』と言われても、あまりの壮大過ぎる話は私の許容量を超えている。だけど、言っている意味は理解できる。
「なるほど、確かに【闇の階】が完全に発動すればオルロック・ファシズも吹っ飛ぶ可能性があるのは分かった。だけど、巫女がいるなら大丈夫なんでしょ?今の世界王の横にも、巫女はちゃんといる。だったら、その可能性は限りなく低いと思うけど?大体、巫女しか止められないものを、どうして私に止めろなんて言うの?」
この話が始まって消えないフィリーの面影の横に、美しい少女が並んだ。それを無理やりにでも振り払うために、私は本当に考えなくてはいけないことに意識を集中させる。
(そもそもどうして今、この話を私にするの?)
【闇の階】が世界にとって非常に危ない存在であることは理解できるけど、それは【神】が存在している以上、ずっとあり続けた問題なはずだ。それを急に私に止めろと言い出したのはどうして?
「それは―――」
「それは?」
いつもの胡散臭い笑顔が消えた真剣な表情に、思わずごくりと喉が鳴る。かくして、ケルヴィンが告げた言葉に私は大きく目を見開くこととなる。
後書きが活動報告にあります。