第六章 現在6-1
高く晴れ渡る空に大きな歓声が響く。
「フィリー王万歳!!」
「我らの世界王、万歳!!」
空気を震わせるような歓声、誰しもが世界王の名を呼ぶことを喜び、彼の誕生したこの日を祝う。
それは世界王への絶対的信頼とでもいえばいいのだろうか?
一途で揺らぐこともないその感情は妄信的で、ある種の危険を孕んでいることに、歓声を上げる人々は気が付いているのだろうか?
世界王フィリーを讃え祝う国民たちの声に笑顔で手を振り続けるフィリーの背に、私は彼への誇らしさと同時に、あまりに大きな期待を一身背負う彼に不安すら抱きつつ、その傍らどころか背後に隠れるように立ち尽くすしかできずにいた。
今日はフィリーの26回目の誕生日。世界王である彼の誕生日は、誕生祭としてレディール・ファシズでは祝日とされ、一日お祭り騒ぎになるらしい。
その行事の一つとしてフィリーは民衆に演説をする。
城前の広場に面するテラスは演説をするにはうってつけの場所で、かなり広い広場にはフィリーの演説を直接聞くために入りきれないほどの人がひしめき合っている。
後宮から外に出られない私が滅多に見ることがかなわない城外の景色は、未だに情勢が不安定だと感じさせない程美しい。
ファイリーンから聞き及んでいたように、白壁に赤の屋根の建物が多く、統一感を損なうことなく眼下に望む景色は絶景だ。
以前の姿を知らないから私はただ美しいとしか思えないけれど、フィリーが世界王に即位してからの八年間を見続けてきた人々には、恐らく感慨深い思いがあるのだと思う。
フィリーは演説をすでに終えており、今はその歓声に応えているところだ。
迷うことなく、真摯に民衆に語り掛けていたその姿は、私が知っているかつてのフィリーとも、今、私の知るフィリーとも違う、若くとも堂々としたカリスマ性のある世界王として申し分ないように私は感じた。
そして、目の前にある人々の熱狂ぶりこそがその証拠だろう。
(遠いな)
それを喜びこそしても、こんな感想を抱くことが間違っている事は分かっている。
だけど、フィリーが世界王として相応しくあればあるほど、彼と別れてから八年間という歳月の重みを感じ、彼が遠のいていくように感じてしまうのだと思う。
だけど、その事を辛いと悲しいと感じると同時に、酷く安堵する自分もいたりする。
このまま世界王としてのフィリーを目の当たりにする機会が増えて、かつての彼と違う所を感じていく中で、もしかしたら私の中でしつこく残る恋情は過去のものになってくれるかもしれない。
私が好きになった普通の少年だったフィリーであって、世界王であるフィリーとは違うものだと私はそう思うかもしれない。
そうしたら、彼が私を好きじゃなくたって辛くない。悲しくない。………ああ、それはとても私を楽にしてくれるに違いない。
こんな風に思う自分はらしくない。だけど、私は疲れてしまった。
フィリーを想うことに、フィリーに想われていないことに、その横に美しい巫女がいることに疲れ果てた私は、そんな風に考えてしまうんだ。
「君も民に手を振って。」
振り返らないだろうと思った背中を見つめながら、そんな昏い思いに囚われていたところ、急に笑顔を浮かべながらそう言われて驚く。
「え?だけど―――」
オルロック・ファシズの王妃と言えど、正式な王妃である以上、何もしなくていいからフィリーの後ろで突っ立ていて下さいと言われて(本当はそんな言われ方ではなかったけど、意味はそういう意味だと思う)、なるべく人の目に触れないように後ろの方で縮こまっていたというのに、そう言われて戸惑う。
そんな私を勇気づけるように笑みを深くして、フィリーは私の腕を掴むと強引に私を横に並べた。
私を認めた瞬間に沸き立っていた民衆がその勢いを失い、私は血の気が引くのを感じる。
城で少し表を歩いただけで、あの反応だった。これだけの数の人間に、あんな風に蔑まれたり、忌み嫌われるといった負の感情をぶつけられるのは私も怖い。
思わず体を竦めて身構えた…次の瞬間だった。
「王妃様だ!」
ここまではっきりと聞こえてきた声は、多分子供の声。次いでフィリーへの歓声とは比べ物にもならないけど、歓声…ともとれる、決して私を排除するものではない声がまばらに上がる。
「不入の荒地の向こうから、はるばるようこそ!!!」
「早くこちらに慣れてくださいね!」
眼下で見上げてくる無数の眼に怯えつつ、その言葉を聞いて呆然としていると、私の肩をフィリーがそっと抱いた。
「ほら、声にこたえるんだ。」
先ほどより歓声は明らかに減った。だけど、罵声どころか私を受け入れてくれるような声と、フィリーの後押しに私は笑顔が引きつらないように、強張りながら笑みを浮かべて手を振った。
せっかくファイリーンから上品な手の振り方を教わり、マスターしていたというのに、どうしていいか分からなくなって酷く遠慮気味な小さな手の振りになってしまう。
そんな私にも少なくはない人々が旗を振ってくれる。何だかレディール・ファシズに来て一番感激してしまって、私はこみ上げてくるものが耐えられなくなった。
視界が僅かに滲み、こんな大勢の人の前で泣けないと咄嗟に思いつつも、どうしようもできないでいると、後ろから声がかかった。
「陛下。そろそろ次の式典の刻限です。」
振り返ると先ほどまでの私同様、フィリーの後ろに控えていた文官の一人らしき青年が頭を下げている。
「分かった。」
それに一つ頷くと、フィリーはもう一度民衆に向かって一つ手を振った後、私の肩を抱いたままテラスを後にした。
テラスから城内に入っても私はまだ信じられない心地のまま、どこま放心状態でフィリーにエスコートされるがままだ。
そんな私を見てフィリーが困ったような顔をする。
「大丈夫か?」
「……はい。ただ、何というか信じられなくて」
レディール・ファシズにとってのオルロック・ファシズへの感情は、城の中でヒシヒシと感じたくなくても感じてきた。それが民衆の前に出ることで、何百倍にもなって私を襲うんじゃないかという恐怖があった。
だけど、フィリーが横にいたからかもしれなかったけれど、それがなかった。歓声というほどのものでもなくても、まばらな声が上がった。
受け入れられたとは思わない。だけど、かけられた声に涙が出そうになるほどほっとした。
「城の中は信仰心の厚い教会の信者が多いから、必然的にオルロック・ファシズの人間であるお前の風当たりが強くなる。だが、一般の民衆はそうでもなかったりするものだ。」
「陛下」
世界王が軽々しく口にしてはいけないような内容を、さらりと言ってのけながらフィリーは私にハンカチを差し出してくれた。
ああ、なんで彼のことを好きじゃないかも何て考えた直後に、こんな風に急に優しくするの?なんて思いつつそれを受け取って目じりに溜まった涙を吸い取った。
ルッティが数時間かけて仕上げてくれた、フィリーが用意してくれた大人っぽいドレスに似合う、もはや私という面影が少ないメイクが泣いてしまっては台無しだ。
「いいだろう?実際、そうなんだ。オルロック・ファシズでも<神を捨てた移民>を一般市民は今となっては大して気にも留めていないだろう?それと同じだ。だから、怖いかもしれないが少しずつでもいいから、こうして民の前に立ってくれると助かる。」
「あ……」
そう言われて先日、リリナカナイから言われたことを思い出した。
(そうだ。私はレディール・ファシズにオルロック・ファシズを知ってもらうための王妃。必要なのは私ではなく、私がオルロック・ファシズの人間であるという事)
それに気が付いて、フィリーが妙に優しいことにも納得してしまい、切ないような悲しいような気分とともに、自分の中で何かが冷めた。涙がすうっと引く。
「私は大丈夫です。今は少し急だったので驚いただけです。申し訳ありません。うまく民に答えることができなくて、次からはもっとうまくできるようにいたします。」
「いや、上出来だった。それにそんなに気負わなくていいんだ。ゆっくりでいい、時間はあるんだ。君のことを民はきっと受け入れてくれる。」
その言葉が優しいければ、優しいほど、私が惨めな思いをするとフィリーは気が付かない。
彼の優しさの後ろにある思惑を知ってしまった今、それを純粋に嬉しいと思えなくなったことが悲しくて、でも、それに酷く安堵している私もいる。
知らずに彼の優しさに舞い上がって後で悶え苦しむよりは、きっとその方が私には楽だと思えるから。
「ありがとうございます。ですが、私は自分に与えられた役割くらいは、きちんと成し遂げたいのです。そうできるよう努めるくらいさせてください。」
だから、辛くとも悲しくとも私は笑える。
「アイルフィーダ?」
私の言葉の意味が分からなかったのか、問いかけるように名前を呼ばれる。
だけど、私が彼のその問いに答えることはない。
「次の式典が迫っております。お急ぎ願えますか?」
「…ああ。行こうか?」
タイミングよく文官に促されて私をエスコートしようとするフィリーに私は首を振り、腰を落とし頭を一つ下げる。
「申し訳ありません。以後は教会関係の式典ばかりという事なので、私は辞退させていただきました。」
「辞退…それではまるで君から断ったような言い方だな。本当は既にそう決まっていただけの話だろう?」
朝から始まって太陽は東から西に傾き始めた時刻だけど、式典やら行事やらは後半分くらい残っている。だけど、彼が言うように私がフィリーの横に立つのはその長い一日の中の半分もない時間だけだと『決まっていた』。
スケジュールを伝えられた時、教会関係の式典については辞退するようにと告げられた。表向きは参加してもいいのだけれど、空気を読んで辞退しろと迫られたのだ。
フィリーはその辺りの事情を知らなかったという事なのだろう。多分、それは教会側のお偉方の思惑なのだろうと察しはつく。
だけど、仕方ないな…とは思うのだ。国民や来賓に対するものと教会関係の式典では大きく意味が違うのだろう。
神を信仰する教会の式典に、オルロック・ファシズの王妃がいては大きな問題なのだ。
「陛下。お時間が」
「分かっている。」
私からそれ以上は言える言葉もなく、フィリーも考えるように一瞬黙って、二人で無言で見つめ合うような感じなると、急かせるように文官から声がかかった。
「いってらっしゃいませ」
なおも何か言いたげなフィリーを促すために、私はそう言ってもう一度頭を下げる。そういえば、朝は挨拶をすることも無いので、これをいうのは初めてなんじゃないかと頭の片隅で思いつつ。
「……いってくる」
かくして、時間がないのは確かなのでフィリーはそれ以上は何も言わないまま私を置いて足早に去って行った。
「それでは後宮までお送りいたします。」
フィリーを囲んでぞろぞろと去って行った一団とは別に、私を護衛するこれまた十数人の騎士がまだこの場に留まっていて今度は私を促す。
侵入者の襲撃以来、後宮に留まらず城全体がピリピリとした厳戒態勢なのだとルッティから聞き及んでいる。後宮もさらに警備が増員された。
そのおかげかあれから侵入者の襲撃は一度もない。同時にそれが捕まったという話も未だ聞こえない。
今日は世界王の誕生祭。
いつもの倍以上の人間が城の中にいて、侵入するにはある意味うってつけの日でもある。
(さて、今日はこのまま何事もなく済んでくれればいいけど)
先導する騎士の後に付きながら、そんなことを考える私の王妃としての役割は終わったけれど、実はまだ今日という日の仕事は終わったような。終わっていないような感じだったりするのだ。
何となく後宮に帰るのが億劫で、私は人知れず溜息を一つ付いた。