5-3
私が今いるのは塀の上。そこに立つ私の首筋に、背後の人物は刃を当てている。
塀の高さは私の身長の二倍はあり、幅はせいぜい私が足を乗せるだけで精一杯くらいだ……ということは背後の人物はどうしたって私と同じ高さに建てるはずがないのだ。
なのに、どうして私に刃を向けられるのだろう?
動かせない身体の代わりに、視線を下へと移すと塀の上に立つ私のすぐそばに、誰かの足が宙に浮いているのが見えた。
手品の類でなければこれは―――
「動かないでいただけますかな?」
私の視線の動きに気が付いたのか、首にあたる多分ナイフがぐっと押し付けられた。
緊張のためにほてり始めた肌に刃の冷たさが、ぞくりと体を震わせる。
「アイル!」
一方、フィリーの方は彼に近づいていた影に取り押さえられている状態で、私たちを見上げてもがいている。
この状況、結構ヤバイ。
叫んで助けを呼ぶのもいいかもしれないけれど、それでこの人物があっさりと逃げてくれる可能性も分からない。
何が目的ともしれない中、逆上されて切りかかられても面倒だ。
「いやいや助かりましたよ。」
…多分、成人男性が場違いなほど明るい声で言った。
同一人物の声かと疑うほどに先ほど私に囁いた声とは全く違う、殺気の欠片もない声。
「フィリー様、私は貴方様とお話ししたかったのです。そのためにこのチャンスを狙っておりました。護衛を振り切ってここ数日、ここで何をしているのか観察させて頂いておりました。お一人の時にお話をしようと言っても、どうせ逃げられるだけですからね。」
私の横から男が顔を突き出した。
不健康を絵にかいたような土気色の顔色に、目の下には大きな隈、奇妙なほどにカラフルな帽子からはみ出た前髪の間からは大きくぎょろりとした目が爛々と輝いている。
「なので、こうして人質にうってつけのお嬢さんが登場して頂けて、私は本当に助かりました。いやはや、フィリー様も隅に置けませんねぇ。」
「何者だ?」
どうやらこの不健康そうな男の狙いはフィリーらしい。
だけど、人質を取ってまで話したいことって何?するだけで人質が必要な話ってどんなの?…どうにもきな臭い予感がプンプンする。
だけど、フィリーの方には思い当たる節があるのだろうか?
こちら……というか、私の後ろにいる男を睨むフィリーの表情は慌てた様子もなく、彼の髪や服装がいつもと違うこともあるかもしれないけれど、見たことがないほど厳しく、初めて会う青年のような印象を私に覚えさせた。
「ああ!自己紹介が遅れましたね。私の名前はヤウ・ロスティーナ。レディール・ファシズの筆頭魔導師でございます。次期世界王たるフィリー殿下?お話聞いていただけますよね?」
その声と共にナイフと同時にヤウと名乗った魔導師の腕が首に巻き付いた。
―――レディール・ファシズ筆頭魔導師
―――次期世界王
無視できない単語がまるで世間話の一つでもあるように、軽い口調で続けられる。
フィリーがそれに眉一つ動かさない。その事が彼がその事実が事実であることを証明する。
(フィリーが……次の世界王)
<バルバトスの箱舟>事件のことは、世情に疎いと言われる学生の私でも知っている有名な事件。
亡命してきたレディール・ファシズの人々は、現在もこちらで暮らしている。
彼らは<神を捨てた移民>、良くも悪くもそう言われ亡命当初は好奇の目に晒されたらしいけれど、結局見た目は同じ人間にすぎないので、彼らがオルロック・ファシズの人間たちに紛れてしまうのは簡単な事だった。
ただ、世界王と巫女だけは別格だというのは当たり前なのだろう。
故に上層部は彼らの亡命は発表しても、その存在は国民たちにひた隠しに、亡命後彼らは一度たりとも人目に触れることも無く、世界王殺害説や、実は亡命していないんじゃないかという説も何度もとりだたされたりしたものだ。
だけれど、フィリーが次期世界王ということは、彼の父親ケルヴィン・ヘインズこそが亡命した世界王であり、彼の母親、ローズハウスに軟禁されているアイルフィーダさんが巫女という事……なのだろうか。
今はそんなことを聞ける雰囲気ではないが、多分、私の予想は当たっているんだろうな。
私のことなどアウトオブ眼中で見つめあう二人を窺いつつ、私は小さく息を吐いた。
▼▼▼▼▼
ナイフを突きつけたまま私を抱え込むと、ヤウは塀から飛び降りり、ふわりと軽やかにゆっくりとそのまま地面に着地する。
まるで魔法のような感覚に、なるほどこの男が筆頭魔導師かはともかく、魔導師であることは確かなようだと得心する。
これで彼が宙に浮いていたことも、影を実体化させてフィリーを襲ったことも説明が付く。
ヤウはフィリーが抵抗する様子を見せないことを確認すると、お菓子のようなちゃちい赤と白の縞縞ステッキを振ると彼を拘束していた影を消した。
代わりに私の足元をステッキで軽く叩いて、私の影を実体化させて拘束さ、自分はステッキを振り回しながらフィリーに近づいていく。
ステッキには派手なストラップやチェーンやらが付いていて、じゃらじゃらと耳に五月蠅い音がなった。
「私はまどろっこしいことが嫌いなので、本題をズバリ言わせて頂きますね。フィリー様、レディール・ファシズにお戻りになり世界王とおなりください。」
ヤウ・ロスティーナと名乗った自称レディール・ファシズ筆頭魔導師は、そう言ってニコリと…いやニヤリと笑う。
真剣味が伺えない声と言葉と同様に、彼は非常にふざけた姿をしていた。
一般的な魔導師という存在は黒い服に身を包むが、この男の服は目にまぶしいほどの純白。それに金やら赤、黄色やピンクなどの見ているだけで目に悪い配色をこれでもかといわんばかりに服にあしらった、非常に派手な服を着ていた。
まあ、それも個人の自由だと、個性だというのなら、彼にそれが似合っているのなら許してやろう。
だが、ヤウ・ロスティーナ。不健康すぎる彼に、その服は何一つ似合っていない。
いっそ、魔導師特有の黒いローブでも着ていれば、それはそれで貫禄みたいなものが出る様な気もするけれど、下手にこんな派手な服を着るものだから、彼という薄すぎる存在が、派手な洋服によって妙に浮きだっている。
まあ、目立ちたいというのであればそれは成功なのだろうけれど、魔導師って基本的に隠密行動ではなかったか?
「それをいうなら俺じゃなくて、親父に言うのが筋だろう。亡命したと言ってもあの人が世界王だ。例え世界王になる血を引いていたとしても、親父が世界王である限り、俺が世界王になれるはずがない。」
ヤウの言葉をフィリーはきっぱりと拒否した。
それは理解したけれど、フィリーの不思議な言い回しに違和感を覚えた。
「なるほど、その発言が出るという事はケルヴィン陛下は、世界王について色々お話されているということですね。てっきり甘いあの人のことだ。何も言っていないのかと思いましたよ。まあ、そうでなければ特に男子として問題なさそうな貴方が、黙って女子に化けて生活している訳もありませんな。女装は我々の目を少しでも欺くためのものだったのでしょう?実際、最近まで騙されていましたよ。ケルヴィン陛下の子供は王妃が生んだ兄と妹しかいないとね。」
フィリーの女装にはアイルフィーダさんのためだけではなくて、次期世界王としての身分を隠すためのものだったのか。
「そうさ。親父はいずれあんたみたいのが、俺を世界王にするためにやってくることは予想済みだ。だからこそ、俺もしたくない女装を続けていたし、惑わされないよう真実も教わっている。」
「ほう!真実?」
スッテキをくるりと回し、彼はそれをもう片方の手でキャッチした。
楽しそうに顔に笑みを浮かべると、ずいっとフィリーの顔を覗き込む。
今はフィリーが私に背を向けている状態なので彼の顔は見えないけれど、フィリーが僅かに体を仰け反らせたのは分かった。
「貴方がどこまでをケルヴィン陛下からお聞きになっているか私は存じ上げませんが、『世界王になる血』という言葉が出てくるのです。その条件に付いては無論お聞きになっていますよね?」
「ああ。」
こつこつと男のくせに高いヒールの音を響かせながらヤウがフィリーの周りを歩く。
ヤウの意識はもはや完全にフィリーへと向かっている。
私はどうにか自分を拘束している影を振りほどけないか腕を動かしてみるが、背中でしっかりと影によって押さえつけられた腕は全く動かない。
(なんていう馬鹿力よ。私の影)
フィリーが世界王になることを拒否しているらしい以上、このまま交渉が決裂することは決定的だ。
その結果、ヤウが力ずくでフィリーを連れ去ろうとした時、私が捕まったままではフィリーも逃げるに逃げれないだろう。
ここは何とか私が突破口にならなくてはいけない。
だけど、今の私の力では影を振り払うことは到底敵いそうもない。それとなく影の足でも踏んでみたけれど、痛覚がないらしく踏んだ感触はなかったけれど、私の足を退かす気配もない。
痛みを感じないのなら不意打ちをすることもできない。
(できれば最終手段は取りたくないんだけど)
そう思いながら右の親指にはまっている指輪に意識を向ける。
「ならば、聡明そうな貴方のことだ。その真実の矛盾には気が付いているのでしょう?」
親指の指輪を一纏めにされている指輪が嵌っていない方の指で外そうとしている私の目に、フィリーの肩が震えるのが見えた。
「その血を貴方が引いているのであれば、貴方は『妹』ではなく『姉』…いいや、『弟』ではなく『兄』でなくてはならない。少なくとも『バルバトスの箱舟』事件より前に巫女様のお腹の中に貴方はいなくてはならなかったはずだ。違いますかな?」
私にはヤウの言っている言葉の意味が分からない。
<バルバトスの箱舟>事件より前にフィリーがアイルフィーダさんのお腹の中にいたとしたら、少なくともフィリーは既に22,3歳であるはずだ。
だけど、彼は私と同じ18歳だと言っていたし、とても20代前半には見えない。
「……」
「沈黙は肯定だと判断させて頂きますよ?無論、貴方はそれを陛下に問い質したのでしょう?そして、それにあの方はお答えになりましたかな?」
フィリーはそれにも答えない。
それを見てヤウは上を向いて大声で笑いだした。
「あはははははは、やはりなぁ!!!」
その笑い声は常軌を逸したほどに大きく、近くの民家から誰か様子を見に来てもおかしくない程だったが、その気配はない。
案外、この魔導師によってこの場には結界が張られていて、音が漏れなかったり、人が近づかないようになっている可能性もある。
「では、これはどうです?貴方のお母上、巫女アイルフィーダ様がどうしてあれほど男という存在に恐怖を抱くようになったのか?どうして、あの方が幽閉されているのか?貴方は知っているのですかぁ?」
大声で笑う事をやめたかと思えば畳みかけるように続けるヤウ。
その言葉にフィリーの肩が震えて、その拳が握りしめられるのが見えた。
「フィリー!」
動揺を隠せない様子のフィリーの名を思わず呼んだ私だったが、影が動く私をぐいっと引き戻す。
多分、アイルフィーダさんのことはフィリーにとっては一番突かれたくない痛い部分だ。そして、このヤウという男はそれを知った上で、フィリーを挑発するためにそれを告げた。
ここで動揺してしまっては、相手の思う壺だ。
私は指輪を一気に抜き去ると、影を振り返ろうとした―――その瞬間に聞こえた声に体の動きを止めた。
「世界王になれば、それが分かるのか?」
そう言った背中を私は呆然と見つめた。
(今、何て言ったの?)
先ほどまで『世界王にはならない』と言っていたはずのフィリーの言葉を信じられない思いで私は聞いた。
だけど、そういった彼の顔は、背中を向け続けられているために見る事ができなかった。