5-2
クライン・スティリア女学校に公式な裏門は存在しない。
あるのは南側の正門と、東西にも出入りできる入口。
それぞれは生徒の門限が過ぎると施錠され、正門の傍に住んでいる守衛さんだけが門を開けられて、非常時以外は門限外で学校を出ることはできない。
なので基本的には学校が終わり、門限を過ぎてしまえば、学校外の人間と接触を持つことはできない。
だけれど、年頃の女学生たちが恋する乙女になった時、そんな制約は無意味なものとなり果てる。その結果、生まれた一つが【裏門】なのだ。
その裏門が50年以上続くこの学校の歴史のいつ頃にできたものなのか定かではないけれど、学校外の恋人や想い人との逢瀬のために裏門は脈々と受け継がれている。
校舎の北側に位置する寮の、そのまた北側には生い茂る木々が森や林という規模ではないけれどある。
夜になれば月明かりくらいしか頼りにならず、かなり気味が悪い雰囲気を醸し出す場所であるが、そこを通り抜けると、学校の敷地をぐるりと囲む高い塀のある一部分だけに、いかにも手作りな階段のようなものがある。
階段というにもおこがましい、ただの色々なものを積み上げて塀を上りやすくしただけのもの。
どうみても【門】ではないが、学生たちはこれを【裏門】と称して、門限が過ぎた時間でも寮を抜け出して逢瀬を重ねている。
私はそれを使ったことも見たことも無いけれど、学生内ではあまりに知られている公然の秘密であったため、フィリーの手紙を見た瞬間に、まっすぐにその場所を目指していた。
しかし、少し考えてみれば他校の生徒であるフィリーが知っていることには違和感を感じるはずだ。だけれど、この時の私はそれすらもすっぽりと抜けたまま、雑木林を全力疾走し、一人壁をよじ登った。
頭は空っぽのまま、ただフィリーに会わないとという使命感…いや、自分の感情に素直になっていた。
かくして、少しだけ呼吸を乱して塀に両肘を付けて、上半身を持ち上げたままの態勢で私は視線を彷徨わせた。
足は爪先立ちで、体は精一杯伸びていて正直楽な態勢ではなかったけれど、本当にフィリーがここにいるのか確かめる方が先だった。
学校の裏は閑静な住宅街で、夕食時を過ぎる時間ともなれば人気はほとんどなくなる。今日はどうやら逢瀬を楽しむ学生もいないらしく、私以外の学生も見当たらない。
一瞬、誰もいないと思って脱力感が体を満たした私の視界の端に、見慣れない光が瞬く。
それに目を凝らすと、離れていはいないけれど分かりにくい場所に人影が存在していた。
「フィリー?」
だけれど、学校から少し離れた街灯の下に佇む人影は、私が知るフィリーとは違う配色と姿だった。
いつもの長くふわふわとした亜麻色の髪ではなく、その人は街灯の安っぽい光を受けても尚神々しく輝く蜂蜜色とも思える金髪は短く、纏っている服は女性ではなく男性の服。
見た瞬間、ここにいるのがフィリーだと思い込んでいたため彼だと思った。
だけれど、俯いているため顔までは判別できないが、人影が見るからに男性だと分かると私はそれがフィリーでないと断じた。同時に大きな喪失感が襲ってくる。
(いない……)
フィリーから逃げ出したのは私。
彼といて傷つく自分が嫌で私は、自分で勝手に彼に二度と会わないと決めた。
なのに、フィリーが会いに来てくれたと思った瞬間に心は喜びに溢れ、それ以外のことは何も考えられなくなった。
そして、彼がいないと分かれば、それはそれでこんなにも辛いと感じている。
結局、私はフィリーの何一つも諦められていない。
それは本当にただ彼と会うという現実的な面でも、自分の感情からも逃げ出していただけなのだという事実を私に突き付け、強い自己嫌悪に囚われた。
「はあああ~~~」
出た溜息は深く重い。
(それにしてもフィリーの今日の手紙にも裏門で待っているって書いてあったけど、もっと遅い時間ってことなのかな? それとも―――)
ここにずっといてもいいけれど、街灯の下に如何にも誰かを待っていますといった風情の人がいる以上、多分ここに他の女学生が来るのも時間の問題な気がする。
二人の逢瀬を邪魔する訳にもいかないだろうし、かといってこのまま寮に帰ってしまってはフィリーに手紙の真意を聞くことはできない。
どうしたものかと思考を切り替えると、私の気配に気が付いたのか街灯の下にいる人がふいに顔を上げた。
(ごめんなさいね。貴方の待ち人じゃないのよ)
そう思いながら視線が合った瞬間に、その人が大きく目を見開き、その口が『アイル』と形作るのが分かった。
そして、駆け寄ってくるその人が髪や服装は違えどフィリーであることに私は大いに驚いた。
「久しぶりだな、アイル」
「フィリー」
塀の下までやってくると、フィリーはそういって笑った。
驚きとか喜びとか、様々な感情が渦巻いていて私は呆然と彼を見下ろすしかできない。
「降りれないか?俺が受け止めるから―――」
彼の口からは私がずっと彼の手紙を無視していたことを恨む言葉も、突然ローズハウスに行かなくなった不義理を責める言葉も出ない。
最後に会った時と変わらぬ彼の態度に、放心した状態から僅かに回復すると私は不思議と怒りに似た感情を覚えた。
「私に何の用なの?」
その感情のままに出た声は刺々しく冷たい。
フィリーに会えて嬉しいと、会えなくて辛かったと思う私はこんなにも感情を乱されているというのに、何一つ変わらない彼の態度が恨めしいのだ。
分かっている。フィリーは何も悪くない。これは私の我儘だ。エゴだ。
だけど、だけど…と私の心は止まらなかった。止められなかった。
「アイル?」
「突然ローズハウスに行けなくなったこと……貴方に直接は伝えなかったけど、レイチェルさんから聞いているでしょう?学校が忙しくなって今はとても行ける状態じゃないの。」
自分でもこんな言い方はないと思う。だけど、私はあえてそれを選んで言葉を紡ぐ。
どうせ、どんなにフィリーの傍にいたいと、諦められないと思ったところで、私の想いは届かない。
必ずそこは【彼女】に取って代わられる。
だったら…嫌われたっていい、諦められないままでいい、自己嫌悪だってお手の物だ…私はこのまま全力で逃げ切る。
「貴方からの手紙も今日やっと開けられたくらいなの……忙しいの分かってもらえる?」
「ああ…うん。ごめん」
フィリーの顔に浮かんでいた笑顔が消え、その瞳に傷ついた色が浮かぶ。
それに対して辛いとか悲しいとか思う資格は私にはない。私は言葉を続けた。
「それで?何か用があったんでしょう?どうかしたの?アイルフィーダさんに何かあったの?」
「え?」
のろりと動きも鈍くフィリーが目を瞬かせる。
きれいな色。初めてみた彼の鮮やかな色彩は夜の薄暗さの中でも際立っていた。
(アイツはもっと鈍くて、くすんだ色だったな。)
その姿に今のフィリーとよく似た配色の男を思い出した。だけど、惚れた欲目かフィリーの方が私には輝いて見える。
「話がしたいって手紙には書いてあったでしょう?何か急ぎの相談事でもあるのかと思って、私も何とか時間を空けてきたの。」
「うん。あった…さっきまで、ううん、ここ数日、アイルを待っている間…ずっとお前に会ったら、言いたい事や聞いてほしい事がたくさんあったんだ。……だけど、もうない。俺は―――」
そうして、言葉を僅かに切って、傷ついた表情を浮かべた顔を俯ける。
言っていることが矛盾していて、彼が何を話そうとしているか全然分からなくて、私もかける言葉を探す。
しかし、それより先にフィリーがもう一度こちらを見上げる。
そこには先程、浮かべいてた傷ついた子犬のような表情はなく、静かだけれど強い、私の知らない感情の色が浮かんでいた。
蜂蜜色の髪の間から覗く、青とも緑ともつかない宝石のような鮮やかな色が私を射抜き、私は不用意に心臓を高鳴らせた…その瞬間だった。ぞわりと背筋を悪寒が走り、私は体が小刻みに痙攣するように震える。
それは恋する乙女が感じる類の感覚ではなくて、明らかに自分の中の本能が危険に対する警告を発しているものだった。
(これって!!?)
思い当たる感覚に人気のない住宅街に視線を走らせ、私は足を塀にかけるとひらりと軽い身のこなしで塀の上に立ち上がった。
「アイル?」
突然動き出した私に怪訝そうな表情を浮かべるフィリーの背後に伸びる街灯の光によって作られた影が、にょきりと地面から立ち上がるのが見えた。
「フィリー!にげ―――」
あまりの非現実的な光景だが幻ではない。私はフィリーの背後に忍び寄る危機に叫び、塀を飛び下りようとした。
「おっと、静かにしてもらいましょうか?」
だけれど、体は何者かに後ろに引っ張られ、冷たい感触が首筋に当てらる。同時に低い声が耳朶を震わせた。